執事 三上




さぁ、今日もよい天気です。爽やかな一日の始まりです。
厳しい寒さの中、あたたかいふとんは恋しいものですが、もう朝ですよ。

「おはようございます、お嬢様」
「・・・」
「朝です。起きてください」
「・・・」

まっ白いふとんとまっ白いカーテン。
窓からさす朝の光が空気を浄化して、鳥の声が朝を知らせている。

「お嬢様」
「・・・」
「お嬢様」
「・・・」

大きなベッドを囲む天蓋の外からかけられる静かな声。
だけどそのベッドの中の意中の方は、変わらず健やかな寝息を立てている。

「・・・」

眠り続けるお嬢様は、何度呼びかけても返事どころか目すら開けない。
ジャケットにまっ白いシャツを着て姿勢正しく立つ彼は、スタスタと窓へ向かうと
バン!と部屋の大きな窓を全開し、天蓋を跳ねのけふとんをガバ!とひっぺ返した。

「きゃあ!さむ、さむーっ!」
「おはようございます、お嬢様」
「おは、おはようじゃないっ・・、ふとん返してー!」
「早く起きて制服に着替えリビングに降りてきていただければすぐあたたかくなります」
「カゼひいちゃうじゃない!もっと優しく起こしなさいよ!」
「優しく?」

ぬくもり溢れるふとんの中から、真冬の朝の冷気の中に放り出されて、
刺すような寒さに肌は逆立ち、手足はみるみる冷えていった。
そんなお嬢様の震える体をふとんで包むと、執事の三上はひょいとその体を抱き上げる。
これぞまさしく、お姫様だっこ。

「なっ、なにっ、なに!」
「優しく起こすは御免ですが、風邪をひかれるのは困ります」
「あ、あなたがそうしたんじゃない!」
「早く顔を洗ってその眼やにをとってください。朝食の用意が出来ています」
「ひっ・・」

バッと顔を隠すけどこの至近距離ではすでに遅し。
抱きあげられたまま部屋を出てじゅうたん敷きの廊下を歩いて行くと、
通り過ぎてゆくメイドたちにくすくすと笑われた。

「ねぇ、もう下ろして、自分で歩くっ」
「裸足で歩かれますと困りますのでバスルームまで辛抱してください」
「自分で歩くー!下ろしてー!」
「おとなしくしていただかないと落としますよ」

ふっと体を支えていた三上の腕の力が抜けて、体は一瞬宙に浮いて落ちる。
ひゃっと焦ってふとんを握っていた手を三上の首に巻き付けるけど、まさか本気で落ちることはなく、その細身の体に強く抱きついてしまっていると、頭の上から髪にふと、笑う息がかかった。

「・・・この、性悪執事!」
「執事と名がつけば何でも構いません」
「バカ執事っ!」
「寝起きの悪さだけじゃなく口の悪さも直さなければいけませんか」

やれやれと降りかかる溜息を頭に感じた。

行き着いたバスルームのドアが開けられ、静かに床に下ろされふとんもとられると、
シルクの寝巻の上からガウンを掛けられ、髪を後ろでまとめ上げられた。
洗面器に水が注がれて、冷たくないように少しのお湯が足されて。

「どうぞ」

丁度良い温度になったことを確かめた三上が振り返る。
これが彼の毎朝の仕事だ。
主人の生活のすべてを助け、補い、支える。

・・・だけど、抱き上げるのは、反則じゃないの?

「・・・どうしました?」
「え?」
「顔が赤いですね、本当に気分がすぐれませんか」

まっ白い朝の光の中、映える真黒な燕服と、真黒な髪。真黒な瞳。
三上は背をかがめ顔を覗き込むと、火照った頬に冷たい手をあてた。

「な、なんでもない、なんでもないよっ!」
「・・・そうですね、変わりないようです。眼やにがついてること以外は」
「きゃあ!!」

どんとその意外と頑丈な体を押しのけて、ぬるま湯で顔をバシャバシャ洗った。

後ろでタオルを構える三上を鏡越しに見ると、
静かに待っている彼は、朝の白い光に解けていきそうなほどに、綺麗に見えた。

「急いでください、遅刻します」

顔の水分を柔らかいタオルでぽんぽんと吸い取り、まとめた髪を丁寧に解き梳かす。

「ちょ、もういいってば!」
「ですから裸足で歩かれるのは困るんです」

そう言って彼はまたひょいと体を抱き上げて、やわらかいじゅうたんの廊下をスタスタ歩いて行くのだった。

それが彼の仕事だ。
主人の要望にすべて応え、始終行動を共にし、すべてにおいて完璧にサポートする。

彼は私の執事。

私の1日は彼に始まり、彼に終わる。

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おはようございますと挨拶をする運転手が車のドアを開ける。
お茶と新聞が用意された車内に入ると向かいに三上も乗り込み、車は静かに出発した。

「お茶は何になさいますか」
「ダージリン」
「かしこまりました」

目の前でとぽとぽとポットのお湯を注ぐ三上を見ながら、傍らに置かれた新聞を手に取った。
毎朝、学校に行く前には必ず新聞全てに目を通す。
政治、経済、世界情勢や時事問題、芸能に至るまで、
日々変わりゆく情報について行くことこそ紳士淑女の嗜みであり、務めでもある。

「あ、やった昨日の試合勝ったんだー。ねぇ、今度の代表戦のチケット取っておいてよ」
「その日はお爺様の誕生日パーティーがあります」
「あそっか。じゃあその次」
「次の試合の予定日にはお嬢様のバイオリンの発表会がありますし、
運よく準決勝まで進んだとしてもその日はお父上が帰国されますので外出はどうかと」
「もーつまんないなー。せっかく日本で開催してるのに」

口をとがらせながら新聞をテーブルに放り投げる。
湯気を立たせたティーカップを差し出す三上の手から、カップを受け取り口をつけた。

「スポーツ欄より経済面に目を通してください。
自社の株価の変動が激しいですので学校でも話題に出されることと思います」
「今のご時世どこの会社も危ないわよ。うちなんて話題にされることもないでしょ」
「そういう問題ではありません。周りは貴方が自身の会社のことをどこまで理解していて
今後の方向性、将来性に興味を持たれます。無知は言い訳になりません」
「あーあ、どうせならアパレルか芸能みたいに華やかな仕事なら良かったのに」
「そのような流動的な世界はもっと足元がおぼつかないものです。
やりたいことがあるならお嬢様が行動を起こせばいい」
「・・・。なんだか、今日はよくしゃべるのね」
「申し訳ありません」
「別に謝ることじゃないけど」

珍しく今日は三上が能弁だ。
いつもなら私の他愛ない話や愚痴や偏見なんて、
聞いているのかいないのかわからないような顔で静かに聞いているだけなのに。

「ねぇ、執事って、楽しい?」
「・・・なんですか急に」
「毎日人の世話やいて、命令されて文句言わずに言うこと聞いて、疲れない?」
「それが仕事です」
「だからなんでそんな仕事を選んだの?貴方ってあまり、この仕事に向いてないと思うな」
「何か私に不備でも」
「そうじゃないけど」

そりゃこの人は仕事は完璧で、執事としての務めもまっとうに果たしてる。
私の世話だけに留まらず多岐にわたって万能だし、どこへ行っても通用しそうだ。
何もこんなしがらみだらけの世界にいなくたっていいのに。

「執事になりたかったの?他にやりたいことなかったの?」

私の前にラスクを差し出すと、シワひとつないナプキンをその横に添える。
空調の温度を確かめ少し温度を上げ、風が直接私に当たらないよう角度を調整して。

「やりたいことと向いていることが同じだとは限りません」
「・・・」
「やりたいことを仕事にして、うまくいくとも限りません」
「・・・それって、つまり、やりたいことは他にあったっていうこと?」

彼は静かに前のシートに戻り、腰掛ける。
向かい合ったまま、だけど私に目はくれず、静かに執事らしく座っていた。

車内に用意されたティーセットは、私の好きな紅茶の銘柄が並んでいる。
小さく流れる音楽は、今度私のバイオリンの発表会での曲で、
毎日きちんと目を通せという新聞は、インクが私の手に付かないよう、
すべてのページ一枚一枚、丁寧にアイロンがけされている。

隅々まで行きとどいた気遣いは、すべてはそれが仕事だからなされていること。
人はお金を稼ぐために仕事をする。生きていく手段として、彼はここにいる。

「・・・執事なんて、やめちゃえばいいのに」

ぽつり、カップを口の前に持ったまま、小さく呟いた。
それは車が走る音と、車内に流れる音楽でかき消されるような小さな声だったのに、

「・・・」

静かに座っている彼は、また静かに目を上げ、私を視界に入れると
本当に、本当にささやかに、そっと、笑んだ。

「代表戦、決勝の予定日は空いてますので取りましょうか」
「ほんと?」
「はい。日本戦ではないとは思いますが」
「それって日本は決勝には残れないってこと?サッカー詳しいの?
そういえば準決勝に進むのも運がよければって言ったよね、ねぇサッカー好きなの?」
「着きました」

そうしてまた、私の話を遮って、三上は車から降りて私の傍らのドアを開けた。

「ねぇサッカーやってたの?上手なの?」
「いってらっしゃいませ。お時間にお迎えにあがります」
「ねぇだったら決勝戦一緒に見に行くでしょ?」
「お嬢様が行かれる場所はどこへでもお供します。仕事ですから」
「なによ、自分が行きたいくせに!」

鞄を渡して、いってらっしゃいませと彼はまた頭を下げる。

べーと舌を出す私を、いつもとは少し違う笑みで、見送っていた。

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流れるような音楽に乗って、ドレスの裾がふわりと舞う。
カツンと床を弾く靴音が小気味よく響き渡って、手拍子が一定のリズムを刻んで。

「イタイイタイ、この姿勢無理っ!」
「はい、そこでターン」
「ムリー!」

両手を掴まれたままくるくると回され目が回り、少し背中が丸まればパンと叩かれ、
ターンに足がついていかず足踏みするとそのまま足がもつれて床に転げた。

・・・ダンスは、この世でいちばん、向いていないと思う。

「どうしてもそこでうまく回れませんね。もう一度がんばりましょうか」
「いったぁい、もう、続きはあしたにしよー?」
「そうですか?ではそうしましょう」

尻もち付いたままダンスの先生を見上げそう懇願すると、
先生は優しい、少し困った笑顔で承諾してくれた。

まぁ、先生がそう言ったところで、あのオニ執事が承諾するはずがないんですけど!

そう思って諦めきった顔で立ち上がり練習用ドレスの裾をパタパタはたくと、
後ろからカツカツと近づいてくる靴音に来た来たと心の中でげんなりした。

「お疲れ様でした」
「・・・へっ?」

てっきり、きのうもここから進まなかったんだからもう一度!
とかなんとか、あの極悪顔で言われると思ったのに、
なぜだか三上はあっさりそう言い私にタオルを差し出し後ろから上着をかけた。

そのまま先生は帰っていき、ダンスルームには静かに練習曲だけが流れる。
その音楽も三上が止めて、私は汗を拭きながら、不審げに三上を見つめていた。

「何か?」
「なんか、へん」
「何がです?早く着替えましょう、体が冷めます」
「だっていつもなら、いつまでたっても出来ないだろ!もう一度!とか言うじゃない」
「出来ないものは仕方ありません。お嬢様は今日は十分頑張られました」
「・・・うそーお」

なんだ、この妙に落ち着き払った優しさは。
ていうか、この人は何も言わないときほどいろいろ考えていそうだ。
きっと心の中じゃ、何度やっても出来ない私に呆れかえってしまってるんだ。
そうに違いない。

だけど三上は本当にそのまま練習を終わらせた。
なんだ、なんなんだ、気味が悪い・・・

「・・・ねぇ、三上」
「はい」
「あの、やっぱりもう一度、練習しようかなぁ」
「今日はもう休みましょう。明日別の講師を迎えます」
「え?」

食後、お茶を飲みながら部屋で時間を持て余す私に三上は言った。

「別のって、あの先生やめちゃったの?私のせい?」
「いいえ、きのう出来なかったことを今日に持ち込み、それを克服させられなかった。
今日の練習を見ていてわかりました。あの講師は駄目です。使えません」
「使えませんて・・・、あれは私が出来なかっただけで・・・」
「生徒が出来ないのは当たり前のことです。それを出来るようにするのが講師の役目です。
役目を全うできなかった。立派なクビの理由です」
「パパも言ってたなぁ。出来の悪い人間がクビになるのは必然だって」
「もっともだと思います」
「でもダンスは、仕事じゃないし、」
「あの講師にとってダンスは仕事です。社交場でダンスは大事なものです。
ダンスが踊れないということはお嬢様の評価に関わります」

三上が言うことも、お父さんが言うことも、わかる。
わかるけど、納得できないのは、まだ私が子供だからかな・・・。


ワルツは、重心を波状に移動させながら、円を描くように踊る。
ワンツースリー、ワンツースリー。
姿勢をきれいに保ちながら、基本に忠実に。

「ここでター・・、わっ!」

ずりっと床に足を滑らせて膝をつく。
ドンと音が重く響き、その分だけ膝も痛かった・・・。

「いたーい・・・、も、ひとりじゃ支えがないから回れないよ」

いてて、と赤くなった膝を撫ぜる。
窓の外は真っ暗闇な夜更け。
音楽をつけることもできず一人の声はやたら響いた。

「うまく回れないのはトウ・ターン・アウトをしっかりとしないからです」
「きゃあっ!」

静かに低い声がダンスフロアに生まれて、私はビクリと肩を響かせた。

「重心がふらつけばどんなリードでもうまくは回れませんよ」
「び、びっくりした・・、なによ、いつからいたの?」
「15分ほど前からです」
「もっと早く声かけてよ!」

入口に静かに立っていた三上は、足音も響かせない静かな歩みで私の元までやってくる。

「お怪我は?」
「・・・ない」
「きのうも豪快にこけられましたね」
「きのうも見てたのっ?」

だったら声くらいかけてよっ!
また言うけど、三上はそんなの気にせずに私に手を差し出し立たせた。

「私が教えましょう」
「三上・・・、踊れるの?」
「もちろん。でも今日はもう休みましょう、お体に障ります」

まさかこの人が踊れたとは・・・
今までどれだけ心の中でバカにされていたんだろう・・・

「ダンスも上手なんて、隙がないのね」
「隙なんてあったら執事はしていられません」
「あ、わかった。先生より自分のほうがダンスうまいって思ってたんでしょ」
「それは違います。ただ気に入らなかっただけです」
「気に入らなかったって・・・、教えられてるのは私なんですけど」
「だから気に入らないんです。お嬢様がダンスが出来ないということが
お嬢様にとってどれほど重大なことかをあの講師は分かっていない。
ただ優しく指導しているだけ。優しいだけの講師はお嬢様には合いません」
「オニ執事よりずっと好きなんですけど」
「好きと結果は比例しません」

三上はいつものきちんとした制服じゃないだけに、いつもと違う雰囲気がする。
なんだか、普通の人みたいだ。この言葉使いが不思議に聞こえるほど。

「何よりあの講師はお嬢様がこんな深夜に練習していることを知らない」
「当たり前じゃない。貴方みたいにここに住んでるわけじゃないんだから」
「講師なら生徒が授業外で練習していることくらい気づいて当然。
それに気づきもせずあまつ出来が悪い等と思っている。その上甘やかしてばかり。
貴方の質を向上させられない人間に金を払う必要はない」
「でも私、ほんとに出来ないからな・・・」
「・・・」

出来が悪ければクビになって当然。
だったら、クビになるのは私のほうじゃないかな・・・

「貴方を不出来だと言われるのは心外です」
「・・・」
「貴方本人だとしても、そんなことは言われたくない」

薄く白けた蛍光灯の下、三上の黒い瞳が静かに私を見下ろす。
他の人みたく、私を疑わない。他の人みたく、私から目を逸らさない。

「パーティーまでに実証して見せましょう。貴方は出来ます」

私を見ててくれる。私を信頼してくれる。
いつも。いつも。

それからパーティーまでの数日間、オニ執事は本当に鬼のようだったことは、
言うまでもない。





執事 三上