眠りのない夢




どっぷりと夜が更けた空は隙間もない黒。塗りつぶされた空は全てを飲み込む程の闇色なのに、チカチカ光る電灯やイルミネーション、ビルの明かりは、こんな大きな闇すら引き立て役にしようと前へ出て熱を発散する。

「今日は疲れたろ」
「はい・・・いえっ、大丈夫です」
「無理するな、顔が疲れてるよ。でもよくやってくれたよ。先方も気に入ったみたいだしな、のこと」
「そうですかね・・・。でもまだ、説明しながら時々頭真っ白になっちゃったりして」
「まぁそこは回数こなせば慣れてくるよ」

初夏の気配漂うこの季節に外回りは相当きつい。歩き疲れて自分のヒールでけつまずくし、照りつける日差しの下とクーラーの中を行ったり来たりで汗が気持ち悪く乾いてる。女である以上定期的に化粧も直すからなんだか肌が1割厚くなってるような気すらするし、何よりサラリーマンのおっちゃんたちみたく匂ってないかがめちゃくちゃ怖い。
就活戦争と大学卒業を乗り越えて好きなメーカーに勤務出来たのに、配属されたのは希望部署じゃなく営業で、暑かろうが寒かろうがお構いナシに毎日笑って挨拶周り。体力的にも精神的にもきついこの仕事、一緒に配属された同僚は4分の1がもう姿を消していた。

「一週間がんばったな、今日は直帰していいぞ」
「本当ですか?ありがとうございます」
「ほんとは1杯誘いたいけどな、若い子は早く帰りたいだろ」

はっはとおなかで笑って気をつけてなと見送ってくれる課長に、今度は是非にと謝って別れた。先輩の仕事に一緒について営業の基礎やトーク、良い関係の持ち方などを学び、そしてこの一週間は独り立ちするために先輩についてもらって自分で仕事をする期間だったのだ。課長はとても私をかわいがってくださり、課長がいなければもしかしたらこの一週間を乗り切れていなかったかもしれないとも思う。私は恵まれていた。

多くのサラリーマンと同じく速い歩調で駅に向かう。流れに流されながら改札を通り抜け、今の底ついた体力にはきつい階段を上ってホームに出る。定期的に発着する電車がちょうどよく流れ込んできて、車両の一番端に引っかかるように乗り込んだ。
仕事上がりには少し時間が経ちすぎていて、電車はそこまで込んでいない。ハードワークをこなしていそうなグッタリしたサラリーマン、大きなカバンを持った学生、お母さんと買い物帰りの眠っている子供と、デート帰りのカップル。長椅子とドア口にバランスよく乗られた電車はガタンガタンとゆっくり揺れて、みんなを家まで帰してくれる。
座席は見渡せばちらほらと空いていたのだけど、私は乗り込んだドアにそのまま向かい合って窓の外を見つめていた。ガラスに映った自分の顔が酷くて、家まであと少し、と目に力を入れて口を引き締め、顔を作って髪を整えた。

「なに怒ってんだよ、なんもないって言ってんじゃん」

電車の揺れる音の隙間を縫って聞こえてきた言葉に気を取られ、目の前のドアが開く反対側を見た。ドアのバーに掴まってる男の子と、その彼とドアに挟まれるようにして向かい合ってる女の子。ふたりはどう見ても親しい仲といえるくらいの近い距離にいるのに、彼女を見下げる彼と俯く彼女はちっとも目が合っていない。

「なんで?会ったらしゃべんの当たり前じゃん、それも駄目なの?」
「そんなこと言ってない」
「じゃあなんでそんな怒ってんだよ」

彼女の目の前でしきりに言葉をかける彼と、黙り込んでしまった彼女。ふたりは人の少ない電車の中で気を使ってか声は小さいけれど、とても穏やかではない空気を纏っている。ずっと顔を背けてふてくされた彼女の顔が、なんだか覚えがあって、思わず笑えてしまった。
そう、そうなんだよね。はっきりとした理由があるわけじゃないの。ううん、事の発端は必ずあるんだけど、それを言うにはあまりに恥ずかしくて、だけど上手に納得も出来なくて、不機嫌に黙るしかなくなってしまう。

「なんなんだよ、はっきり言ってよ」
「もういいってば」
「じゃあなんでそんな怒ってんの、ごめんて言ってんじゃん」

誰とも喋らないで、なんて思ってるわけじゃないの。ただ、その目に映るのは私だけでいて欲しいの。女はね、その人にとって、誰よりも1番でいたいの。
彼女の気持ちを代弁するように、私は耳だけを隣に傾けながら夜の街を見下ろしていた。こんな電車の中で言い合うふたりがかわいくて笑ってしまうけど、でもそんなのバレたらきっとふたりには不愉快だろうから、必死で頬は緩めずにいた。

そういえば、私もこんな人の少ない電車の中でケンカしたこと、あったっけ。あのときはまだ学生で、デート中に後輩の女の子たちに声をかけられて話し込んでたあいつに腹を立てて、帰り道ずっと黙って顔を背けてた。あいつも今の彼みたく目の前でずっと私の機嫌を直そうと声をかけてた。こんな優しい口調じゃなかったけれど。

「じゃあ俺はお前以外誰とも喋っちゃ駄目なわけ?」
「そんなこと言ってない」
「じゃあなに、はっきり言ってよ」

でもね、駄目だよそれを続けてちゃ。ケンカは引き際が大事なのだ。意地を張って顔を背け続けてもいいことない。よっぽど気が長くて包容力や理解力のある人なら別だけど、もう彼はイライラしてきてしまっているようだし。

・・・だとすれば、あいつは意外と大人だったのかもしれない。私がしつこく機嫌を損ねても嫌な態度をとっても、いい加減にしろと呆れながらに怒鳴ることはあっても、離れていってしまうことはなかった。あいつは私の機嫌の直り方を分かっていたし、私が結局あいつから離れられないことも分かっていたし。
ほんとはね、嫌なところを直して欲しいんじゃないの。駄目なところも含めて好きになってしまっているから、それがなかったらあなたはあなたでなくなってしまうから、それを直してほしいわけじゃないの。
直してほしいんじゃない。謝ってほしいんじゃない。

ぷしゅ、とドアが開いて、暗い駅のホームに降り立った。すぐにドアは閉まって電車は発車して、夜の果てへと光を辿って消えていく。駅を出て、ようやくペースダウンしても許される帰路を暗い空を見ながら歩いていった。
あのカップルはもう仲直りしたかな。彼女の機嫌も直りそうだったし、きっと今頃は笑いあいながら電車に揺られてるんだろう。すぐにケンカしてもすぐに笑い合えるのが本当の仲のよさというものだ。私たちもそうだった。
だけど、卒業して働くようになってからは、時間と共にいろんなものが毀れていった。仕事を始めたばかりでその辛さにどんどん日常が飲まれていって、化粧がうまく乗らなかったりストッキングが破れてしまったり雨に降られたりするだけですぐにイライラして、毎日の記憶が胃の痛みしかなかった。

構って欲しくて。傍にいて欲しくて。愛されてる実感が欲しくて。
だけどやさしくなれなくて。思いやれなくて。
毎日イライラをぶつけてた。うまくいかないこと全部、何かのせいにしないと立っていられなかった。毎日ケンカして、毎夜泣いて、そうすることでしか自分を保てなくて。抑えきれなくて。

―もうやってらんねぇよ

その時あいつは初めて私を見限った。私を手放した。私を置いて、出て行った。
私に残ったのは、痛いほどに静かな部屋だった。
毎日何かに怒っても、毎日何かに苛立っても、毎日あいつに文句を言っても、ほんとは、どうにかしてほしかったわけじゃない。直してほしいんじゃない。謝ってほしかったわけじゃない。
私はただ、許したかった。


カバンの中から鍵を探しながらマンションの階段を上がっていく。コツコツと地面を叩くハイヒールの音が夜に響き渡る。もうこのハイヒールの高さにも痛さにも慣れた。スーツの着方も様になってきたし、ごはんも食べられるし、明日起きる時間もちゃんと分かってる。
何かをなくして、全てをなくして、ひとりになって。
それでも私は生きている。
生きていれば成長もする。上手な生き方が出来るようにもなっていく。

今の私にある、新しい自分。なくならなかった自分。
今の私にない、ひだり側。

カツンと階段を登りきってドアに差し込む鍵を指先に握る。
今日も同じことの繰り返しの毎日。ドアの前に立って鍵を開けて家に入り、少しごはんを食べ少しお酒も飲んでお風呂に入り眠りにつく。夜の闇が晴れるころ、目覚ましの音で目を覚まし、起きてごはんを食べてスーツを着て仕事にいく。
明日も同じことの繰り返しの日々。
同じ今日を生きる。

「・・・」

だけど、突然、きのうはなかった景色が現れた。
私はカバンから取り出した鍵を握ったまま、足を止めた。

「よぉ」

亮がいた。

「・・・」

しばらく思考が止まって、身動き取れなくて、目の前にいる亮は今まで瞼の裏でずっと消えてくれなかった亮そのものなのに、信じられなくて、

「え・・・あき・・・なんで・・・」
「なんでって」

ビックリして、未だに信じられなくて、

「つか、男付きだったらどーしよーかと、実はそうとうビビってた」

あ・・・わらった。

亮だ。

私はなんだかだんだん、頭がくらくらしてきて・・・。
それは疲労とはまた違って、夏の熱さに目が眩むような、ジェットコースターに乗った後のような。脳ミソだけが死ぬほどフル回転してるんだ。

「お前、元に戻ったな」
「え?」
「どんどん顔色悪くなってくし痩せてくし、正直ヤバイんじゃねーかって思ってたけど、ちゃんとやってんだな」
「ああ、・・・うん・・・」

あれほどボロボロになって、亮を失って・・・
だけど私は逆に仕事にまっすぐ向き合えた。
求めるものがなくなって、失うものがなくなって、ふっきれた。

「じゃあなんでそれいわねーんだよ。元気になったら俺が要らなくなったか?」
「え、あ、・・・」

亮はふっとため息ついて眉をひそめ、いつも見ていたような顔を見せた。だけど私はまだうまく言葉も紡げなくて、一歩ずつ近づいてくる亮に歩み寄ることも出来なくて。
あんな私から離れていった亮に、元気になったからと言って何が言えるはずもなかった。優しくなれなかった、思いやれなかった私を、亮はもう嫌いになってしまったと思ったから。

「ま、待って!・・」

近づいてくる亮から一歩下がって亮を止めた。
亮は一層眉をひそめて足を止め、でもずっと変わらず私を見てる。

「なんだよ」
「だって、あの、あの・・」
「なに」

イラ、と細くなる亮の目が私を追い詰める。

「駄目、来ないで、今は駄目」
「なんで」
「あの、ほんとに、すごく汗くさくて」
「は?」

ゆるり、亮の顰めた眉が少し緩む。

「だって、あたしもうほんとに、歩き回ってボロボロだし、べとべとしてるし、絶対汗くさいしっ・・・」
「・・・」

ほんと、なんだってこんな疲れてよれよれの、化粧もボロボロ時に、こんな全身汗だくでべとべとで、髪も毀れてぐしゃぐしゃの・・・

「はっ・・・」

どんどん後ろに下がって離れてく私の先で、亮が吐き出して笑った。
・・・ああ、信じられない。
亮がまた目の前でこんな風に笑ってくれるなんて。
どうしよう、今度は泣けてきた・・・

「ふーん、ちゃんと働いてんじゃん」
「だから駄目だってば、駄目・・」

また一歩近づき始める亮から逃げるように下がって下がって、廊下の突き当りでどんと手すりに背中がついてしまった。それ以上どこにも逃げられず、それでもどんどん近づいてくる亮が、目の前まで来て、居心地のいい視線の高さから私を見下ろして、夜の闇のような黒い瞳の中に、緩やかに細まる眼の中に、私を入れる。
そしてゆっくり私に頭を倒し、体を寄せて、すぅと息を吸う。

「あー、ほんとだ」
「えっ、だから、も・・・」
のにおいがする」
「・・・」

じわり視界がぼやけて、マンションの色のない蛍光灯が七色の虹を見せた。
目の前に見える亮の髪、肩の高さ、胸の硬さ、息遣い。
控えめな抱き方、覚えのあるにおい。
この声で紡がれる、名前。

「あきら・・」

亮だ。これはほんとうに、絶対に、亮だ。

まさか、夢なのか。
飽きるほどに繰り返し見た、これは夢なのだろうか。
この世に、においも感触も温度も感じられてしまう夢があるのだとしたら、私はこの先何があってもずっと亮を感じていられるその夢の中に、居ついてしまいそうだ。

だけど亮は、私を抱きしめながら、私のにおいを吸い込みながら、私の味を確かめながら。
そんなの御免だと、眉を顰めた。





眠りのない夢

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