shut one's eyes




 朝からなんだか体重いなぁ……くらいには感じていたけど、お昼になったころには頭がぼーっとして作ってきたお弁当も玉子焼きひとつで断念、午後には使い物にならないと判断した先輩に「帰って寝なさい」と言い渡された。家まで電車で15分、徒歩8分。先輩はタクシーで帰れと言ってくれたけど、今ならまだ家までもつだろうと歩いて帰った。
 熱に犯された視界はいつもの景色をまったくの別物に見せて、体は沈むほど重いのに意識はふわふわ浮いて歩いてる心地がしない。ついさっき電車に乗り込んだはずなのにハッと気づいたら降りる駅で、閉まりかけのドアから急いでホームに飛び出した。
 何か買って帰らなきゃ……でも食欲がない……薬あったっけな……、考えながらも足はどこに寄ることもなくまっすぐ家に行き着いた。きっと体が栄養よりも薬よりも休息を求めているのだ。家に着くなりカバンと一緒に上着を放りシャツの中から抜き取ったブラジャーも脱ぎ捨てふとんの中に潜りこんだ。

 はぁー……と深い息を吐くと体はあっという間に眠りに沈んでいった。
 ほんの一瞬だったかのように、ふと目が覚めた時には明るかった部屋は真っ暗で何も見えなくなっていた。どのくらい寝たんだろうと頭の上の目覚まし時計に手を伸ばしてみると、8時を回ったところだった。ビックリだ、6時間も寝てた。
 喉がひっつくくらいの渇きを覚え、ベッドから這い出てカバンを手探りで探し、中からペットボトルを取って一気に飲み干した。何の味もしないお茶はその冷たさだけ熱い体の真ん中を通っていって、気持ち良かった。寝る前よりずっと体が熱くて頭がぼーっとする。熱が上がってるみたいで立ちあがるのも一苦労だ。

 濡らしたタオルを頬や首筋にあてながら、カバンの中で光って見えた携帯電話を取りだした。先輩から「明日は休みにしとくからゆっくり休んで」とメールが入ってて、涙ホロリとしながら「ありがとうございます!すぐに治します!!」と返信した。病気の時の人の優しさは本当に身に染みる。
 年に一・二度こんな発熱に襲われる。普段滅多に病気にならないからたまの発熱も楽しく感じるんだけど、だいたいいつも一晩寝ればあっさり引いてしまうから人に心配されるのも申し訳なくて、心配されても頼り方が分からない。

「25にもなってなんて未熟な……」

 暗い部屋の中でぼんやり光る画面を見つめひとりごちる。
 先輩へのメールを送信し、けれどもまだメールのマークが消えずに残っていた。未読のメールを探すとそれは亮からで、「今度の休み消えた。仕事」と色気も愛想もない黒い文字が短く並んでいた。今度の休みは久々に亮の休みも重なってうちに泊まりに来る予定だったっけ。普段、亮が仕事の日は私が亮の家に、休みの日は亮が私の家に泊まりに来ることが多い。けど仕事の多忙さは亮のほうが断然上だし、急患だ手術だと突然休みがなくなることも日常茶飯事だから今さら文句が出ることもなく「分かった」と返した。
 熱出ちゃったよーとか、先生お薬くださーいとか、打てばよかっただろうか。けどそんなことはチラリと頭をよぎっただけで、ケータイをパタンと閉じた。それよりも、ああ……おなかすいた。でも頭グラグラする。空腹も発熱も寝て誤魔化そうとケータイを手放しベッドに戻った。
 6時間も眠ったせいか空腹のせいか発熱のせいか、今度はなかなか寝付けず何度も寝がえりを打った。意識は落ちていきそうなのに熱くてジッとしていられず、お腹がぐぅと鳴って余計に苦しい。暗い部屋にカチカチ音をたてる時計の針の音を聞きながら、熱が彷徨う脳内が静かに沈んでいくのをジッと待った。

 ……その次に目が覚めたのは意外とすぐだった。目を開けてぼーっと見た壁の時計は11時前を差していた。……あれ、電気つけたまま寝たっけ。そもそも電気つけたっけ。うう……頭上げるの重い……。

「起きたか」

 カーテンの外の真っ暗な夜空を想起させるような、低くて静かな声がそばから聞こえた。その声でやっとまともに意識を覚ました私は声がしたほうを覗き見て、ベッドを背にすぐそこで座ってた亮をしばらく見つめた。

「……あれ、いつ、来てたの」
「1時間前」
「気付かなかった……起こしてよかったのに」

 時計を見上げた亮は「病人起こす医者がどこにいるんだよ」と返しながら私に手を伸ばし、冷たい手をあごの下あたりにひたりとあてた。

「いつから」
「なにが?」
「熱」
「ああ……朝からちょっと体重いかなぁーって感じで、仕事中にやっぱ無理だって早退してきてからずっと寝てた」
「熱何度あった?」
「あ……計ってない」
「なんで計んねーんだよ。てゆーかこの家に体温計どこにあるんだよ」
「たぶん……あそこの引き出し、かな」

 体温計の場所すら怪しい私にヤレヤレというようなため息を見せつけた。
 だって、いつもより高い熱があるのは計らなくても分かるし、何度だろうと私は眠れば明日には熱が下がることを知っているから、わざわざ細かな数字を知らなくてもいいだろうと思った。……なんて言うと亮は「バカか」と罵りながら、持ってた体温計を私に差しだした。

「体温計……いつも持ってるの?」
「んなわけあるか。咳とか吐き気は?」
「ない」
「口開けろ」
「んあ」
「腫れてんな。いちおー薬飲んどけ」
「あれ、薬、あった?」
「病院でもらってきた。最低限の薬くらい置いとけ。いまどきのカゼはバカでもかかるんだよ」

 なんだろう……この人は病人相手でも優しくなりはしないんだな……。まさかこんな態度で普段も患者さんと接してるんだろうか。そんなわけはないだろうけど、心配になってくる。そのうち訴訟とか起こされるんじゃないか。
 ぼやけた頭でそんなことを考えてると、ピピピピピ……と脇に挟んだ体温計が音を立てて、亮は私に手を伸ばすと今度は服の中にまで手を入れて体温計を抜き取った。

「当ててみようか。8度ー2分?」
「ハズレ」
「7度、8分?」
「9度8分」
「はっ?」
「ウソ、8度8分。ぜんぜん下がってねーな、解熱剤打っとくか?」
「打つって注射?」
「座薬」
「イヤ、むり!」
「やってやろーか」
「イヤ!!」

 大声出すと脳内がぐらりと揺れて、枕にぼすんと頭をうずめた。
 またバカと呟く亮は立ち上がりキッチンの方へいなくなって、数分後カップを持って戻ってきてそれを私に差しだした。いいにおいだ、スープかな。今さら空腹を思い出した私はのそりと起き上がり、それを手に取ると亮は私の肩にカーディガンをかけた。口や態度の悪さは変わらなくてもきちんと気遣ってはくれていて、にやーっとはにかむとバッサリ「気持ち悪い」と吐き捨てられた。

「てゆか熱あんなら連絡してこいよ」
「あ、休みなくなったんだよね、わかった……てメールしたか」
「超質素なやつな。キレてんのかと思ったわ」
「あれ、そんな送り方したっけ」

 ああ、それでうちまで来たのか。
 私が怒ったってどうしようもないのに、そういうとこヘンにマメというか、律儀だな。
 絵文字も言葉の柔らかさもない返信を気にして仕事上がりにご機嫌伺いに来てみれば、まだ日付も変わってないのに部屋は真っ暗で私は寝ていて、不貞寝でもしてるのかと起こそうとしてみれば何やら様子がおかしくて、触れてみれば温度が高く亮が来たことにも気付かず眠りこけている私を案じて、言いたいことも飲み込んで医者の精神を全うし、わざわざ病院に戻って薬や体温計を持ってきて、勤務続きで疲れた体で看病させられて。

 眠そうな顔をしてるな。早く帰って休んでもらったほうがいい。
 毎日朝早くから夜遅くまで亮のほうがずっと大変なのだから。

「メールしたんだからついでに言えばいいだろ」
「いやぁ、どうせ私は明日には治ってるから」
「そういう問題じゃねーんだよ。ただのカゼでも人は死ぬんだよ」
「大丈夫だよ、私のはいつものことだから」
「それでも毎回ちゃんと病状把握しろ。常備薬くらい置いとけ。熱も計れ。自分で自己管理しろ」
「ハイ……」

 高いところから熱い耳に不機嫌な亮のお説教が痛く突き刺さる。
 そりゃあ、熱出ちゃったよーとか、来てほしいとか、そばにいてほしいとか、言ってしまえればなと思うことはあるけど、そんなことは言いたくても言えなくて、聞かれてないことを答えられなくて、頼り方が、甘え方が、へたくそだ……。

「ていうかそうでなくても言え。お前は俺を何だと思ってんだ」
「優秀なお医者様です……」

 痛く突き刺さる言い方でも的確で間違いのない、立派なお医者さんだ、亮は。
 いつも上を向いてて、努力には真面目で、ひとつひとつの積み重ねを自信に変えていく。
 まさか亮が100パーセント人のために動く仕事を選ぶとは思いもしなかったけど、今ではこれ以外に考えられないくらい、天職なんじゃないかと思ってしまうくらい、優秀なお医者様だ、亮は。

「いったっ……!」
「バァカ」

 オデコに小さな衝撃が走り、カップに口を寄せていた私は涙目で亮を見上げると、亮はデコピンした手を私の前にかざしたまま高いところから私を見下して。

「俺はお前の彼氏なんだよ」

 優しくも丸くもない尖った口で言い放った。
 その言葉が、目の前にいる亮そのものが、あれやこれやと考えて予防線を張ってしまう私の遥か上を飛び越えて、呆気なく私を泣かす。やっぱりヘタクソでぐずぐずで熱は上がる一方で、もう何が何だか分からない状態なんだけど……熱い熱い夢の中で、それでも見失わない亮が確かにすぐそばにいた。




shut one's eyes

ハピバみかみん!2012