番外編:英士
 Trying snow





「誠二、寝ないの?」
「シゲにベッド取られた」


キッチンで片づけをしていた英士がリビングに入ってくると、ソファでぶすっとしている俺に問いかけた。そんな俺に軽く笑い、どこかから布団を持ってきて渡してくれた。


「大変な夏になっちゃったね、巻き込んじゃってごめん」
「英士が謝る事ないよ」
「あの人に礼を言わすのは至難の業だからね」


確かに。
そう頷くと、英士はちょっと微笑んで、向かいのソファに布団をかけて座った。
このメンツで少数のものを取り合えばこうなるのは目に見えている。俺と英士はいわば似たもの同士なのだ。


「英士、ヘリまで飛ばせるんだね。何でも操縦できるの?」
「一通りの移動手段は、あの人の下に就いたときに覚えたよ」
「すっごいよねー、いくら付き人ったってそう簡単に出来る事じゃないでしょ。ゲームやる前は何してたの?」
「レーサー」
「え、レーサー!?」
「といってもメジャーでやったのは1年もなかったけどね」
「え、なんでやめちゃったの?」


俺は英士の話に惹かれて頭を起こした。


「クラッシャーっていってね、クライアントのチームを優位にするために他のチームの車を弾く仕事をしてた」
「それって・・・、いいことなの?」
「まさか。いわば八百長だよ。金で雇われてた」
「・・・なんで?」


そんな事実、酷く英士には似合わない、と思った。英士は少しだけ苦く、微笑む。


「それまでの俺は普通にレースをしてたんだ。小さい頃から車が好きで、レーサーになりたくて、16でチームに所属した。ほかの事なんて忘れて走ってばかりだった。でも突然大金が必要になってしまって、それをチームの会長に相談したんだ。そしたら会長は俺を主力チームに入れるって言ってくれた。単純に嬉しかったよ。やっとトップの舞台に立てて、それで金まで手に入るんだってね」


英士は常に口端に笑みを浮かべていた。まるで遠い国のおとぎ話でも語っているようだった。


「でも俺の仕事はトップを走ることじゃなく、味方にトップを走らせるために他のチームを弾くっていう仕事だった。一歩間違えば自分も巻き込まれる危険なこと。並以上の技術がなければクラッシュは出来ない。でもトップを張れるほどの華がない。俺の力はそんな、中途半端に扱われる程度のものだった」
「そんな・・・」
「不思議と回を重ねるごとに罪悪感も消えて、何とか周りに知られる事もなく、金も入って気がつけば俺は落ちてた。小さい頃から憧れていた世界を、まさか自分のこの手で汚しているなんて、あの頃の俺には言えないよね」


英士は、自分の手を見つめた。

汚れた手。
それは、重い十字架のような、戒めだったに違いない。


「なんで、お金が必要だったの?」
「ある人をね、救うつもりだったんだ。それにはどうしようもないほどの金が必要だった。若い俺には、自分がその人を悲劇から救うヒーローにでも見えてたんだろうね」
「救えたの?その人」


俺の言ったことに、英士は一笑した。


「初めてだよ、そんな聞き返しをしてきたのは。それは誰なのかとか何の金かとはよく聞かれたけど。・・・結果的に言えば、その人は俺が救える人じゃなかったんだ。いや、俺なんかに助けなど求めていなかった。彼女は困っている、助けを求めている。・・・全部、俺の思い込みだったんだ」


英士はその時、初めて”ある人”を思い浮かべたのか、その人を”彼女”と呼んだ。


「結局はした金で雇われる始末。金もその人も、居場所も未来も、気がつけば何もなくなってた。だから俺は、」


英士は見つめていた自分の右手に、そっと左手を添えた。


「自分で腕を切った。完治などありえないほど、切り落とすつもりで」
「・・・」


添えた手の下、右腕のひじ下内側部分には、きっと一生消えないほどの傷が深く刻み付けられているんだろう。


「でも意外と人間はしぶといもので、レーサーからは転落しても人間をやめるほどの傷には至らなかったよ。特別な職業の人間なら誰でも思うらしいけど、レースをやめた俺に何が残っているのやら・・・。なんで一思いに死ねなかったのか、思いつめる日々が続いた。そんなときだったんだよ、あの人と出会ったのは」


今まで物語を話すように淡々と語っていた英士が、その時フッと目を細めた。


「衝撃だったね、あのときの俺には。俺はついに行き詰って、死のうとしてビルの屋上に上がったんだ。・・・・・










ビルの屋上から柵を超えて、ギリギリの淵に立って、下から吹き付ける風に身を委ねようとしていた。
右腕につけた深い傷跡から、血が流れるような振動が響く。

何の感傷か、涙が宙を舞う。


「―冷てっ・・・」


ビルの屋上の縁を辿った左うしろから、風に乗って小さな声が聞こえた。振り返ると、見た目的にまだ幼さを残す少女が、屋上の端、落ちるほんの10センチ手前で寝転がっていた。
少女はあごを上げて俺を見上げ、目が合った。


「そこ、落ちると死ぬけど」
「・・・」


少女は少し鼻声で言った。
強風でその声は聞き取りにくかったが、内容はなんとなくわかった。


「そんなの言われなくてもわかってるってーの」


冬の風のように乾燥した笑い声を響かせて、少女は俺から目を離した。


「っくしょい!あーさみー」
「・・・」


小さな彼女は、くしゃみをした反動でころっと落ちてしまうんじゃないかと思った。初冬に差しかかろうかという季節、薄着一枚では寒いに決まっている。

こんな年端もいかない少女がこんなところで何をしているのか、少女はあまりに周りの風景とミスマッチだった。


「・・・ここで、何してるの?」
「昼寝」
「こんなところで?」
「下だとゆっくり寝れなくて。このビルこの辺で一番高いじゃん?気持ち良くない?馬鹿と煙は高いとこが好きってゆーらしーし」
「・・・」


いまいち、掴み所のない少女だった。


「君くらいの年でも疲れるなんて思うんだね」
「それだけ今の世の中生き難いってことだろ」


見た目とは裏腹な、大人びた高尚なセリフ。
少し笑えた。


「俺は、君くらいの時は希望しかなかったな。希望と夢と自信で、毎日が流れるようだった」
「ふーん」
「どうして、こんなことになったのかな」
「あんたが弱かったからじゃねーの?」
「・・・」


風に乗る少女の言葉に胸を打たれて、一瞬で笑みをかき消された。


「・・・そう、その通りだね」
「不器用なヤツには生き難い世界だよ。べつにあんたに限った事じゃない。少なくてもあたしの周りはそんな奴らばっかだよ」
「・・・そう」
「戦争の時代にでも生まれてりゃな。夢見ることも、たかがこんな事で悩む事もなかっただろうに。ただ生きる事だけ考えてりゃ良かったんだ」
「そうだね。だとすれば、俺は幾らか、幸せだったのかもな・・・」


少女は仰向けに寝転がって、目を閉じたままクッと笑った。


「死ぬの?」
「・・・」


少女は笑い終えた後で、フッとつぶやいた。


「感謝するよ。今の俺には絶望ばかりだと思っていたけど、まだ、笑えるんだな」
「・・・」
「ありがとう」


相変わらず空に向かっている少女の頭に言った。
すると少女は起き上がり、ビルの下へ足を下ろして空を見上げた。


「あの世って、あんのかなぁ」
「どうかな」
「死んだら、死んだ人に会えんのかなぁ」
「どうだろう」
「もし会えるんならさ、死ぬのも悪くないよな」
「会いたい人でもいるの?」
「・・・どうだろ」


少女は下げていた足を抱きかかえて、猫背の背中を更に丸めた。
地面などよく見えないほど高いビルの屋上。そのままコロン、と落ちていってしまうんじゃないかと思った。


「アンタは誰かいる?死んだ人」
「そうだな、2年前に友達が死んだな。会えるなら会いたいな」
「でもこっちは自殺だよ?」
「大丈夫。あっちも自殺だ」


だったら会えるかもな。
ははっと笑う少女は年相応に幼さを帯び、会話を伏せればまるで子供だった。


「なぁ、ゲームしようか」
「え?」


少女は立ち上がり、バランスをとるように両手を広げて、ビルの縁を歩いた。


「そーだな。あっちむいてホイ知ってる?」
「・・・?」
「あれ、知らない?ジャンケンしてあっちむいてホイってやつ」
「ああ、それは知ってるけど・・・」
「それやろう」
「・・・なんで?」


少女は風に揺られて落ちそうになり、おとと、と体制を持ち直した。
俺は心の中でひやりとして、でも少女は俺の前まで来て俺を見上げる。


「先に3回勝ったほうが勝ち。負けたら罰ゲーム。あたしとアンタ、二人分生きる事」


二人分・・・?


「勝ったら?」
「飛ぶ」


少女はピッと空を指差して、何の臆面もなく笑った。


「ダチに会えるぜー」
「・・・」


本当に、純粋に遊ぼうと言う子供のように、少女は青空のごとく爽快な笑顔を見せていたんだ。













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