みくだりはん




じゃあ今日はここまで。
黒板の前で先生がいつもの締めくくり方でHRを終える。
委員長のきりーつ、という間延びした声でみんなが立ち上がり、ばらばらに最後の挨拶を済ませる。部活なり帰宅なり、みんな各々の放課後を迎えて教室を出ていった。
さーて部活部活、と私もいつものように、なんの乱れも無く立ち上がってカバンを背負った。
全てがいつもどおりだった筈の放課後の教室。
その流れからひとり、乱れていたのは、窓辺の席に姿勢悪く座っている、黒川だった。
椅子に座っているのはお尻ではなく、もはや腰。長い足は机の下からはみ出し、背中は背もたれの板に食い込んでいる。余計疲れるだろ、その座り方。と思わず心の中でつっこんだ。
あんなにダルそうな顔して受けていた授業の時と打って変わって、ひょいと軽々しくカバンを肩にかけて、晴れ晴れと心地よい表情で教室を出ていく。出口のドアで目が合えば「サッカーがんばれよー」「おおー」なんて声を掛け合って別れる。それが、いつもの黒川の筈だったのに。
私は人もまばらになっていく教室を逆流して、窓のほうへと近づいていった。

「くーろかわ」

リズミカルに黒川を呼ぶと、黒川はワンテンポ置いてから、ん?と私を見上げた。
よく焼けた肌が無駄に露出してる胸元。捲り上げたズボンの裾。骨ばった細い足首に少し汚いミサンガ。そろそろ冬服を着て学校に来る子もいると言うのに、黒川はまだまだ夏だった。

「どーしたの。部活行かないの?」
「行くよ」
「なんか沈んでんね。なんかあった?」
「べつに」

べつに。なんかあるときほど黒川はそう言う。

「どーしたよ。ネーさんに言ってみ?ありがたいお言葉を授けてやらんこともないよ?」
「なんもねーっつーの」
「部活でなんかあった?」
「いーや」
「あの美人な元キャプテンとケンカした?」
「違う」
「わかった選抜だ」

ビシッと指を差して言い切るが、黒川はふるふる、と首を振った。
他に黒川が悩みそーなことー・・・
真正面の窓の外の空を見上げながら考えた。
こいつはこう見えて世話焼きだから、先輩たちもいなくなってなんか不安抱えてるのかも。そーいやキャプテンになったんだっけ。でも部活じゃないって言ってるし。そもそもコイツにサッカー以外の何があるよ。まったく思いつかん。うーん、うーん・・・。本気で考え込んでしまって唸っていると、黒川はプッと吹き出して笑った。

「ダメ、ギブ。わかりません」
「そりゃあ残念」
「教えて」

椅子の上で少し座りなおして、足を組んで外をちらり見た黒川はやっぱり薄く笑ったまま、空っぽな笑い方で間を置いた。言い出しにくいことなんだろう。私は黒川の口が開くのをじっと待った。

気まぐれにポリポリ、首の後ろを掻いて、チラッと黒板の隣の時計を見上げて、少しうつむいて、やっぱりちょっと笑って顔を上げて、しんと静かな教室と廊下。ずっと遠くから誰かの声が響いて届く。グラウンドの外では部活をはじめだした生徒が騒ぎ出す。

「・・・サエコが、」
「サエちゃん?」

やっと口を開いた黒川は、まだ言いにくそうに口ごもった声でその名を呼んだ。
隣の隣のクラスのサエコちゃん。
黒川の彼女で、一年のときは同じクラスだった。あ、私もだっけ。
2年になったある日、黒川と付き合ってるっていう噂が流れて、からかうように聞いてみれば意外にもこいつは「ほんとーだけど?」と、飄々と言ってのけた。

「なんだ、痴話喧嘩か。心配して損した」
「ちげーよ」
「サッカーにかかりっきりでほったらかしにしてたんじゃないのー?アンタはねぇ、乙女心っつーもんがわかってないのよー」
「オトメゴコロ?お前が言うかソレ」

ガンッ!  黒川の座る椅子の脚を蹴った音が鈍く教室に響いた。

「で?なんて言われたの」
「まだ言われてねーよ」

また黒川は座りなおして、外に視線を逃がした。

「これから言われんの」
「これからって?」
「放課後に話あるから、教室に来いってさ」

そう言った黒川は、やっぱり口端を少し上げて、でも明らかに沈んでいた。
恋人同士という間柄で、改まって話がある、なんて言われたら、そりゃあ、嫌な風にしかとれないんじゃないだろうか。
こんな顔して妙に落ち着いてるけど、本当はドキドキしてるんだ。なんでもないフリ、がうまい黒川が、こんなに覇気の無いトーンでつぶやくんだから。

「でも、別れ話って決まってるわけじゃないんでしょ?アンタもーすぐ誕生日だし!その相談かも!」
「まだ1ヶ月以上も先だって」
「あーほら、そういう・・嫌なことを溜め込まないために話し合ってよくしてこうよ!って話かもしんないじゃん」

大きく「大丈夫」加減を身振り手振りで表して、あたしは必死に取り繕っていた。
それすらも黒川は虚しく笑い飛ばすのだけど。

「わかるんだよ、そーゆー話だろーなって。別れたがってんだろーなってさ」
「そんな、さ・・・」
「いーんだよ。いきなりじゃないだけ、いくらかマシ」
「・・・」

黒川がもし、強がって平気なフリでもしようものなら、殴ってでも黙らせられる。目に見えるほど落ち込んでいるのなら、お菓子でもなんでも奢って元気付けられる。
でもそう、諭すように言い聞かす、いつもアンタがするような正論をかけられてしまうと、どうしようもない。

私はアンタに、何も言えない。
指先ひとつ、動かすことが出来ないよ。

・・・ふ、
うつむいていると、黒川が小さく噴き出した風を感じた。

「お前がそんなヘコむことねーじゃん」

笑うな。

「さて、三行半、受けてこよーかね」

笑うな、バカヤロウ。

立ち上がった黒川は、腰をひねって伸ばし、カバンを肩に担いだ。空を見上げて、覚悟を決めるようにふっと一度息を吐いて空から目を離し、机の前から一歩出て椅子を足で机の中に押し込んで、出口に向かって歩き出す。

私の横を通り過ぎる。
と、同時に、私の頭にポン、と手を置いた。
その振動で、ギリギリまつ毛にぶら下がっていた雫がポタリと一粒だけ茶色い床に落ちて、はじけた。

ぐしっと、手の甲で涙を拭いて、黒川の後ろをついてドアをくぐった。

「明日、アイスでも奢ってやるからね」
「どーせなら今日がいい」
「あたし今日は部活ミーティングだけだし」
「待っててくれるんだろ?俺の部活が終わるの」
「・・・しょーがねーな」
「ははっ」

少しヒヤリとする日陰の廊下は、もう夏は過ぎたよ、と、教えてくれた。
うまく季節に乗れてない私たちには、その肌寒さが馬鹿にされているような気さえした。

これから黒川は、わかりきった判決を受けに、わざわざ自分から審判台へと赴くのだ。
そのハナムケに、丈夫で頑丈な奴の背中を思いっきり叩いて押し出した。
いってぇ!
あまりの痛さに顔を歪める黒川は、それでも笑っていた。

ああ、神様。
この、無理することしか知らない大馬鹿者に、どうか御慈悲を。
夏の匂いの取れないコイツに、風邪などひかせぬよう、どうか御加護を。





三行半