番外編:翼
 Wing





僕は、小さい頃から自分で動く必要がないくらいに周りに人がいた。毎朝大きなベッドで目が覚めて親より一緒にいる時間が長い世話係りが着替えを持ってきて、広いテーブルで好きなものが並んだ朝食を食べて車に乗って学校に行く。
学校が終わったらまた車で帰って勉強や習い事をいつものようにこなして、また広いテーブルで好きなものが並んだ夕食を食べて食後にはお茶を飲んで夜になればまた大きなベッドで寝る。

僕の家はかなりお金持ち。らしい。
そう、学校の連中がよく言ってくる。

翼さんはどんなもの食べてるの?
翼さんの家ってどのくらいあるの?
翼さんのホテル、きのうテレビに出てたね。

赤ん坊の頃から当たり前だと思ってきた生活は、実は世間では当たり前ではなかった。僕は恵まれた環境に生まれた、選ばれた者だった。そう自覚したのは僕が小学校に入った頃だった。

休み時間になるとみんな外に遊びに行くけど、先生は僕は行っちゃ駄目だって言った。怪我すると大変だからって。
夏の時期に教室で僕が「暑いな」って言ったら、次の日には学校全体にエアコンがついていた。ちょっと口をついただけだったんだけど。
帰り道に同じクラスの子達が一緒に遊ぼうって誘ってくれたけど、校門で待ってた運転手に「困ります」と言われて車に乗せられた。それ以来、誘われなくなった。


外の世界は、いつも速いスピードで消えていった。僕は外を無意味に歩いたことがない。いつも車の中から通り過ぎていく景色を見ていた。覚えているのは、信号の数とその信号が変わる時間だけ。


「いいよなぁ翼さんは。あのリムジン4?5?」
「4500万」
「いーなぁ、うちのなんて古いだけで安もんだよ」
「俺なんて父さんのお下がりだよ?俺用に車くらい買えっつーの。俺がかわいくないわけ?って感じ?」
「実はアナタは養子なのよって?はは!」


こんな会話が日常で、ものを見るたび値段の話。
僕は値段なんてどうでもいい。気にする必要もない。


「先週の株式の終値見た?もう日本は終わりだな」
「しょうがないよ、戦争があれば石油も減るしそのしわ寄せはこっちにくるんだ。総理が戦争するって言い出さないだけマシさ」
「戦争になったらどーする?」
「人殺してもわかんないよね」
「とりあえず先生殺しとく?」
「うわ、あっぶねー」


金銭の感覚がずれると、物全ても感覚がずれて、それがずれているとさえ思わない。


「ねぇ翼さん、今度のパーティー出る?どうせくだらないだろうけどさ。ヒロキも行くだろ?」
「親父が無駄なパーティーは出るなって言うからさ。カズヤ行くの?」
「行くよー。うちは放任だもーん」
「いーなぁ。翼さんは?」
「行かないよ。くだらない」


寄ってくるヤツはいっぱいいるけど、僕の名前を呼び捨てにするヤツは誰もいなかった。それだけ、少しは世間から抜きんでたこいつらよりも、俺は抜き出た存在だった。

ひとつ年を重ねるたびに近くにいた人は減っていき、新しい人が寄ってきた。俺があまり人と話さなくなっていったから。みんなには「下を見下ろすことしか知らない、恵まれたおぼっちゃま」に見えていただろうけど、俺はただしゃべらなかっただけだった。

疲れた。笑うの。



3年生になる頃にはもう誰も周りに寄せ付けなかった。一人でも生きていけるってことがわかったし、そのほうが楽だとわかった。
みんなくだらない。ガキっぽくてバカで無節操で。

でも僕はだからって抗わない。だって、これは運命だから。
格式の高い家に生まれたことも、このままこの家で生きていくことも、全ては生まれたときから決まっていたこと。僕の人生も、関わる人間も、全部はじめから用意されていたもの。だったら、ただ流されていたほうがラクじゃないか。


学校が終わっていつもの時間通りに校門に歩いていった。


「あれ?」


うちの車が来てない。こんなことは初めてだ。携帯電話を取り出して電話をかけた。


「ちょっと、何やってんの?」
『すみません、千草様がテニスに行くから乗せていけと申されまして、今至急向かっているところですので・・』
「はぁ?姉さんの用事になんでアンタが出向いてんの?」
『すみません』
「もういい」


何か言いかけた運転手の声の途中で、電話を切ってため息をついた。
サイアク。

でも今は1月、1年でも一番寒い頃。刺すような冷たい風に身をすくめながら、ただ立ってるのもバカバカしいから、迎えの車なんて無視して歩いて帰ることにした。そうさ、何も車なんてなくったって歩いて帰れば良いだけのこと。
道ならいつも窓の外を見ているからわかってる。いつもよりずっとゆっくり流れる景色の中を僕は歩いて帰った。


「えーと」


確か、この交差点を右。その後はあの信号でまた右で・・・、あ、本当に結構覚えてるな。


「あ・・・」


あんなところにプラネタリウム。1年生のときもっと大きいところだけど、行事でプラネタリウムを見に行った。あ、あっちには図書館がある。古びた建物、市営かな。この公園こんなに広かったんだ、噴水まである・・・。

ゆっくり流れる景色の中には、車の速さでは見過ごしてきたものがたくさんあった。


「・・・あれ?」


僕はハタと気づいて足を止めた。
しまった。周りを見すぎて道を外してしまった。ここどこだ?

僕は少し道を戻してみた。でも回りは全て見覚えのないところで僕は周りを見渡して一歩も進めなかった。


「うわ・・・もしかして・・・」


迷った・・・?
情けない・・・。この僕が迷うなんて。たかが学校から家に帰るまでの道のりで。


「あーもー・・・」


僕はカバンから携帯電話を取り出してボタンを押した。


「・・・」


電話をかけて、なんて言うの?迎えを待たずに歩いて帰ったら迷いましたって?迎えに来てくださいって?
出来るか、そんなこと。

あーあ・・・


今にも降り出しそうな白んだ空は、まるで僕を蔑んでいるように見えた。


「・・・うるさいな」


にゃぁ・・・


「・・・え?」


足者にすっと何かが通って僕は下を見た。
公園の入り口に向かって走っていった猫が僕のほうを振り返ってもう一度鳴いた。


「なんだ、猫か」


にゃぁ

汚い猫。野良かな。猫は僕の前で座って顔を舐め始めた。
僕は猫から目を離して道を探した。そんな僕に猫はついてきた。


「・・・」


うわ、ひょっとしてずっとついてくる気?こんな汚い猫連れて行けるわけないじゃん。

僕はちょっと走った。でも猫は走れば走るほどついてきた。犬じゃないんだから、追いかけてこないでよ。それでも猫なの?猫のプライドないの?


「・・・」


どこまで行っても付いてくる猫を見て僕は足を止めた。
すると猫は僕の足元を通り過ぎて走っていった。

・・・なんだ、僕についてきてたわけじゃないんだ。ただ行く方向が一緒だっただけ?

その猫を見ていると、僕はその猫が走っていった先を見てギョッと目を開いた。猫はポストの上を見上げてにゃあにゃあ鳴いていた。そのポストの上に、・・・人が乗っていた。

は?何してんの?普通ポストに乗る?

こんな寒い中、長袖だけどシャツ一枚。ポストの上でしゃがんでいるその人は、髪の長さからして女?そしてたぶんまだ、子供。
そのへんな人間は、下から聞こえる猫の声に気づいて下を見下ろした。


「あれ、山川さんじゃないっすか」


にゃぁ


「最近どー?メシ食ってる?またやせたんじゃないの?」


にゃぁー


「あたし?そーでもねーよ、上々だって」

「・・・」


何この人・・・。猫と喋ってる?

呆れて見ていると、猫がそのヘンな人との会話の合間にふと俺に振り返り、また鳴いて、その声に教えられるようにしてそのへんな人も僕を見た。


「迷子?」
「え?」


ヘンな人はポストの上から僕に声をかけた。
なんで、俺が迷子だなんて・・・。


「家どこ?送ってってやってもいいけど、今は動けないんだ。あ、山川さん送ってってあげたら?メシ食わせてくれるかもよ」
「ちょっと、何言ってんの?僕はべつに迷子じゃ・・」


いや、迷子なんだけど・・・


「・・・ていうか、アンタは何してんの。そんなとこ乗って、非常識だよ」


ヒジョーシキ?
ヘンな人は俺の言葉を反復してケラケラ笑った。なんか馬鹿にしたような言い方。なんかハラ立つ。


「そーだね。お子様の教育上良くないね」
「ていうか、さっきからボウヤとかお子様とか。アンタ何様?」
「アンタはどちら様?」
「・・・。アンタに名乗る名前なんてないよ。それに名前聞きたかったらまずそっちから名乗りなよ」
「うん、ごもっとも」


ヘンな人は深く頷いた。
でももう僕の名前を聞かなかった。僕に名前を名乗りたくないとでも言うの?


「ねぇ、山川って、この猫のこと?」
「そーだよ。正確には元、山川さんだけど」
「元?捨てられたの?」
「前は立派な一戸建てに住んでたんだぞー?首に鈴つけてな、たまにメシ分けてくれたもんな」


親しげに話すへんな人に、猫はポストの上にポンと乗りスリッと頭をつけた。


「で、今はアンタが飼ってるの?」
「いーや」
「じゃあなんで一緒にいるの?」
「お前だって友達と会ったら話くらいするだろ?」
「・・・」


道端で、友達と会う?

友達って?


「ないの?友だちいないんだ」
「なんだよ、そんなのアンタに関係ないだろ」
「うん。ない」
「・・・」
「お前んちどこ?知ってたら送ってってやるよ」
「お前って言わないで。いいよ、迎え呼ぶから」
「迎え?何お前おぼっちゃま?」
「まぁね」
「へー、じゃあなおさら送ってかなきゃ。なー山川さん」
「たかるき?あんた家出人?」
「いーや、ゲーマーです」
「は?」


意味がわかんない。まったく会話噛み合わない。

当たり前か。こんな野良犬みたいな人間と、この俺が。
バカバカしい。帰ろう。


「そろそろいーかなぁ。じゃ、行くか」


ポストの上からポンと飛び下りるヘンな人は、そのまま猫と歩いていった。

ちょっと、僕は?


「・・・」


何頼ってんだ。僕はいつだってなんでも一人でやってきたし、何でもこなしてきたはず。


「・・・」


・・・でも、

ぼくは、どうしたら・・・


「ぁ・・・」
「おーいおぼっちゃまー、何してんだよ早くこーい」


前から呼ぶヘンな人と猫が振り返り足を止めた。


「心配すんなよ、なんもたかんねーから」
「・・・」


そう言ってまた歩き始める猫と、ヘンな人を追いかけて、僕は歩き出した。


「知ってるか?この花、コンクリートの下から生えてんだよ」
「え?」
「コンクリートぶち破ったんだよ?こんな花がさ、すごくない?」
「はぁ・・・」


そういいながら道端に咲く花をヘンな人は本当に尊敬する眼差しで見ていた。
そしてまた歩き出して、今度は横断歩道の信号機の上に乗っかっている鳥の巣を見上げて「あれ一週間くらいで作っちゃったんだよ?すごくない?」と、また尊敬の眼差しで見上げた。

バカバカしい。そんなどうでもいいこと。


「アンタ、この真冬にそんな格好で寒くないの?」
「寒いさー、でも動いてりゃ寒くないよ」
「ほんとに家ないの?親は何も言わないの?学校とか、」
「どーでもいいじゃんそんなこと」
「・・・」


どうでもいい?
大事なことばかりだよ。コンクリートの下から生える花より、信号機の上の鳥の巣よりもずっと。


「ポストの上で何してたの?」
「高オニゴッコ」
「は?」
「知らない?オニゴッコで、高いところにいれば捕まんないの」
「・・・バカにしてる?」
「おおマジメですよ」


・・・バカだ。これは間違いなく正真正銘のヘンな人。


「やりたいなら混ぜてやってもいーけど?なー、山川さん」
「・・・」


何もかもが合わない。このヘンな人が楽しそうに話すことは、俺にとってはどうでもいいと思うことばかり。俺が大事だと思うことは、この人からすればどうでもいいことのよう。


「楽しいよ?捕まったら死ぬ思いだけど」
「何それ」
「いや、マジなんだって」
「馬鹿じゃない?」
「ほんとマジだって、実は今見つかりやしないかとヒヤヒヤしてんだから。悪いけどオニがきたら走るからな、お前が捕まりそうになっても助けないぞ」
「なんで俺までやってることになってるのさ」
「オニがきたら逃げるのは常識だろ!なぁ山川さん!」


にゃぁ


「・・・オニゴッコなんて、いくつだよアンタ」
「いくつだろーと楽しいじゃん、なー山川さん」
「・・・」


にゃぁ


「・・・ヒマなやつら」
「だから真剣にだなぁ、・・・お!ヤベ、あれオニじゃねーのっ?山川さんやべぇ!走れ!」
「え?え?」
「お前、帰れるか?ひとりで!」
「え、ちょ、置いてく気っ?」
「じゃあお前も走れ!」
「はぁ?」


オニだ!捕まるぞ!

ヘンな人と猫は夕暮れに染まる赤い街中を走り出し、俺も、一緒に走った。


きたきたきた!やべ、どっか高いとこ!高いとこ!
焦りながらも笑ってるヘンな人と身軽に走る猫は高い場所を探しながらキョロキョロ、街中を見渡す。

そんなにいろんなものを見てるから、コンクリートを突き破る花や、信号機の上の鳥の巣に気づくんだ。


「きたきたー!逃げろー!」
「わ、ちょ、ええっ?」


車の中からじゃ判らなかったもの。
自分の足で歩いて見つけたもの。
人に教えられて気づいたもの。

その日僕が手にしたものはぜんぶどうでもいいものばかり。


でも僕は、ヘンな人と野良猫と一緒に走りながら、高い場所を探していた。














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