あなたと私の幸福とその歓び




山口君と隣の席になったのは2学期の最初にあった席替えの時だった。
友達が誰と同じ班になっただとか誰と近くの席でうれしいだとか言い合ってる中で、私は周りに仲のいい子もいなく同じ班の人たちの誰ともあまりしゃべったことがないという悲惨な結果で、だけど夏休み明けのだんだん弱まっていく季節の時に窓際の席に当たったのは小さな幸運だと思いたかった。

そしたら、周りのみんながそんなもの大した幸運じゃないと言う。
窓際だということよりも、隣が山口君だということがもう最大の幸運なのだと。

、どこ?」
「んー、廊下側の、前から4つめ」
「あー離れたなー。俺ど真ん中の前から2番目」

みんなが言う「山口君の隣」の幸運は、最初は分からなかったけど、短い2学期を過ごしてるうちにだんだんと分かっていった。同じクラスだけど私は山口圭介君という男の子を意識したことがちっともなく、まったく知らない人だったから、こんなに明るくて楽しい人だということも、クラスどころか学年問わずに友達が多いということも、サッカーが好きでとても上手だということも、実は感動屋でテレビのドキュメンタリーを見てはその感想を延々語ってくる涙脆い人だってことも、実はとても端正な顔立ちをしていてカッコよくだけど笑った顔はとてもかわいいだなんてことを、私はその短い2学期の毎日で詰め込むように、知っていったのだった。

だけど、所詮はただ偶然隣の席になっただけのクラスメイトだ。
2学期の最初に席替えがあるように、3学期の最初にはまた席替えがある。

「やだなー、もうに答え教えてもらえないじゃんなぁ」
「でも今度の隣の人、原田さんだよ。頭良さそうじゃん」
「あーメガネかけてると2割増で頭良さそうに見えるよな」

毎日毎日隣にいたから、毎日毎日どうでもいい話をたくさんした。
まったく知らなかった1学期のころよりずっと仲良く、お互いのいろんなことを知るようになって、いつからか山口君は私をと呼ぶようになった。そうしてるうちに私は少しずつ、確実に、山口君のことを考える時間が格段に増えて、山口君が私の机から落ちた消しゴムを必ず私より早くさっと拾ってくれたり、私が授業中だけかけてるメガネを勝手にかけて遊びに行っていたり、掃除場所に行く時に一緒に行くことが当たり前のようにちょっと待って!と呼び止められたりすることに、喜ぶようになっていった。

「じゃあ、お世話になりました」
「いやいやこちらこそ、いろいろとお世話になりました」
「どういたしまして。テスト中答えが分からなくても机の脚蹴っちゃダメだよ」
「え、なにそれ、俺そんなことしてたっ?」

してたよ。毎日見てたもん。
毎日隣にいたんだもん。幸運の隣の席だったんだもん。

だけどもう隣の席じゃない。
まだ始まったばかりの3学期は、冬だからなんて理由以上に、寒そう。

廊下側の端の席に机を移動させて座った。すぐに隣の席の人が来てよろしくとよそよそしい挨拶をした。今度は後ろに仲の良い友達がいる。2学期にはなかったささいな幸運があった。
真ん中の前のほうの席に机を持って行った山口君の隣には、授業中に限らずメガネをずっとかけた頭の良さそうな原田さんが座ってて、山口君は2学期の最初に私にしたように明るい笑顔と声で挨拶をしていた。

私の隣の男の子はもう、山口君じゃない。
山口君の隣の女の子はもう、私じゃない。

なんだか気分が落ちて行って、沈んで、沈んで。
でも騒がしいクラスの中でふと山口君がこっちに振り返ったから、私はさっと暗い顔をかき消して、笑う山口君に笑って返した。


新年を迎えてもなんら変りないクラスの中で変わらない授業が始まって、相変わらず細かな文字が並ぶ教科書を広げながら先生の抑揚のない言葉を聞く。黒板の文字を見ようとすると自然と山口君と隣の原田さんの背中が見える。山口君は小さな声で何かを原田さんにしゃべりかけて、隣の原田さんはそれに笑ってしまうのを我慢して。

・・・少し前までの私たちがそこにいた。山口君はきっとそのうち、原田さんのことを名前で呼ぶようになって、原田さんのノートを自分のもののように勝手に書き写して、学校が終わると一緒に下駄箱まで歩いて、毎日毎日話しかけて、次第に原田さんを恋に落としてしまうのだろう。今の私のように。落ち込むことしかできない私はメガネを外して、黒板の文字もろとも隣り合って並ぶ背中を見ないようにした。

どうして、私より少し前の席なんだろう。
いやでも目に入ってしまうじゃないか。



はっと、意識を覚ました。呼ばれた気がして隣を見るけど、隣の子は真剣にノートをとっていて、私を呼んだ気配はない。

気のせいかなと目の前のノートに目を戻すと、またと名前を呼ばれた。今度は気のせいなんかじゃなくて、だけど声がしたのは隣りからじゃなく少し前のほうからだと気づいてそっちに目を向けた。

視線を向けたところにはたくさんの背中が並んでいる中でひとり体をひねって顔を見せている山口君が見えた。メガネをしてなくても山口君が笑ったのはわかった。
そして山口君は手に持っている何かを見せて、私に投げてよこした。その後すぐ山口君は先生に注意されて前を向き直して、私は先生にバレないように山口君が投げてよこしたものが何なのか両手を開いてそっと見下ろした。両の手のひらに収まっていたのは山口君の消しゴムだった。小さかったはずの山口君の消しゴムは冬休みの間に買い替えられたのか、真四角で白くてきれいだった。

その消しゴムのカバーの中に、紙が入っていた。
これを渡したかったのかと山口君のほうに目を向けると、また小さくそっとこっちを振り向いた山口君が見ろというように笑って指し示していた。
開いてみた紙切れは破り取られたんだろう、ルーズリーフの切れ端だった。そこに小さく、見覚えのある汚い文字で「原田、あんま頭よくない。ダテメガネだ!」と書いてあった。私はパチクリその文字を見て、同じような顔で山口君を見て、じっと私を見ながら笑いをこらえてるような山口君の顔を見てるうちに笑いがこみあげてきて、くすくすと笑いこぼしてしまった。

隣の席の男の子がおかしな顔で私を見てくる。山口君の隣の原田さんもおかしな顔で山口君を見てる。だけど私と山口君は二人でくすくす笑い続けて、また山口君が先生に注意されて前を向いてもそれは止まらなかった。

ー、一緒に帰りませんか」
「うん」

まだまだ寒い3学期。授業中に私と山口君の席の間では何度も消しゴムが飛び交い、何度も後ろを向く山口君は先生に注意され続けた。問題が解けないと助けを求めるようにこっちをちらりと見る。人から面白い話を聞くと笑いをこらえた顔でこっちに振り返る。ボーっと授業を聞いているけど時折ふとこっちに視線をよこす。

何度も何度も振り返っては、いろんな笑顔を向けてくれる。
隣にいる頃には知らなかった山口君を、離れたこの席で初めて見る。

「ところでさ、お前はいつになったら俺の名前を覚えるんだい?」
「は?」
「ボクの名前は?」
「山口圭介君」
「山口を引くと?」

初めて下駄箱を通り過ぎても一緒に歩き続ける。
初めて私服の山口君を見る。
初めて山口君のサッカーを見る。

「圭介くん」
「うん。ちなみにくんもいらない」

初めてその名前を呼ぶ。
初めてその手の暖かさを知る。
初めて人を愛おしいと思う。

何度も何度も振り返ってくれる。山口君が私より前の席でよかった。
幸運の席から離れたら、べつの幸運が私に舞い降りた。
だけど幸運も長く続けばそれは幸運ではない。
それはただの、





あなたと私の幸福とその歓び