Rush hour




 俗に言う通学・通勤ラッシュはその名のとおり、毎日それはすごい込みようだ。ほとんど隙間もないほどこの動く箱の中に人がひしめき合う。少し時間をずらしたところでみんな考えることは同じでそう変わらない。
 学校の制服を着たヤツはもちろん、スーツを着た人も時間が同じなら合わす顔は大体いつも同じ。毎日顔を合わせるから会話はないにしろ顔見知りにくらいなるものだ。覚える気がなくても覚えてしまう。こうして毎日をスケジュールどおりに生きて、それぞれが個別なのに同じ電車に乗ってる俺たちは、なんて模範的日本人かと思うのだ。

 込み合う朝の満員電車。困るのはまず温度。夏のそれは地獄絵図と言っても過言ではない。
 そして暑さ以上に苦しむのが匂いだ。俺は男だから、男臭い・汗臭いには慣れてる。もしかしたら俺もその部類に入るかもしれないし、季節限定だからまだいい。
 だから俺的に一番きついのは香水だ。個人の自由だからつけるのは勝手だが、そう近くもないのに異常なまでの匂いを発散するやつがいる。俺は香水なんて持ってもないからそれへの関心はゼロだ。だから余計に嫌煙してるのかもしれないが、友達に聞けば十中八九苦手だという答えが返ってくるあたり、あれは一種の公害ともいえる。
 香水といえば女かと思いがちだが、振り返って見てみれば胸元をやけに開けてジャラジャラ装飾品をつけて念入りにセットした茶色い髪が命だとも言わんばかりの男だったりもすると軽い殺意すら覚えるのだ。突然豪雨が襲ってそのセットと匂いがすべて流れてしまえばいいと思う。

 痴漢騒ぎも困る。込み合う電車の中で悲鳴が上がると一瞬にして車内は静まり返る。ざわつき程度にあった音が水を打ったようにピタリと止まり、その悲鳴の出所が注目されて、周囲にいるサラリーマンはみんなすかさず手を上げる。自分は何もしていないぞという主張だ。
 犯人はそれが本当だろうと間違いだろうと次の駅で降ろされ駅の構内へと連行される。同じ電車に乗り合わせた者からすればただの余興だが、俺ももう少し年を取ればそのサラリーマンたちと同じように両手を挙げて満員電車に乗らなければならなくなるのかと思うと、大人になるのも気が引ける。

 あとこれは、あまり言いたくない話だが、俺も遭遇したことがあるのだ。
 後ろから手が伸びてきて腰の辺りを触られて、でもそんなの込み合ってるから仕方ないかと思って態勢をずらすと、その手が追いかけてきたのだ。「え?え?」と俺の頭の中は疑問符が山盛り。誰か周りの女の人と間違われているのか、それともただ本当に当たってるだけなのか、それともやっぱり、そういうシュミの人なのか。なんにせよまさか「この人痴漢です!」などという台詞が吐けるはずもなく、込み合う電車の中を無理やり突き進んで逃げるしかなかった。
 あまりの不快感を紛らわそうと、電車から降りた後で会った友達にそれを話したら大笑いされた。笑い事ではない。こっちは本気で恐怖を感じたのだ。もう電車に乗ることすら嫌だと思った。女はまだいいよ、女性専用車両なんてものが出来たのだから。男はたとえ男専用車両が出来たって恐怖だ。逃げ場はない。


 そうこの電車通学になった数ヶ月の出来事や視察を並べてみたところで、俺が普段電車の中でどう過ごしているのかが分かるだろう。俺は電車の中で大体人を見てる。最初こそ吊るされた広告や過ぎ行く景色を見たりしていたが、毎日毎日同じものがそんなに感動や新感覚をもたらしてくれるわけでもない。元々俺は一歩離れたところから観察する、ということが好きだったのだ。
 昔から何かときょろきょろする子供だった。そして人間観察を好んでいるからその人がどういう人かをその人と話す前に大体分かったりする。話すようになって「なんでそんなに知ってんの?」とよく言われる。
 しかしあまりきょろきょろしてるのも怪しいから、俺は目だけで広範囲を観察する馬のような技術を体得したのだ。そしてそれはサッカーにも必要な技術でもあって意外と重宝している。

 と、これまで何かと嫌なことばかりを上げてきたが、本当はそんな嫌なことばかりじゃないのだ。
 俺は今、ある観察対象にハマっている。
 いろんな人をこっそりと見るのが好きな俺だが、最近はそればかり見ている。実はずっと同じ時間に同じ電車に乗っていた、ということが分かってから毎日それを探しては上手く観察できる位置をキープして見続けている。
 俺自身、何にそんなに興味を惹かれているのか分からない。でも、見ずにはいられないんだ。
 その、彼女を。

 その人は、俺が降りる駅より4つ手前にある駅で降りる学校の制服を着ている。俺はブレザーの高校だから白シャツ・セーター・ジャケットというのが常套になっていて、彼女の着る真っ白い輝くまでのセーラー服に黒いリボンというのはひそかにうちの学校でも大人気だったりする。そうでなくてもそのセーラー服を着ていれば痴漢遭遇率30%増、というのが俺の見解で、今まで何度もそのセーラー服を着た女の子が泣きながら電車を降りていくのを見たことがあるから俺は内心ヒヤヒヤしてるのだ。

 だから彼女を見るうちにその周囲の人まで見るようになって、あいつは怪しいかもしれないとか、あの男はこの前痴漢してたとか、勝手に彼女の身を案じては心の中で警告している。もちろん届くはずはない。だから俺は、どうしても彼女が危険そうだと思った時はいつもある程度保っている距離を詰めて、彼女に程近い後ろに立ってサラリーマン等の魔の手が伸びないように俺が”彼女に一番近い男”になっているのだ。

 何故そんなにもその子を気にするのか分からない。ただ単に見た目が好みなのだろうか。俺はこういう子が好きなのだろうか。ただ気になってるだけだろうか。
 彼女を最初に見た日も分からないのだ。いつの間にか俺は彼女を目視して、頭の中にインプットしていて、毎日目を留めるようになり、今では目が放せない。俗に言う、一目惚れというものなんだろうか、これが。

 人っていうのは不思議なもので、一言だって話したことがないのにこうも毎日一緒にいると、一方的にではあるが親しみを覚えてしまうのだ。日常的に1・2メートル範囲内で数十分一緒にいる、というだけで、俺の中ではもう、まるで1年間隣同士だったクラスメートくらいの親しみを感じている。それがただのクラスメートではなく1年間偶然にも隣同士の席になり続けた、くらいの縁を感じているのは間違いなく俺の勝手な親近感だろう。
 ・・・例えそうだとしても、ただ毎日電車で会うだけのその子と俺が対面する日は、果てしなく来ない。
 俺は彼女の後ろに立つクセがついてしまっているし、彼女は彼女でいつも窓の外を見ている。
 彼女は何を見つめ、何を思い、何にそんなに惹かれてるのかと、彼女の後ろから同じ景色を見て俺は毎日そんなことを考えていた。彼女はジッと窓の外を見ていて、俺も彼女越しに窓の外を見る。いつも同じ景色には興味がないと思っていたけど、彼女が見ていると思うと俺まで彼女を理解しようと一生懸命見てしまう。
 彼女が電車から降りていった後で我に返って「何やってんだ俺は、馬鹿か」と頭を冷ますけど、次の日にはやっぱり彼女と同じ景色を見続けてるのだ。なかなか立派な重症患者だ。

 それでも、窓の外を見ている彼女にとって背後にいる俺は限りなく赤の他人。俺は彼女が友達から呼ばれている名前を聞いて勝手に覚えてしまっているけど、間違っても彼女は俺の名前なんて知らない。たまに電車を降りようとする彼女と対面したり目を合わせたりしてるからこの満員電車の中に毎日俺がいることくらいは分かってると思うけど、言葉を交わす日は、ない。

 そんなの当たり前なんだけど。ただ一方的に俺が見ているだけなんだから、それが当たり前なんだけど。
 俺はそれがすごく淋しくて、苦しくなってる自分に気づいた。
 こっちを向いて欲しい。俺に気づいて、見て欲しい。その声を俺にかけて欲しい。俺の名前を呼んで欲しい。
 ・・・そういう思いが現れて募って、完璧俺は彼女が好きになっている、と、分かった。

 そんな風に、いつもと同じように満員電車で彼女の少し後ろに立っている時だった。
 いつもと変わらず真剣に窓の外を見ていた彼女が突然俺に振り返ってバチッと目を合わせたのだ。
 かなりドキッとしたけど、俺はその目から少しも目が放せなくて俺たちはジッと見合ってしまった。

「あの、すいません、降りるので・・・」
「え、あ、」

 俺は彼女で頭が一杯になるあまり、彼女が降りる駅に着いていることに気づかなくて急いで道をあけた。
 彼女はまた「すいません」と小さく頭を下げながら俺の前を通って、ひしめく人の中、電車を降りていく。
 初めて彼女の声を間近で聞いた。彼女が俺に向かって声を発した。
 たかがそんなことで俺の心臓は早鐘のごとく打ち付けて、全身からあらぬ熱が発散されるのが分かった。
 激しい動悸に胸が痛いくらいで、喉を通りづらい呼吸で苦しさすら感じた。
 ヤバイ。かなりの重症だ・・・。
 俺はさっきの彼女の言葉を何回も頭の中で思い返しながら、上昇し続ける熱を何とか抑えようとした。

 するとふと、足元に小さな白いぬいぐるみのようなものが転がっているのに気づいた。
 俺はそれを知っていた。彼女のカバンについていた、小さい鈴の首輪をつけている猫のマスコットだ。
 このすし詰めの人の間をすり抜ける途中で紐が切れてカバンから落ちてしまったようだ。
 俺はすぐにそれを拾い上げて彼女が通り抜けていったほうを見た。彼女はもう電車を降りて友達と話しながら階段のほうへ歩いていってしまっている。俺はたぶんほんの2・3秒の間に「どうしよう」を10回くらい繰り返して、でもドアが閉まるベルが鳴り響くと何も考えずにすぐに人を掻き分けてドアのほうへ急いだ。

 迷惑そうな顔をしている人の間を通り抜けて、乗り込もうとする人と逆に外へ飛び出た。何とかドアが閉まる前に電車から転げるように降りて、彼女が歩いていった先を見た。
 彼女と同じ制服を来た女の子が何人もいる。でもそんな中でどれが彼女かくらいすぐに分かった。俺はすぐに彼女を追いかけ走って、どんどん彼女の背中に近づいた。
 でも、どうしようか、どう声をかけようか。
 彼女の名前は知ってるけど、突然呼んだらかなり怪しい。名前なんて知らないはずの人間だ、俺は。
 そして俺は追いかけながら、またどうしようを頭の中で100回くらい繰り返して、今にも階段を下りていきそうな彼女の背中に口を開いた。

さんっ・・・」

 俺の隣で走り出した電車が速度を上げて、ガタガタンとうるさい中で俺の声に、何人かの人が振り返った。
 その中で彼女も、周りの友達と一緒に振り返った。
 彼女が俺に目を留めたことに、俺はまた身体を強張らせ上手く次の言葉が続かなかった。でも目の前の彼女は俺の右手に目を留めて、「あ」と口を開けて自分のカバンを見た。そうして自分のカバンにない俺の手の中のこのマスコットに気づいて、俺のほうへと駆け寄ってきたのだ。

「すいません、ありがとうございます」

 そう、俺の前まで来て笑う彼女が手を出しながら言った。その言葉は確かに俺に向かって、俺の前で、俺を見て、俺のために発せられた。
 俺はそれにものすごくテンパってしまった。俺は彼女に一方的に親しみを覚えている気でいたけど、とんでもない。実際に確かに彼女からもたらされた声と言葉と笑みは、想像と期待以上に俺を落とし入れた。

「あの・・・?」
「・・・」

 俺の前で手を出したまま、彼女は少し首をかしげて、不思議そうに言った。彼女の名前をはっきりと呼んでいながらそれ以上何も言わなくなったことと、手の中のものを彼女に差し出すどころか微動だにしないせいで。だって俺はそれどころではなかったから。
 こんな日がくればいいと思っていた出来事が、今起こっているのだ。
 何か言わないと。・・・そう思って「あの、」と口を開き、彼女もようやく何か言い出そうとした俺に少し目を大きくさせて聞く態度を示した。

「す、すきです」
「え・・・?」

 ・・・え?

 彼女と同じ言葉を、俺も数歩遅れて呟いた。今の流れを理解できずにきょとんとしている彼女と、俺は、きっと同じ顔をしてるだろう。それほどまでに俺自身も、突然何を口走っているのか理解に苦しんだ。

 俺たちは互いを見合ったまままたそれを繰り返し、しばらくどっちからも何もアクションを起こせなかった。
 俺は自分が発した言葉の意味を理解してないわけじゃない。彼女も突然言われた言葉を聞き落としたわけではない。ただ互いが互いに本当にビックリして、しばらく動けなくなってしまったのだった。

 その後ラッシュアワーが過ぎ去って、俺たちがようやく人らしい言葉と動きを取り戻すのは、永遠に程違い時計の針がようやくカチリとひとつ動き出す、その後だった。




Rush hour

だららっとベタ文を書きたかったのです。