偶然にも最悪な少年




 その異変は突然やってきた。
 朝起きて大きく欠伸をしながら部屋を出て、眠気を覚ますために顔を洗い、着替えて友達と一緒に朝ごはんを食べに食堂に向かう、その時。食堂のガラス戸を開けようとしたら中から下級生の女の子たちが出てきたから私は一歩下がってその子たちを先に通した。目の前を通っていく女の子たちは私を妙にジローっと見ながらくすんだ声で挨拶をしてきて、そのままコソコソ何かを喋りながら離れていく。なんだ? と思ったけど、特に気にせず食堂へ入った。朝ごはんを食べにほとんどの寮生たちが集まっている食堂。だけど、その日はいつもとなんだか違った。すれ違う子みんなが妙に私を見てくる。テーブルに座ってパンをかじってる子たちすら私を指さしたりして何かを喋り合ってる。

 あれれ、なんだこの空気。私何かある?

「ねぇ、なんか私、へん?」
「なにが?」

 私の前でトレイにお味噌汁を取る友達に聞いてみるけど、何もない。
 気のせいかと私もお味噌汁を取り、コップにお茶を入れてごはんをよそって。

 だけど、

「・・・やっぱ、なんか妙に見られてる気がする」
「何を?」
「わかんないけど、なんか、みんなこっち見てない?」

 寝癖でもついてんのかな。まさか眼やにでもついてんのかな。
 そう思って窓ガラスで自分を見てみたり友達に頭や背中を見てもらうけど何もないと言う。それでもやっぱりごはんを食べ終えて食堂を出ていく時も、準備を整えて学校に向かう道中も、妙に周りから視線を集めてる気がしてならなかった。
 それもなんだか、好奇というか、変に痛々しい視線。下駄箱で下級生の女の子とぶつかったら「すいませーん」とまったく悪びれない謝罪を受けて小さくイラッとしてしまった。

「なに、なんなの? あたし何かした?」
「なんだろーね。なんか下に反感買うようなことした?」
「してないよ! ていうか下の子と関わることすらあんまないし!」

 この大きな学園で、部活をやってる子ならまだしも私は週に一度しか活動のない美術部だし、委員会だって月に一度集まればいいほうの美化委員だし、反感どころか接する機会だって滅多とない。
 なのに今日は朝からずっとこんな調子で、最初は下級生の子たちから変な目で見られるなぁ程度だったのがお昼になる頃には同じ学年の子たちからもチラチラとおかしな視線を注がれるようになった。

 なんだなんだ、なんなんだ?

センパーイ」

 そんな日が何日か続いたある日、私はようやくその原因と思われる事実を知った。それは部活がある木曜日、部員が少ない割りに広い美術室の片隅にある水道で筆を濡らして慣らしている時だった。
 数少ない美術部の後輩、2年生の真子ちゃんが美術室に入ってくるなり私のもとへ駆け寄ってきた。いつも通り過ぎれば明るく挨拶をしてくれるけど、そんなによくおしゃべるする子でもない、本当にただの部活の後輩な子。

「やっと会えたー、もうずっとセンパイに会いたくてしょうがなかったんですよー」
「え? なんで?」
「もうずっと聞きたくて聞きたくて!」

 真子ちゃんはなんだか興奮気味に楽しそうにコロコロ笑う。
 かわいいなぁー顔ちっちゃいなぁーなんて思いながら、だけど私に聞きたいことなんて全く想像もつかずに何を?と聞き返した。
 すると真子ちゃんは両手で口を押さえながら声を押し隠し私の傍まで寄ってきて、そして私はその渦中にいながらやっと、そのことを知ることになる。

センパイって、サッカー部の笠井君好きだったんですか?」
「・・・・・・。ん?」

 きょとん、とする時間が長く、長い間をもってしても真子ちゃんの言ってることが分からず単純にまた聞き返してしまった。
 私が、サッカー部の誰がすき?

「え、だれ?」
「だから、サッカー部の笠井君ですよー、2年の」
「ああ、笠井君。わかるわかる」
「わかるじゃなくってぇー、センパイアレつけてましたよね」
「アレ?」

 私はいまだ真子ちゃんの言うことが分からず、しきりに首を傾げながら質問を質問で返し続けていた。

「今すっごい噂になってて、私も見に行っちゃいましたもん。まさかセンパイがそういうタイプだと思わなかったから信じられなくて」
「え、ちょっと待って、何を見に行ったって? 噂ってなに?」
「だからフェンスの南京錠ですよ。誰かがアレ見つけて、今2年生の中じゃすっごい噂になってますよ。もしかしてもう笠井君と付き合ってるんですか?」
「・・・・・・ええっ?」

 びっくりして思わずびしょぬれの筆を手放してしまい、筆がカラーンと床に落ち滑っていった。だけどその筆を拾う余裕もなく私は驚いて、周りの少ない部員たちも私たちの話題に耳を向けているようで。

「なにそれ、私知らない、どこにあったのっ?」
「え、違うんですか?ふつうにいっぱいついてるとこにありましたけど」
「うそ! 私じゃない、私そんなのつけてないよ!」
「え、そうなんですか? じゃあ、アレって、笠井君?」
「・・・いやぁ、そんなこと、普通する?」
「ですよね、しませんよね。じゃあ、・・・いやがらせとか、ですかね」

 真子ちゃんの声がだんだん小さくなっていく。私に悪いと思いだしたのか、哀れみだしたのか、とにかくはしゃいでいられる空気じゃなくなったことに気づいたんだろう。

 いやいやいや、そんなことより!
 この男女別棟の武蔵森学園の、男子と女子とを分け隔ててる真ん中フェンス。
 それがいわゆる「愛の隔壁」と呼ばれ、フェンスの一部には一緒にいたくてもいられない多くのカップルたちが鍵に自分たちの名前を書きそこへつけるという、あの、誰もがちょっとは憧れる愛のしるし。
 それが、なんで、彼氏もいない私の名前と、会ったことすら数回しかないサッカー部の2年生の、笠井君の名前が・・・?

「あ、ほんとだ」
「うわぁ」

 放課後、出来るだけ早く、まだ誰も通り過ぎる人たちがいないうちに、私は友達とその「愛の隔壁」スポットへと走り、真子ちゃんがいう私と笠井君の名前が入った鍵を探し、そして見つけてしまった。
 それは本当に、小さな鍵の金色の面に  笠井竹巳 と、名前がはっきり書かれていた。

「なんっ、なんなんだこれー! 私しらなーい! 私じゃなーい!」
「おちつきな、騒ぐと目立つ」
「だって、こんなの、なんだってこんなこと! だれだー!」

 ガッシャン! ガッシャン!
 その小さな南京錠はやっぱり錠だけあって引っ張ろうが叩こうが金網から外れる気配もない。他の数多くの光るカギたちはたくさんの光を反射して溢れんばかりの愛を示しているようだけど、これは違う、なんか違う!

「やだも、なんでこんなことすんのーっ? ヤダー!」
「うーん、字からしてやっぱ女だね。凝ったことするなぁー」
「感心してないで、これどうにかしてよー!」
「いやムリでしょこれは。鍵より金網切るほうがまだ出来そうかな」
「ペンチ! 枝きりばさみー!」

 どうりで、どうりで主に下級生からの視線が痛いと思った!
 ただでさえこの学校じゃ、サッカー部はジャニーズにすら勝るとも劣らない人気集団といわれてるのに、なんて恐ろしい嫌がらせ!

「だけどなんで笠井君なんだろうね。もしこれが三上君とか渋沢君だったらアンタもう息の根ないと思うよ」
「お、おそろしいこと言わないで・・・!」
「でもこれでだいぶ絞れるんじゃない?ようするに笠井君のファンってことでしょ」
「なんで・・・なんで笠井君のファンなんて子がこんなの作るのっ?笠井君のファンならこんなの気分悪いじゃん」
「うーん、あんたが勝手にこれつけたと思わせて、笠井君に嫌われるように仕向けようってこんたん?」
「なにそれ! ていうかなんで私が笠井君っ?」
「あんた去年の学祭の時から噂されてたからね、今はもうだいぶ下火だけど」
「あんな古い話を、今頃っ?」

 そう、そもそも笠井君とは、この間の学園祭で少し関わっただけだ。
 この共学のくせに完全男女別棟の武蔵森で、男女が共同になる数少ない行事である秋の学園祭の、最終日にグラウンドで行われた後夜祭。大きな木材を組み立てた中で燃え上がる炎を囲んでのオクラホマミキサー。

 自由参加のそれは、それでもここが最後の男女作業と多くの生徒が参加する毎年の一大イベントだ。みんなで大きな円を作って誰もが楽しそうに踊り回る。みんな楽しそうに手をつないでは離れて最後の夜を楽しむ。
 特にサッカー部の人と踊る数秒間は武蔵森の女子にとっては目の色が変わるほどの夢の時間。武蔵森史上、今年のサッカー部は過去ナンバー1のアイドル率を誇るとまで言われていたからには、人気ある人と踊った女の子は泣きじゃくってしまったこともあった。

 だけど私はその輪には混ざらずに、ひとりグラウンドの隅で遠巻きにその図を見ていたのだ。ちょっとその輪に混ざる気になれず、グラウンドを囲むフェンス際に座り込んで楽しんで見ながらそれが終わるのを待っていた。
 そして音楽がぴたりと止まり、ぐるぐる回り続けていた人たちがふと止まった。
 何回繰り返されるんだろうと途中まではターンを数えていたけど、あまりに長いから途中から挫折してただ傍観していた私は、やっと終わったかと立ち上がろうとした。その時、ぐんと髪を引っ張られ立つことが出来なかったのだ。
 何事かと後ろを見てみたら、背もたれていたフェンスに髪が引っ掛かってしまっていて、絡まっているのか引っ張っても取れずに私はフェンスから離れることが出来なくなった。

 目の前ではまだダンスの余韻を楽しむようにみんながなかなか帰ろうとせずにグラウンドにたむろっている。私はもうここにいる必要はないのに、だけどフェンスに引きとめられてその場から去ることができないという情けない醜態に陥った。
 そんな、暗いグラウンドの隅でフェンスに向かってもがいてる胡散臭い私に声をかけてくれたのがその、笠井君だった。多少、ほんと少しだけ面識のあった笠井君は、どうかしたんですかと綺麗な敬語で話しかけて、私の情けない事情を聞くと私の髪をフェンスから取ってくれた。

 ・・・その、私からしたら醜態をさらしただけの状況を、誰かに見られたらしく、学園祭からしばらくの間は私と笠井君が付き合ってるんじゃないかという噂が女子棟に流れたのだった。サッカー部の誰かと付き合うなんてただでさえやっかみを受ける噂で、しかも私はその時ちょうど付き合ってた人と別れたばかりだったから、余計に悪い風に目立ってしまった、ようだ。

「や、やばい、早くこれどうにかしないと、笠井君に気づかれたら私、超勘違いなヤツ・・・!」
「もうこれだけ女子棟に広がってるなら男子のほうにも広がってるんじゃない?」
「ぃやもーサイアク―! 取れてー!」

 ガッシャンガッシャン!!
 だけど、私の気持ちをあざ笑うように、鉄の錠は一向に外れてはくれない。もう、誰なんだ、マジで許せん!そんなにも私を陥れたいのか、私何もしてないのに・・・!!

 そうこうしていると、次第に放課後の賑わいを醸し出し始めた学園内に人の声が聞こえてくるようになる。ダメだ、もうこれ以上は誰かに見つかったらさらにヤバい状況になる。とりあえずこの場から離れるしかない、と私は涙ぐみながらフェンスから離れようとした
・・・そのとき。

「センパイ」

 フェンスから数メートル離れたところで、どこか遠くから声をかけられ足を止めた。その声は確かに、フェンスの向こう側からで、私はフェンスの、南京錠のほうへ振り返った。

「かっ・・・笠井、くん・・・」
「こんにちは」

 ご、ご本人の登場です、どうしましょう。
 内心じゃ発狂しそうなくらい慌ててる私だけど、フェンス柄の笠井君は相変わらず丁寧な敬語でフェンスの前まで歩み寄って、私も、先輩として・・・そんな笠井君を前に取り乱すわけにもいかず、私は心臓を押さえて押さえて笠井君に一歩近づいた。

 笠井君は、気付いてるのかな。
 その、・・・あなたの目の前にあるブツに・・・!

「あの、笠井君・・・、それ、なんだけど・・・」
「え? ああ、コレですか?」

 うわぁぁ知ってる、やっぱり知ってるー!

「あのね、あの、それ、私じゃないよほんとに! ほんとーに私じゃないの!」
「え?」
「たぶん誰かが、その、かるーい気持ちで冗談っぽくやったんじゃないかなぁーって思うんだけど・・・、とにかく私じゃないから! めっそうもない!」
「はぁ・・・」

 笠井君はとても落ち着いてフェンス越しに私を見つめている。
 こんなにも必死に弁解をする私に呆れてるのか、信じてくれていないのか・・・。そりゃそうだ、もしかしたらもう笠井君は男子棟で十分からかわれたりしたかもしれないのだ。うわぁぁなんだか、とても申し訳なくなってきた!

「ほんと、ごめんね、からかわれたりしなかった?」
「いえ。センパイは?」
「私はぜんぜん・・・、てわけでもないんだけど・・・。でも私よりさ、笠井君がなんか嫌なことされてたらどうしようってもう、それがほんとに申し訳なくて、ほんとに、ゴメンナサイ!」
「いえ、僕はぜんぜんですよ」

 必死にペコペコ頭を下げる私と相変わらず落ち着いてる笠井君。
 いったいどちらが先輩なのかわかったものじゃないけど、笠井君は本当にいい人で、怒るどころか嫌がるどころか、ずっとほのかな笑みを浮かべていた。

「なんか、僕も申し訳なくなってきました」
「いやそんな!もー誰だか知らないけど、つきとめたらすぐ鍵奪って外させるから!」
「あははっ」

 その時初めて笠井君は顔を崩して大きく笑った。
 その笠井君が、あまりにしつこく笑う意味を、私は分からずに。

「僕こそごめんなさい、まさか、そういう風に伝わるとは思わなくて」
「え?」
「安心してください。これは嫌がらせとかじゃないですから」
「は?」
「鍵は僕が持ってます」
「・・・・・・は?」

 突然思わぬ事実を話し出す笠井君の前で、私はぽかんと口を開けた。
 笠井君はいまだにククと笑いを引きずってる。

「あと、軽い気持ちでもないし、冗談でもないですから」
「ちょっと待って、よく意味がわからないぞ? つまり、これをつけたのって・・・」
「はい、僕です」
「・・・・・・」

 笠井君はフェンスに引っ掛かった南京錠を男の子のしては白くて細い指先でもてあそぶ。
 なぜかその指と、まるで女の子みたいな二人の名前の文字が、しっくりなじんで見えた。

「なんでこんなこと・・」
「なんでって、この壁のせいでまず会えることがないから、意識してもらうには何したらいいかなって考えたら、こうなりました」
「こうなりましたって・・・」

 大人しい、だけど一途にサッカーをがんばるいい子だな、なんて印象しかなかったひとつ年下の彼は、突然思わぬ知略で私を陥れ、今私の目の前で別人のように笑っている。

 これは、誰だ。
 私の知ってる笠井君じゃない。

「コレ、外した方がいいですか?」
「え・・・」

 まだ混乱する私に、もう笑い声どころかほのかな笑みも浮かべない笠井君がまっすぐに問う。
 この、ふたりの名前が並んだ南京錠。

「そりゃ外し・・」
「まぁ今は鍵持ってないですけどね」
「・・・」

 私の要望を聞いておきながら答えを待たずに結果を出す。
 これは誰だ。誰なんだ。

「あ、もう行かないと。じゃあセンパイ、今度フェンスのないところで話しましょう」
「ちょっと、これ! これのカギ―!」
「次の話次第ですよ!」
「ちょっと待て、こらー! コレ外せー!」

 がっしゃーん! がっしゃーん!
 愛の隔壁とまで呼ばれた聖なるフェンスを、私は力の限り押し引いて壊してやろうとした。だけど笠井君は今度は小さい子供のようにケッラケッラ笑って遠ざかって行った。

「うーん、まさにアイドルは虚像だね」

 うしろですっかりいることを忘れていた友達がポツリと言った。
 忘れてたといえば、もうすっかり放課後になった学園内は、男子棟女子棟の双方から多くの目がこの愛の隔壁に集まっていた。
 ひとり取り残されたその場で、壁を蹴破る勢いの私。
 そんなのまるで気にする様子もなく、遠くで一度振り返り、青空の下清々しく笑って手を振った彼。





偶然にも最悪な少年

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