外はテンポ良く雨音を奏で続けて、教室の中はぬるい空気が淀んでいる。
それでも外に出れないなら出れないで、新しい遊びを開発する。










Planetarium











「決めろよ圭介」
「ケースケ右、右狙え」


人通りの少ない広めの廊下に座り込んで、前に立つ圭介の背中をみんなで見上げていた。圭介は足元にヘルメットを置いて狙いを定め、数メートル先で構えているヤツを見据える。その目はまるで、サッカーの試合でフリーキックを決めようかとする時の目と同じだ。
圭介は数歩下がり、キーパーの目を見つめながら視線を右に流し、キーパーが右へ体を動かしたのを見るとヘルメットを左へ蹴り流した。床を滑るヘルメットは空いた隙間を突き抜けて、ガランガランと音を立てて奥の壁にぶつかる。


「イエー!ゴール!!」
「よっ!さっすが日本代表!!」
「まーまーそれほどでもあるけど〜」


わっと湧き上がると仲間たちの前で圭介がカズダンスを披露していると、騒ぎ声を聞きつけてまた先生が邪魔しにやってきた。開発する遊びをことごとくやめさせようとしてくる先生から逃げ出す圭介たちは廊下の先へ散っていき、雨より鬱陶しいお小言から全力で逃げ回る。階段を駆け下りていたら誰かがこけてゴミ箱へ突っ込んで、キタネー!と擦り付け合いになってはそこからまたオニゴッコが始まる。
雑巾とほうきで野球をしては怒られ、学校中の廊下を使ってオニゴッコをしては怒られ、机と椅子を積み上げてどれだけ高くいけるかチャレンジしては怒られ、窓から雨の中へ紙ヒコーキを飛ばしまくっては怒られる。窓ガラスは割れケガをして保健室が人で溢れても、校舎内から若い笑い声は止まない。やっぱり、みんなでゲラゲラ笑ってるときが一番楽しい。受験だテストだとピリピリしている教室内では騒げないし、雨で外に出られない鬱憤を全力で廊下で晴らす毎日だ。


「あーも、走れない〜」
「お前陸部やめたから体なまってんだろー」
「てゆーかお腹イタイーっ」


雨の廊下で高い声は遠くまでよく響いた。それでもチャイムが鳴ればしっかり教室へ戻り、待ち構えている先生にやっぱり説教を食らう。それをまた「センセー怒っちゃダ・メ!濃い化粧がハゲちゃうゾ!」なんて茶化すものだから、テスト前にも関わらず居残りで学校中の廊下掃除を命じられる羽目になるのだった。


「はー、ケースケのせーだ」
「まったくだよ、千葉センに化粧の話なんてするからー」
「なにぃ?お前らだっていっつも言ってることじゃねーかよっ」
「あたしら本人前にして言わないもん」
「ケースケはバカ正直だからなぁ・・・」
「不憫な目で俺を見るな!」


みんなでモップを片手に、主に自分たちが汚した廊下をねり歩く。トイレットペーパーの塊が落ちているのは、いつか水に浸したそれを投げて遊んでいた残骸だ。


「もーすぐテストなのにやめてほしーよなー」
「帰ったってどーせ勉強なんかしないクセに」
「するさ!俺は根はマジメだ」
「マジメに勉強してもアレなんだ、あんたも苦労するね・・」
「同情するな!お前だってテスト明けは補習の毎日だろ!」
「あたしはせーぜー1・2教科だけなのー、全滅に近い誰かと一緒にするな」
「赤点は赤点なんだよバカ」
「うるさいオールラウンダーバカ」
「ああんっ?」


床にモップを叩きつけて睨み合うと、やけに静かな周囲にふと気がついて周りを見渡した。


「「・・・あれ?」」


気がつけば周りにいた友達が誰もいなくなっていて、あいつら逃げやがったー!と叫ぶ声が虚しく響いた。

気づけよバカケースケ!
その言葉そっくりそのまま返してやるよっ!

文句を言い合いながらも、ご丁寧に掃除を続けた。は本当に部活をやめてしまったし、テスト前とあって圭介のサッカーもないから暇なのだ。そんな二人の脳裏に「テスト勉強」なんて文字はない。
学校中を一回りしてモップを掃除箱に押し込んで、ようやく帰り路につけるようになった。テスト前で部活も無いから生徒の姿は全く見えないけど、それでもいくつか下駄箱に靴が残っている。こんな時間まで残ってるなんて、真面目に勉強してるんだろうなぁ。


「見習えよ」
「お前もな」


靴を履き替えながら、さっきまでより幾分か落ち着いた笑い声が浮かぶ。傘たてのビニール傘を抜いて昇降口を出ようとすると、圭介はふと後ろを振り返った。がついてこない。


「どした?」
「傘ない」
「は?取られた?」


これだけ雨が降り続き、いろんな傘が幾つもここに収められるのだ。しかもの傘も誰もが持ってるオレンジのビニール傘。間違って持っていかれる事だってあるだろうし、ビニール傘だからいいや、と意図的に持っていかれる事だってあるだろう。
それならまだいいのだけど、が思いつくのはそれだけじゃなかった。ここのところ、廊下を歩けば好奇な視線は注がれるし、コソコソ囁かれる。

あの二人ってどーなったの?付き合ってんの?
とったらしーよ、佐伯さんから。
うわ、マジでー?

聞こえてない振りをしても、それで済むものでもない。それでも平気でいられるのは、自分の周りの友達はちゃんと分かってくれているし、クラスのバカ騒ぎする友達たちはそんなことには触れてこないし、それに、





カチ、と青いビニール傘を広げる圭介が、いつもより近くにいるからだ。一人になる暇なんてないくらい、考え込む暇なんてないくらい、隣で大騒ぎして笑い声を上げて、


「帰るぞ、はよ来い」


なんでもない、さりげない優しさが、身に染みるからだ。

学校がどんなところになっても、行かなきゃいけない。家にはいたくない。いてもいい理由がある唯一の場所を、圭介は守ってくれている。だからは毎日学校に来ることが出来たし、雨の中でも濡れずに歩くことが出来た。圭介の反対側の肩は濡れているのに。


「ケースケ」
「あー?」
「この傘恥ずかしい」
「なにを?これはスーパースターだけが使うことを許された由緒正しい・・」
「マジックで書いてあるだけじゃん」














要らない、と言ったのに圭介はに傘を渡して、自分はジャージを頭からかぶって雨の中を走っていった。いくら夏の手前とはいえ、圭介は間違っても病気になっていい身体ではないのに。ああ、大丈夫か。バカだから。雨雲を見上げながらつぶやいて、ふと笑った。

まだ日が暮れるには早い時間なのに、厚い雲のおかげで世界は薄暗かった。マンションに着くと傘をたたんで、雫をたらしながら廊下を歩いて、鍵を出しながらふと目を上げると、突き当たりの自宅の玄関の前に人が立っていた。見覚えの無い、女の人。その人は振り返ると同時にに目を留め、歩み寄ってきた。


「あなた、さん?」
「・・・はい」
「よかった。私、生活相談所の金村という者です。前々から何度か来てたんだけど、なかなか会えなくて」
「・・・」


生活相談所・・・
そういえば、いつか圭介がそんなことを言っていたことを、思い出した。


「あんたが、ケースケに話したの」
「え?」
「何か用ですか」
「あ、ええ。実はご近所の方からあなたの家から大きな物音や怒鳴り声が聞こえるっていう話を聞いて、・・・どこか落ち着いて話せる場所ないかしら」
「べつに話なんかないけど」
「そう?ちょっとごめんなさいね」
「なに・・」


そう言って金村は、の制服の胸元に手を伸ばした。
少し襟元を下げれば、焦げたような黒い痕がそこから覗く。


「火傷は消えないのよね」
「・・・」
「私もね、そういう風に煙草をこすり付けられたことがあるの」
「え・・・」
「前の主人にね」
「・・・」





と金村はマンションを出て、近くの喫茶店に場所を移した。家の前でそんな話は出来ないし、そろそろ父親が帰ってくる時間も近づいていた。


「いつから?」
「・・・」


それでも正面に座るが、何かしら傷を負った子供がそう簡単に心を開くことはなく、質問をして頷くことはあっても、回答として返ってくることはない。


「お母さんは、2年前に家を出ていったのよね。今はもう離婚が成立してるみたいだし」
「・・・」
「お母さんと会うことは?」


は一度首を振る。


「電話とか、手紙とか」


また、振る。


「そう。お父さんは最初は、あなたには手をあげなかったわよね。お母さんに向けられることが多かったんじゃないかしら」
「・・・」
「それでお母さんが出て行ってしまったから、あなたに向けられるようになったのかな」


雨のように水が入ったグラスから垂れていく雫を見ていたが金村に目を合わせる。すると金村は「そういう人が多いのよ」と答えた。


ちゃん、はっきり言うわね。あなた、お父さんから離れたほうがいいわ」
「・・・」
「このままお父さんと一緒にいてもお父さんがあなたに危害を加える行動は止まらないと思うの。あなたがどれだけ我慢しても、お父さんは変わってくれないわ」
「・・・」
「こちらで今のお母さんの居場所を探してみるわ。それまで、引き受けてくれる施設があるからそこへ・・」
「嫌」


どうして?と金村が聞いても、はまた黙る。


「まだあなたには受け止められないかもしれないけど、お父さんの暴力は許されることじゃないの。あなたが我慢してもお父さんだってずっとこのままになってしまうのよ?まずは離れることが一番だと思うわ、後のことは私たちがちゃんとサポートするから」


また、は首を振る。


の心の中に、父親の心配なんてなかった。同情すら覚えていた。母親がいなくては何も出来ずに、そのくせ物事が思い通りにならなければ気がすまない。自分の行動すら制御できないなんて、惨めだと。

そんな父親も母親も、今あるのは恨みばかりだ。泣きながら殴ってくる父親も、置き去りにしていった母親も、もう要らない。


「このままにしておけないの。あなたに悪いところなんて何もないのよ?あなたには暴力を受ける理由なんてないし、幸せになる権利だってあるわ。あなたにもやりたいこととか、あるでしょ?」


はまた首を振った。頑なに首を振った。
本当は何度もそう思っていたし、救いの手をいつも求めていた。

逃げたい、殴られたくない、助けて欲しい。
なんで自分ばかり。
誰もいないところに行きたい。

思わない日はなかった。小石が落ちる程度の音だけで目が覚めてしまう。夏でも厚手のふとんを手元に置いて、逃げるために押入れの下段は空けておいて、部屋に靴だって置いてある。窓の鍵は絶対にかけないし、どういう体勢が一番痛くないかばかり考えてる。火傷の痕なんてひとつじゃないし、左手の小指の骨が折れても病院に行けなくて、少し曲がったままだ。死にたいなんて、殺してやりたいなんて、何度思ったか分からない。


・・・それでも


「ねぇ、どうして?」


それでも


「・・・・・・離れたくない、人がいるから」


・・・この世がどんなに空で繋がっていても、世界中でそれはここでしか見れない。ここにしかない。

だってあいつは遠い星じゃなくて、

この手で掴める、確かなぬくもりだった。















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