行先不知ノ最終列車




「だから駄目だって言ってるでしょ」
「だからなんで駄目なんだって聞いてんでしょう」
「何でもかんでもない、駄目なものは駄目なの」
「理由もなく駄目の一点張りで納得するほどガキじゃねーよ」
「酒も飲めないボウヤなんてガキでしょーよ」

駅前の24時間営業のファミレスは、深夜に関わらず点々と人がいる。
他の客とは距離を空けた入口近くのテーブルで、ちょっと眠そうな頭を頬杖で支える向かいの人は、席に着いた時から同じ言葉を繰り返してる。駄目ったら駄目。駄目なものは駄目。駄目、駄目、駄目。

けどこんな時だからこそ、今は多少普段の顔は崩れてる。仕事中じゃないからか。酔っているからか。眠いからか。こんな奇策も勝算も逆転劇の可能性も無い負け戦のような状況で、それでもなんか楽しい気になっているのは、たかが一バイトじゃ見ることの出来なかった空気を発している今のこの人を、目の前にしているからじゃないか。無理やりにでもキスしてやった甲斐があったってものじゃないか。

「俺がバイトだから? 気になるならやめてもいーけど」
「・・・いやいやいや、バイト大事なんでしょう」
「そりゃまぁ。俺みたいな悪条件極まりないヤツ、雇ってくれるとこなんて二度と見つからないだろうから」
「だったら大事にしなさいよバイト」
「ちゃんとやってんじゃん。肉体労働だろうがビラ作りだろうが。ブチったこともないし」
「ん・・・まぁ意外にも真面目なバイトさんだったよね、君は」
「まー上司に手ぇ出しといてマジメかどーかは考えもんだけど」
「自分でいうな」

酒が残っているのか、俺にキスされたことを思い出して自己嫌悪しているのか。さんは頬杖の手で額を押さえ重いため息を吐いた。だけど店員がオーダーを取りに来るとその鬱屈とした顔をパッと消して、俺に「コーヒーでいい?」と聞いてふたつ注文した。今まで散々飲み食いした俺たちに胃の空きスペースなど残ってないが、注文もせずに居座れるほどファミレスも優しくはない。

「それでもバイトとは付き合えないってゆーならやめてもいーよ」
「そういうことじゃなくて」
「あ、年のこと? 俺ぜんぜん気にしないけど」
「・・・」

さんはイラッと口端を歪めた後で、ふっと吐き出して頬杖も解いた。
そのまま背もたれに体を預けて、まるで遠くから眺めるように俺に目を合わせる。

「私もそんなこと気にしない。好きな人なら」
「・・・」
「君には惹かれない。それだけ」

ただテーブルひとつなのに。まるで断崖絶壁。
澄んだ空調の中なのに。まるで晴れないスモッグの中。

「きっつ・・・」

さすが、いい年した大人になると、心のえぐり方を知ってるんだろうか。
まぁ、俺だって興味のない女にあえて傷つくだろう言葉を選んで吐き捨てることもある。
嫌だ別れたくないと言う女に、二度と戻ってこれない底へ突き落とすくらいのことを言ってのけたこともある。
その方が相手の為だと思った。
ヘタにまるく治めて情を引きずるより、いっそ憎むくらいに切ってやった方が、って。
それも優しさだろうと。もう二度と戻ることはないんだからと。

ただ・・・傷つけるっていうことを、ナメてたかもしれない。
絶対に言われたくないことを、絶対に言われたくない人からかけられるということは、鋭利な凶器よりももっと鈍いボロナイフで、肉を掻き分け血管を引き千切っていくような。決して元通りにはなれないぐちゃぐちゃの跡を残す、えぐるような痛み。

けれども俺には、その痛みを感じ取っていても表に出すような器用さはなく、ましてやそれを相手に返すような対等さも持てず、店に入って一度も目を合わせてはくれなかった女から、初めて自分から目を離す所業しか出来なかった。

遠くの騒がしい声で保たれてる空気の中に店員が静かにコーヒーを運んでくる。
白いカップがカチャンとふたつ置かれ、ありがとうと返すさんの横顔を一瞬見た。

「お砂糖は?」
「いらない」
「ブラックで飲む人?」
「甘いの嫌い」

何も入れない真黒なコーヒーを俺に差し出し、子供扱いしかしない口が「大人ね」と一度笑う。
角砂糖をふたつ、自分のカップの上で手放す細い指がスプーンを回し、ミルクを注いでみるみる白濁していくコーヒーをまるで音楽を聞くように眺めていた。

「それもうコーヒーじゃねーだろ」
「コーヒー飲めないのよね、私」
「じゃあ頼むなよ」
「香りは好きなの」

肩からはらり落ちた長い髪を耳にかけて、湯気を上げるカップを口の前に持っていく。
赤い口唇がふぅと息を吹いて水面を揺らし、昇る香りを小さな鼻が吸い込む。
顔が小さいとか目がでかいとかかわいいとか綺麗とか、そういう規格じゃなくて。
この人から流れてくるそれは・・・そう、まるで視覚の香り。視覚の音楽。
見ていたくて、聞いていたくて、嗅いでみたくて、味わってみたくて、触れてみたい。
五感がすべて絡み取られる。近づきたくて堪らなくなる。これが色香というものかと思わせる。
それを伏せた視界の端で凝視しながら、黒くて苦い液体を口に流した。

近くのドリンクバーを行ったり来たりする似た年のやつらが騒がしい声を上げている。
傍から見れば、こんな俺たちだって親しいふたりに見えるんだろう。
俺たちの間にはだかる、コーヒーの湯気よりぶ厚い透明な壁は、傍からは見えないから。
すると、コーヒーをちびちび舌に乗せてたさんが不意にふふと零した。

「なに?」
「騒がれてる」
「なにが」
「君が。あっちの子たちに」

そうさんが鼻先で示して、ドリンクバーの方に顔を上げると、グラスを持つ数人の女たちがさっと顔を背けて笑いながら遠い席に駆け戻っていった。席に戻ると抑えられてない声で隠れ騒いで、隙間からこっちを覗いてくる。

「いつもこんな風に騒がれちゃうの? サッカーの有名校でエースだったんでしょ? やっぱりファンクラブとかあったの?」
「ヤなんだよ、あーゆー女は集団になると見境ないから。練習中も試合中もギャアギャア騒ぎやがって」
「私が高校の時にもいたなぁ。他校の人だったけど、甲子園に行った学校でピッチャーやった人で、すごい人気だったなぁ」
「アンタもそういうのが好きだったの?」
「騒いでたなぁ。みんながバレンタインにチョコ渡しに行くっていうから、一緒になってチョコ買って学校の前まで行ってさ。そういえば・・・渡せたんだっけな。覚えてないや。バレンタインはチョコいっぱいもらった?」
「バレンタインとか、マジ嫌い」
「ああ、甘いの駄目なんだっけ。それはもう苦行みたいね。でもそうよね、渡す方は必死でも、いっぱい貰う人は覚えてもないか」
「アンタ渡す側でも覚えてねーじゃん」
「あはは。まぁ、学生時代の色恋なんて、その時どんなに真剣でも、今思えばイベントよね。そんなにいっぱい貰って、後どうするの? 食べたの?」
「うちは寮だったから食うヤツはいくらでもいたから。部屋の前転がしとけば勝手になくなってた」
「ひっどいなぁ。でも彼女のは食べてあげたり?」
「そりゃーまぁ」
「ふふ、かぁっこい。君みたいな人が同じ学校にいたら私もキャッキャ言ってただろうなぁ」

軽い世間話であればこの人はこんなにも軽やかに笑う。
ついさっき俺をぶった切った冷たさなんてどこにもない。

「そん時に会ってたって、アンタを見つけられてるかわかんねーよ」
「見つける?」
「昔のアンタなんて知らねーけど、俺は今のアンタに言ってんだよ」

俺との話なんてもう過ぎたことみたいに笑ってた口が、静かに閉じてって目を逸らされる。
気だるそうな頬杖は解かれたけど、俺と真剣に向き合う気はサラサラなく、その手は温度を下げていくコーヒーをくるくるスプーンで回すだけ。

「君は、そういう・・・アイドルみたいな虚像じゃなくてさ、本当にカッコイイ子だと思うよ」
「で?」
「真面目だし、頑張ってるし、一生懸命になれるものだって持ってるし、素敵だと思うよ」
「だから?」
「だから、女の子になんて困らないでしょ」
「困らないね」

女なんて勝手に寄ってきたし誰もそれなりにかわいく見えた。ちょっと構ってやれば嬉しそうな顔して、親しげな空気を出せばすり寄ってきて、落とすのに苦労したことなんてない。だから手放すのも躊躇いなんてなく、そもそも駄目なら駄目で良かった。

「意味ないんだよ、そういうの」
「意味ないって?」
「どんだけ他が寄って来たって、好かれたいヤツに好かれないんじゃ無意味だろ。実際、アンタは俺を好きにはならないんだし」
「・・・」
「そんなんばっかだ。いつも一番欲しいものは、目の前素通りしてくんだよ」

周りは羨ましがったり、順風満帆だなんて勝手に言ったりするけど、いつだって一番欲しいものは、この手からすり抜けてく。
それしか欲しくないのに。それだけあればいいのに。
そう思うものほど掴めず、すぐ指先を掠めて離れてく。
その上・・・今までさして真剣に考えたことなんてなかった恋愛事でまで。
マジになった途端、結局。

「傷ついたフリしたってダァメ」
「・・・」

友だちの誰かが見れば笑い転げるだろう。これだけ身を切り刻んでいるというのに、同情してもほだされてもくれない、なんて立派に大人な女なのだろう、この人は。口内に広がる品行方正な苦味にも飽きて、あーあとため息を吐いてテーブルの隅の三角錐の広告を手に取り、今日一度も口にしなかったビールの絵を眺めた。

「酒飲んでいい?」
「さっきは我慢したじゃない」
「未成年だから飲まないなんてあるわけねーだろ。さっきは、アンタに迷惑かかるからだろ」
「君は、そういうこともちゃんと考えられる子よね。君達くらいの年の子にはめずらしい。ご両親が厳しかったとか?」
「べつに。親とあんま一緒に暮らしてないし」
「ああ、寮だって言ってたものね」
「ていうか親離婚してるから。父親が浮気して」
「・・・そう」

もう何年も前のこと。俺にはさして重大なことでもなかったが・・・それきり返ってくる声がなくなって、正面を見ると、さんは手中のカップに深く目線を落とし、スプーンを持つ手も止まってた。
普段の顔とも仕事中の顔とも違う。そんな顔で、何を思っているのかなんて俺には分からない。
年も性別も、境遇も環境もまるで重ならない、遠い人だ。分かるはずがない。

「帰ろうか」

憂いを帯びるようだった顔は、何を思っているのか。
ただその人は、もっとも大人らしく、そのしばらくの間だけで何かを終息させた。
僅かに残ったコーヒーから手を離して傍らのコートを取り、伝票を持って立ち上がる。
俺もそれについて立ち上がり、前を歩く白い手の先から伝票を抜き取ってレジに向かった。
もう車の通りも少ない冷え切った夜道に出て、明かりが見える方へと歩き出す。

「うちどっち?」
「あなたは駅に行くの」
「女に送られるなんてヤダよ」
「私には君をきちんと家に返す義務があるんです。上司として」

チ、と舌打ちと一緒に白い息がもわりと生まれる。
温かかった店から一瞬で冷えて、少し前を歩くさんは口元で指先を温めた。
夜暗に溶け込む波がかった長い髪がまるで誘うようにふわり揺れるけど。
まさかそうではなく、触れも出来ずにポケットに突っ込んだ。
ひと気のない改札前でさんは「帰り方わかる?」とまるで子どもを見送るみたいに言う。

「俺、諦め悪いからな」

別れる寸前で、最後の一度、まっすぐその人を見た。
白い蛍光灯の下にいるその人は、まっすぐ見つめる時ほど、見返してはくれないと分かっていても。

「君と恋愛出来る子は、幸せなんだろうな」

電光掲示板が電車の到来を報せる中、ポツリさんが零した。
冷えた空気の中で、もう赤味もない乾いた頬に睫毛の影を落としたまま。

「アンタは幸せになりたくないの」
「・・・」
「俺と付き合いたくないんだろ」

まっすぐ見つめる時ほど見返してはくれない。
けど、さんまるで、今日初めて俺を見るみたいに、その瞳に俺を映した。

「ごめんね」

それでもこの口から出る言葉は堅い。同情してもほだされても、愛してもくれない。
本当、大人ってのは、迷路みたいだ。

「半年後に同じセリフ言ってみろ」

けど俺はべ、と舌出して、バシンとカードを改札に叩きつけた。
その迷路の中に、入りこみたいけど、迷い込んでは意味が無い。
相手の気持ちや事情なんてものから目を逸らせられるのがガキの特権だろう。
こんだけガキ扱いされるなら、いっそガキのままで突き進んでやる。

こっちはガキの頃からスポ魂やってんだ。
ガキのしつこさ、思い知れ。





行先不知ノ最終列車