変わりゆく僕を。変わらない君が。




 ただいまーと声をかけると同時に背負ってたカバンを下ろすと、居間から顔を出した母さんが明るい声でおかえりと返した。

「遅かったね、電車こんでた?」
「ううん、途中で酒井のおばちゃんにつかまった。これもらった」
「あらミカン。うちにもよく持ってきてくれるのよ、平馬がテレビ出とったねー言って」

 ビニール袋に入ったミカンを母さんに渡しスニーカーを脱ぎ捨て奥へ入っていくと、母さんに「揃えなさい」と怒られる。あんたは昔からくつの揃えられない子と小言を付け加えられるが、これでも自分の家では割ときちんとしている。実家に来ると気持ちも行動もたるんでしまうのは、手元を離れても母にとってはいつまでも子供のままだというある種の親孝行と言えよう。

「お昼は食べたの?」
「テキトーに」
「お腹すいてるの?何か作ろうか?夜はお父さんお鍋がいいって言ってたからお鍋にするけど」
「いいよ、ミカンで」

 実家に戻ってくるのは去年の暮れに亡くなった祖母の葬式以来だ。生まれて18年間過ごした家は、この場にいた時こそ気付かなかったが自然と自分の居座る位置が染み付いている。居間ならテレビの真正面に座るし、食卓なら自然と父さんが座る位置を避ける。奥の和室で笑う祖母の仏壇に手を合わせ、お茶を淹れながら他愛ない世間話を家中に響く声で話す母の声に生返事をして、ビニール袋から取り出したミカンを半分に割って。

「いつまでいるの?」
「明日には帰るよ、練習あるから」
「練習あるの?ワールドカップの間はリーグも休みってお父さん言ってたわよ」
「リーグは休みでも練習はあるの」

 明らかに落胆する母が俺の前に熱いお茶の入った湯のみをコトンと置く。
 少し渋めの一番茶は俺の好きな具合の味と熱さ。
 いや、母さんが淹れるお茶がいつも少し渋めだからそれを飲み続けてきた俺にはそれが一番馴染んでいるのだ。自動販売機で買うお茶はどうも薄くておいしく感じない。

 しばらく俺の近況やら家族の近況やらをミカン食べつつ話し、だんだん日が暮れ始めて母さんが鍋の準備に取り掛かかると、俺は実家でありながら時間を持て余した。この家にある空気も聞こえてくる音も全部慣れ親しんだものなのに、どこか一歩離れた位置から見てしまうのは、この家から自分を除外して考えてしまうのは、多少なりとも俺がこの家から巣立ち大人になったということなのだろうか。

 俺は少しの着替えが入ったカバンを持って2階へ向かった。
 踏みしめるたびギシギシしなる階段は、都会のいとこが怖いと言っていた気持ちが今さらながら分かる。幼いころの自分はよくこんな階段を平気で荒々しく上り下りしていたなと思う。
 黒ずんだ床板が真っすぐ伸びていく廊下を進むと、自分の部屋のはずのドアにデカデカとユニフォームを着た俺のポスターが貼ってあった。絶対に母さんの仕業であるそれに「正気か・・・」とゲンナリしながら目を伏せドアを開けた。

「・・・」

 ドアを開けた自室に足を踏み入れた瞬間、ああ・・・と思い出した。
 部屋の壁と天井、四方八方に広がった、青。
 高く吹き抜ける夏の空のような。ちっぽけな自分を包みこむ雄大な海のような。
 狭い部屋なのに、一瞬にしてどこか別世界へと連れて行かれるかのような、この青。

 ・・・が塗りつぶした、俺の部屋の壁紙。

「母さん、ちょっと隣行ってくる」
「隣? すぐ帰ってくるんでしょ?」

 階段を駆け下り居間を通り過ぎ、母さんにうんと答えながらスニーカーに足を突っ込んだ。
 敷地的に隣と言っても互いの庭と細道を挟んでいるから多少距離がある。
 それでも隣の家とうちは同じ年の子供がいたおかげで他以上に交流があったから隣と言えばこの家しか示さなかった。

 実家に帰ってくることさえ疎かになりがちな俺は隣に顔を出すのもかなり久しぶりだ。
 互いの家をよく出入りしていたのなんて小学生のころまでだったし、中学になれば俺もあいつもお互いに自分のやりたいことに熱中していって「遊ぶ」ということはなくなっていった。高校はそもそも学校が違っていたし。

「こんにちは」
「あら平馬君? 久しぶり、帰ってきてたの?」

 いくつもの子供の声が折り重なってる間から俺の姿に目を留めたおばさんが窓辺に駆け出てきてくれた。習字教室を開いているこの家は昔から近所の子供のたまり場となっていて、奥の玄関よりも庭に面した大きな窓が教室への入り口となっていて、窓辺に乱雑に並ぶたくさんの靴や黒く汚れた廊下と座布団、漂う墨の匂いと壁に貼られたいくつもの作品が昔のままそこにあった。俺もユースに入るまでは習いに来てたから懐かしい。

 おばさんが生徒の子供たちに「プロのサッカー選手なのよ」と自慢げに説明するけど、今の時間に集まってる子供たちはまだ小学校も低学年くらいだから誰もがポカンとした顔をしていた。中にはサッカー好きな男の子もいたけど俺の名前には反応を示さない。代わりに山口ケースケの名前には反応を見せた。ちぇ。

もいるわよ、たぶん起きてると思うけど上がってく?」
「はい、お邪魔します」

 上の階を指差して言うおばさんに誘われ、昔と同じように窓から入った。
 俺のあとをついてくる子供たちがおばさんに叱られ教室に戻っていった。
 隣の家の階段は俺の家と同じようにギシギシとしなる。
 まるで黒い墨が点々と突き当たりの部屋まで続いてるかのように、俺の足は迷うことなく真っすぐその部屋へといざなわれた。久しぶりに訪れるこの家の間取りなんてまさか覚えちゃいないのに、この部屋への行き方は足に染み付いているようだ。油臭いからすぐ分かるってのもあるんだけど。

、入るよ」

 廊下の先の部屋はドアが開けっぱなしで、階段を上がったところからその部屋の異様さはツンと鼻を刺すシンナーの匂いと同時に漂ってきた。足を踏み入れることもためらうほど紙やら木片やら粘土やら、絵の具やら筆やらバケツやら。昔と同じ、相変わらずのジャングルっぷり。

「・・・あれ、へーまだ」

 そんな部屋のどこに本人が居るのか、一瞬では見極められないくらいにこの部屋は雑多すぎて。
 だけどそんな中からひょこりと顔を出し俺を見上げた、

「またすごいな、何作ってんの」
「卒制。に、なるはずだったもの」
「なるはずって?」
「留年したー」
「なんでまた」
「就職蹴ったから卒業延ばした」
「蹴ったって、よくおばさんが許したな」
「去年取った賞金全部あげたから許してくれた」
「賞金って?」
「コンペとかデザインとか絵本の挿絵とか」
「ふーん、賞金っていくらくらいもらえるの?」
「全部でー・・・200万くらい?」
「200万、すげ。それで食っていけるな」

 そうは言っても、企画系のコンテストは作品を出し続けると逆に選ばれなくなるらしい。
 床に散らばってるラフ画を手に取りながら話すけど、の目と手は作品から一切離れない。昔から何かを作ってるときは話しかけても右から左へと素通りするだけで聞いちゃいないようなヤツだった。今は返事が来るだけマシになったというもの。

「それどうすんの? 卒業しないんじゃ出すとこないじゃん」
「うーん・・・」
「ていうか、どういうとこに就職したいの? 物作れるとこじゃないとイヤなんだろ?」
「うーん・・・」
「ていうかなんで就職蹴ったんだよ」
「なんていうか・・・、アートでのお金の稼ぎ方って分かるんだよね」
「稼ぎ方?」
「万人受けするとか選ばれやすいとか」
「ああ」
「そういうのばっかり作ってると、作りたいものとの線引きが出来なくなるからな。そういう物作りしていきたいのかそうじゃないのか、まだ分かんない」
「いろいろ考えてるな。大人になっちゃって」
「そりゃあ何にも考えずに生み出せるほど私天才じゃないからね」

 意外だ。は天才だと思っていた。
 いつもいつも他の何にも目もくれずそればかりに突き進んでいたから、そうして誰もが目を惹くようなものを作り上げていたから、類稀なるものだと俺も周りもそう思っていた。

 昔のは自由だった。美術の授業でみんな絵を描いてるのにだけ紙を切り刻んでいたり、四角い紙を飛び出して階段に絵を描き始めたり。
 そしてはいつも発想を飛び越えた。が新しい絵の描き方、色の混ぜ方、物の作り方をしては人を驚かせて、みんなこぞってそのマネをしたりして。
きっとはスゴイ人になるんだろうってみんな思ってた。俺は今でも思っている。

 けど誰だって自由な時間は限られている。
 どんな人間だって当たり前に大人にならなきゃいけない。働かなきゃいけない。生活していかなきゃいけない。

「大人になるってつまんないよな」
「そんなこと平馬に言われたくないなぁ」

 白い粘土で手を汚すが肩を揺らして笑った。

「なんでさ」
「平馬は今もボール蹴って生きてる」
「そーだけど・・・、だからってただ楽しいわけじゃないし。サッカー選手なんて命短いし」
「ふーん」
「なんか俺、最近先のことばっかり考えてるな」
「たとえば?」
「いつまでサッカー選手でいられるんだろとか、その後は何して生きてくんだろとか」

 またはふふと肩を揺らす。

「何がおかしいんだよ」
「平馬は好きなことを仕事にしたからね、そういうパターンの人生は平馬が歩いてるから私はもういいかなって思えてきた。幸い私には習字の先生という道もある」
「ずるいよな、稼業があるヤツは」
「ジェットコースターに乗ってるときにあと何分しかないって考えてるのはバカだって」
「は?」
「乗ってる時間なんて短いのに、あと何分あと何分ってばっかり考えてるのはバカげてる。終わる瞬間まで思い切り楽しまなきゃソンだろうって」
「何それ、誰かの言葉?」
「うん。ウケウリ。そのせいで私は就職を蹴ってしまった」
「ジェットコースターねぇ。たしかに似たようなもんかな」
「才能があろうとなかろうと、結局人が行きつくとこは同じなんだな」
「才能あるヤツが言うセリフ?」
「お互い様」
「どーだか」

 ふぅと軽く息を吐きながら作品から手を離したは、うしろに手をついて作品を見上げた。
 天井まで到達しそうな真っ白い、何かのオブジェ。
 これを卒制にしたとして、きっとこれをどうやって外に持ち出すかは考えていないだろうな。

「ずっと色が決まんなかったんだよね。もう白でいっかなって思ってた」
「ていうかそれ、なに」
「さぁ、好きにして」

 手についた白をざりざリこすりながら、が床に転がる絵の具を手に取った。
 パレットの空いたスペースにぶりゅっと絞り出す絵の具は、原色青。
 それに微妙に色と水とを混ぜながら好みの色を作りだしていく。どこかで見た色。

「今日帰ってくるまで忘れてたよ」
「なにを?」
「俺の部屋のアレ」
「ああ。あれは傑作だよね」
「ほんとにね」

 俺の部屋の天井、壁一面に広がる空は、高校の時にが描いたものだ。
 プロ行きがなかなか決まらなった俺にがくれた色。
 最初は壁に貼ってたポスターやサイン色紙なんかが全部剥がされてて真剣に怒りそうになったが、じゃあ消すかと言われると、が塗りたくった青は、四方八方から風を感じるほどに清々しかったから、もったいなくてやめた。
 思えばそのすぐ後だった。スカウト受けたのは。

 そんな色を作りだすが、なんだかよく分からないこの大きな物体に色を付けていく。色は一色青なのに、白い粘土と混ぜる分量、混ぜ具合を変えるだけで色は段違いに変化を見せる。の手は新たな色を生みだす。

「あの空の色だ」

 魔法のように、見るだけで人の心を揺さぶる奇跡を起こす。

「違うよ、サムライブルーだ」

 ふと浮かべてた笑みを止めた。

 深い空の色。サムライブルー。
 小さいころからずっとずっと、追いかけ続けている深い青。

「代表に落ちてヘコんでる平馬に捧ぐ」
「・・・それ、シャレにならないから」
「気にするな、4年なんてあっという間だ」
「留年したヤツに時間を軽んじる発言されたくないね」
「あと4年しかないんだぞ、さっさと帰って練習しろ」
「ムカつく」

 掴みかけていた指先からするりと抜けおちていった青を、物に封じ込めてが息を吹き込める。
 相変わらずそれがなんなのかはサッパリ分からないけど。
 きっとの心の中にはこんな形の夢や希望が詰まってるんだろう。

 たかが4年、されど4年。
 短い選手生命の中で、その4年がどれほどの意味を持つか、見失いかけていた俺にが言った。

 遊べ。楽しめ。
 いつか、必ずやってくる終わりの瞬間まで。

 走れ。掴め。
 あの空の青を。あの栄光のブルーを。





変わりゆく僕を 変わらない君が

nichica*20万ヒット企画
ジェットコースターの話は井上雄彦の「リアル」でヤマがいったセリフです。