海で拾ったラブレター




 空と海の境界線を見ていると、やっぱり地球は丸いんだなと思う。
 荒れた波を見ていると、地球って生きてるんだなって思う。

「ね、カズ」
「あ?」
「だから、地球ってやっぱ丸いよねって」
「なんいいよっとか」

 白い空は爽快には晴れず、穏やかでない波音はカズの声を飲み込もうとしていた。目の前を歩いているのだから聞こえないことはないけど、カズは一度振り向いただけですぐにまた前を向いて数歩前を歩いているからちっとも会話にならないのだ。ムッとした私は、それでも気を取り直して口端を緩める。

「でもさ、海はどこでも同じだね。九州の海もここの海も」
「ここの海は汚かよ。内海やけんな」
「海入った?」
「入る気にもならん」

 さく、さく、と砂を踏みしめてカズは前を歩き続ける。隣を歩こうと足を速めてみても、それに気づいたカズは振り返って「なんね」と隣を歩こうとする私を後ろに戻す。いくら久しぶりだからって、まさかカズに手ぇつないでなんていわないよ。だけどさ、隣くらい歩いたっていいじゃない。何ヶ月ぶりだと思ってるの。
 だけどカズは生粋の九州男児なので、いつでも私を少し後ろに歩かせたがる。まぁ、私も少しは九州で過ごした女。そんなカズの数歩後ろを大人しく歩いてあげる。でもそうすると、背丈の割りに(おっと)歩くのが速いカズは私を気にせずどんどん歩いていってしまって、酷いときはそのままはぐれてしまうのだ。
 後ろにいるはずの私がいないことに気づくとカズは戻って探してくれるけど、見つかったら見つかったでこっぴどく叱られるから私は引き離されないように必死だ。根っからの九州人でない私に、ネイティブ九州男児はなかなか扱いづらく、理解不能なところが多い。

 私はぴたりと足を止めてみる。
 小さな会話すら飲み込む荒れた波音は、私の足音など簡単に無きものにする。前を歩くカズは砂を足ですくうように砂浜に跡を残しながら、先へ先へ歩いて私から離れていく。

 でも、カズはふと振り返った。

「なんしょっと。はよこい」

 足を止めて、私が歩き出すまで待つ。
 昔カズと歩いててはぐれてしまったときも、私を見つけたカズは歩くのが遅いんだと怒鳴りつけた後で「ここ持っとけ」と服の裾を握らせた。それがなんだか意表を突かれかわいく見えて、笑いが止まらなかったのを覚えてる。

 そして再び、カズの足跡(というか何かを引きずった跡みたいだけど)の上を私も歩く。昔に比べずっと大きくなった背中。風になびく髪を押さえるキャップと日に焼けた腕。本当にサッカー選手かというくらい細い脚と、砂の中を潜っては現れるビーチサンダル。
 そりゃ人間小さくなることはないけど、カズは見るたび大きくなっているようで、きのう空港で会ったときですらまた幾らか成長しているようで、本当、どんどんと知らないところへ勝手に行ってしまう。この背中を見ながら、何度服の裾を放してしまいそうになったか分からない。

「あ、カズ見て、あれ喫茶店じゃない? 入ろうよー」
「そんなもん後でよか」
「後っていつ」
「後は後や」

 だから、何の後よ。ただ砂浜を歩き続けてるだけじゃない。
 それでもカズは立ち止まってる私に「ええからついてこい!」と怒鳴る。だからついてこいってなに!どこへ向かってるんだどこへ!・・・と言い返したいけど言えない!(そして渋々後を歩き続ける私)

「ねぇカズ、サッカーどう?」
「まあ、ぼちぼち」
「ぼちぼちって?」
「ぼちぼちはぼちぼちよ」

 だーかーらー。
 まぁ、私だってサッカーやプロの世界のことの何を説明されたって分かるわけないのだけど、でも、地元の大学に通い続ける私と、夢を叶えて社会に出て、サッカー選手なんて華やかな職業についてしまったカズとでは、何も繋ぎとめられるものを感じられない。
 しかもこんな日本の端からど真ん中へ飛んでいってしまって、海も空すらも別物に見える知らない土地で、カズは私の知らない生活を送り私の知らない人たちと出会い、私とは違う毎日を送り私とは違うことを考えて生きている。

 前へ前へと突き進んで行くカズ。
 はぐれてしまったときの比じゃないほど寂しい。
 服の裾を放してしまうしかないのかと、怖い。

「・・・」


 カズの歩いた跡を見つめながら歩いていたら、振り返っていたカズに気づかずぶつかりそうになり、その直前でオデコを殴られた。

「いった!」
「前見て歩けっちいつも言っとうとや。やけんいつもはぐれるんじゃお前は」
「そんなの口で言えばいいでしょ! なんでなぐんのよ!」
「そんなんどーでもええけん。ここ飛べ、踏むなよ」
「はあ?」

 そう言ってカズは、別に何もない砂の上を数メートル飛んでみせた。意味が分からず首をかしげるけど、カズはここまで飛べとパタパタ砂を踏みしめる。

「意味がわかんない」
「えーから飛べ」

 カズが痺れを切らすように言うから、私はカズの足が指し示すところまで飛んだ。まるで無意味に見えるその行動に、カズは「よし」と満足してまた前を向いて歩き出す。
 前を歩くカズはざくざくと深い足跡を残しながらまた砂浜を歩き、途中で引き返したり、突然海のほうへ歩き出したり、くるーっと大きく回ってみたり、そう広くない砂浜をぐるぐる歩き続けた。途中幾度と後ろに、私に振り返り、私がちゃんとついてきているか確認するように目を合わせては満足げに歩き続ける。何年経って理解しがたし、九州男児。

 空は、だんだんと翳ってきていた。風が強く荒っぽい波の上を船が汽笛を鳴らしながら通っていく。晴れていればきれいな夕暮れかもしれない海辺も、今にも雨が降りそうな灰色の世界。

「カズ、ごはんどうする?」
「お前がなんか作ればよか」
「じゃあ買い物行こうよ」
「ああ、後でな」

 後で。後で後で。
 カズはいったい今何をしてるつもりなのだろう。何の、後なんだろう。ずっと私を後に歩かせて、意味もなくぐるぐる砂をかき分け歩いて、そんなにきれいでもない海と砂浜を見ながら、もうどれだけここにいることか。

 数ヶ月振りに会うカズにどんな顔すればいいのか、どんなことを話せばいいのかと、来る飛行機の中で考え込んでしまっていた。たった数ヶ月なのにこの月日は恐ろしく長く遠く感じ、カズはもう、私の知ってるカズではないかもとすら思った。
 少し前なら、このカズの背中が何を思ってるか、すぐに分かったのに。後ろを歩き続けることに不安は感じても、嫌気なんて感じなかったのに。

 ああ、私、負けそうなのかな。
 負けてもいいと思ってるのかな。
 遠く離れた距離に負けてしまう、ありきたりなふたりだったのかな。
 私たち。

「・・・」

「・・・うわっ」

 ぼす、と、カズの背中にぶつかった。
 今度のカズは後ろを振り返ってなくて、私がぶつかっても背中を向けたままその場に立っている。カズの背中から離れ見上げると、カズは横に腕を伸ばし遠くを指差した。

「お前あそこ行け」
「は?」
「あの上まで行けばよかけん」
「なんで?」
「えーから、はよいけっち!」

 カズはそう、海とは反対の、砂浜の先の道路を指差した。私をその方向に向かせて、道路に上がるまでこっちを見るなと言い聞かせ私の背中を押し出した。
 意味が分からず振り返ろうとすると振り向くなとまた声を上げる。
 なんなんだと思いながら私は砂浜を道路に向かって歩いていった。

 カズは、何も感じてないんだろうか。
 離れていた時間に、不安も怖さも寂しさも切なさも何もなく、ただプロとして過ぎていく毎日にやっとで、大好きなサッカーを仕事にすることに精一杯で、私に対する不安は愚か、私のことすらそう、思い返さなくなっているのかもしれない。

 思えば、カズが私の背中を見ているなんて、初めてじゃないか。
 歩いていく私を見送るなんて、さよならのときだけだと思ってた。
 さよならのとき、きっとカズなら、私を先に帰すだろうなって、いつかふと思って、夜中泣いたときがあったっけ。

 砂浜が途切れてコンクリートの階段を上がり、道路に着いた。
 ああ、なんだか泣きそうだ。
 今カズを見たら確実に泣いてしまう。



 歩く速度を緩め振り返ることに時間をかけていた私を、波音に混ざってカズが呼んだ。聞き逃すはずのないその声。私は一度息を飲み込み振り返った。
 水平線なんて少ししか見えない内の海。日が暮れていく中、薄暗い雲と白濁の波が淀んで混ざり、この世の全てを霞ませている。その手前でしっかりと存在するカズは、私と海の間に立ち私を見てる。

 そのときはまだ、気づいていなかった。
 広い海と砂浜の真ん中にカズがいて、私はいつもカズを中心に生きていたから、カズだけを見ていたから、気づかなかった。

、お前、大学やめてこっちばこい!」
「え・・・?」
「もー離れてられんけ、俺んとこ来い!」

 ・・・そのときの、どちらを頭に収めればよかったのかな。
 私の頭も目も心も指先までも、一瞬にして凍りついてしまったように、鳥も波も風も、すべてが止まった。
 遠くから叫ぶカズの言葉と、そのカズまで延びている私たちの足跡が、波音も飲み込んでこの世を私とカズだけのものにした。

「俺ら結婚するばい!」

 ただ、私は生きていた。
 熱い涙が海のように溢れて、頬をボロボロ転がり落ちた。

 カズと私の足跡。
 その軌跡が砂浜にいびつに、スキ、と、描いていた。

「・・・クサい! 九州男児らしくない! カズが都会にかぶれたぁあ!」
「せからしか!」

 消えてしまうのが勿体無くて、世界中の時計も、星の自転も、波の満ち引きも、月の満ち欠けも、この世の全てが壊れて止まってしまえばいいと思った。それらが狂ったところで、今の私は、私たちは、もう壊れない、そんな自信があった。
 カズが私の傍に来るまでに、なんとかしてこの涙を止めてやろうと努力はするのだけど、近づいてくるカズを見ているとどうにも涙は止まらず、なに泣いとーと、とカズはまたオデコを殴った。

 前を歩くカズがらしくもなく、こんな素敵なものを私と創ってくれるなら。
 私はずっとカズの後ろを、信じて歩き続けていける。





海で拾ったラブレター

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