あの雨雲の上には、きっとあの、川が流れてる。 Planetarium っきしゅ!! 予兆無く飛び出たくしゃみを無理やり抑えようとしたせいで、鼻水は逆流して鼻の奥を突いた。キーンと、鼻に水が入った時のあの痛みが目の間に染みる。 「きったないなー、飛ばさないでよ」 「ごめん」 「なに、風邪?」 「んーん・・」 さらさらと流れる鼻水はすすってもすすっても流れてくる。いっそ鼻にティッシュでも詰めて歩きたい気分だ。体育が終わったところで半袖にハーフパンツ姿の友達の後ろで、は長袖のシャツでぐしっと鼻を拭った。体育館から出ようと歩いていくと、重いドアを開けてこれから授業なんだろう、他のクラスの子が入ってくる。 どんどん入ってくる女子の集団は同じ学年の子ばかりだ。その女生徒たちはの前を通りがかりながら、みんなに視線を投げかけた。チラリどころじゃなく、軽蔑すら垣間見れる目だ。そんな目からはふいっと目を逸らした。その子たちは、紫と同じクラスの女の子たちだ。紫と一緒にいるところをよく見かける。何をどう知っているのか知らないけど、関係のない誰に軽蔑される覚えは無い。 「なんなのあいつら、お前ら関係ねーだろっつーの」 「あーゆーおとなしい連中ほどインケンなんだよ、気にすんな」 「べつに、どーでもいい」 また袖で鼻を擦って、みんなと渡り廊下を歩いていった。 ・・・紫とはあれきり、一言だって話せない。目が合ってもすぐに逸らされて、たまに挨拶で声をかけても紫の周りの子に阻害される。でも、圭介と紫が別れた直後は確かにそんな紫の目に軽蔑の色が見えていたけど、今の紫は少し落ち着いたのか、すぐに目を逸らすこともないし、何か言いたそうな顔をしている気がした。 なんだろう、あの目・・・ 教室に戻ると、クラスの男子は泥だらけのジャージを着替えていた。今日は雨が止んでいて、でもグラウンドはぐちゃぐちゃなのに男子は外で体育をしていたようだ。 「うわ、きたねー」 「熱かったよきょーのサッカーは!」 「熱かったねー、燃えた燃えた」 授業というよりただの泥遊びだ。Tシャツも靴下までも泥に染まった服をすべて窓枠に投げかけている。そんな見苦しい窓辺で、はまたぐしゅ、とくしゃみを吐き出した。 「なんだよ、風邪ひいた?」 「んー、そうでもない、と思う」 「思うかよ。ほら、これも着てろ」 圭介は使ってなかったジャージの上着を引っ張り出し、の頭に投げると制服のシャツに袖を通す。も降ってきたジャージを着ると、ふと机の上に置きっぱなしにしていた紙に目を落とした。進路希望の用紙だ。今日中に提出しに来いと言われていたのを忘れていた。その紙を持っては教室を出て行った。 職員室から出て廊下を歩くは、窓の外の世界を見上げた。雨こそ降ってはいないが、外は灰色のまま、まだ梅雨が終わらないようで空は相変わらずの曇り空。なのに温度は確実に夏へと向かっていて、湿気も手伝ってジメジメと肌に纏わりついて気持ち悪い限りだ。空はびっしりと重い雲が淀んで、きっと青いんだろう空をずっと隠している。 もう7月なのに・・ この時期、どうしても見たいものがあった。きっとあの雲の上にはもう、出ているはずだ。星屑が散りばめられた、天の川。 「いやっ・・・」 ふとどこからか、小さく聞こえた声にピタリと足を止めた。聞こえたほうを見ると、そこは資料室で、教材が置いてあるだけの物置みたいな部屋だ。あまり学校には似つかわしくない声だった気がする。が不思議に思ってその部屋へ近づいて、そのドアを開けた。 「!」 「さん・・」 資料室のドアを開けると、資料や教本が溢れる狭い部屋の中に、紫を見た。その紫の腕を、社会の飯田が掴んでいた。 「・・・」 それがどういう状況なのか分からなかった、けど、腕を掴まれている紫は涙を浮かべて、助けを求めるような目でを見ていた。その前にいる飯田も焦った顔をしている。 「何してんの?」 「助けて、さん」 「何言ってるんだ佐伯、落ち着きなさい」 焦りで口を引きつかせる飯田は紫の腕を掴んだまま慌てて口を動かした。まだその状況を、理解したわけではないけど、口唇を振るわせる紫の顔は怖さと悲しさで歪んで、 その目は、分かる 「違うんだ、誤解するな、俺は何も・・佐伯が勝手に思い込んで、・・」 取り繕う言葉を並べる目の前の人を見ていると、ふっと、の頭に何かがフラッシュのように戻ってきた。 お父さんが悪いっていうのかっ? 「・・・」 世界が赤く、染まって見えた。喉の奥が痛くて、すり抜けるように息がなんて熱く、漏れていく。ガ、と近くの椅子を掴んだは、紫の腕を掴んでいる飯田に向かって椅子を振り上げた。 「やめろ!・・・」 ガンッ!!・・ 衝撃で手がジンと痺れる。飯田は咄嗟に腕でかばったけど間に合わずに、が振り下ろした椅子の角が頭に当たって、呻きながらうずくまるように転がった。 鈍い音がした。椅子を伝って感触が手に、残っていた。手を離して、ガランと音を立てて床に落ちる椅子の脚に赤い液体がついて、うう・・と唸り声を搾り出す飯田が頭を押さえているその手には、血が見える。 心臓の音が大きい。 血の循環が上手くいってないような、息苦しさが喉から頭へ上る。 「さん・・・」 近くでそっと、泣きそうな紫の声が耳に届く。は紫の手を取ると、痛い痛いと小さく繰り返している飯田には目もくれずに部屋から駆け出した。滑る廊下を走って、泣いている紫は廊下を歩く生徒の目を引いたけど、あの部屋から出れれば良かった。 廊下の奥まで二人で走って、突き当りまで来るとそのまま床に座り込んで、二人で大きく呼吸を繰り返して、吸い込みすぎた息が器官に入ってはゴホゴホと激しくむせた。 「さん・・」 「大丈夫?」 「え?」 「なんともない?大丈夫?」 「・・・」 スカートを握る手にぽたりと雫が落ちる。 「何かされたの」 「・・・肩とか、足とか、触られて・・・」 「・・・」 不快な感触を思い出してしまったのか、掠れる紫の涙声は途切れ途切れに漂った。紫の握る手がまた力を入ったのを見て、はそっと紫の頭を撫ぜた。 当たり前だ。触られただけでも気持ち悪くて仕方ないのに、それを、教師がしたのだ。信じてはいなくても、誰も疑いやしない、教師が。 「さん、ごめんね・・・」 「え?」 「私苦しくて、誰かに聞いてもらわないと潰れちゃいそうで・・・、圭介とのこと友達に少し話して、そしたらいつの間にか、どんどん広がっていっちゃって・・・、話してない子までみんな知ってて・・・」 「ああ、」 「みんな顔合わせるたび圭介とのこと聞いてきて、最初はみんな、私のこと心配してくれてるんだって思ってたんだけど、・・・ほんとは、みんな、楽しんでるだけなんじゃないかなって思えてきて、もう、私とは関係ないところで、話が進んでるみたいになっちゃって、」 パラパラ降ってくる涙が雨のようで、すべてが雲って見える。 誰もみんな、傷つけたいわけじゃなくて、傷つきたいわけじゃなくて、何かがほんの少しだけ違っていれば、うまく噛み合ったかもしれないすべてが、ほんの少しずれただけなのに。小さなささくれが、時間と共に、深くなるばかりだ。 「佐伯さんのせいじゃないよ。佐伯さんが謝ることなんて、何もない」 「・・・本当は私、わかってたの。圭介は、ずっとさんが」 「違うよ。あいつはちゃんと佐伯さんが好きだったと思う」 「・・・」 「でもごめん。あたしは、嘘ついてたかもしれない」 誰かが笑っていても、誰かが泣いて、誰かが幸せでも、誰かが泣いて。世界はいつからこんな、鈍色だっただろう。絶対、なんて、きっとこの世にない。ずっと、なんてものを夢見るほど子供ではなかった。だからといって現実ばかりを生きる、大人にもなれなかった。 ただ、こうして似たような涙を流して、気持ちを解かせて、もう少し後でなら少し笑えそうな、その程度には子供でいたかった。 そのくらいの幕間劇くらい、くれても良かった。 座り込む二人の後ろから慌しい足音が聞こえてきて、も紫もそのほうを見た。その先からのクラスの担任が焦った顔で寄ってくる。 「お前、今度はなんてことしたんだ、職員室に来なさい!」 「・・・」 目がやけに血走っていて、怒鳴りたいのを必死で押さえているような顔だった。何をそんなに苛立って怒っているのか、大体想像はついた。 「さん・・」 「もう授業始まるよ、次体育でしょ」 「・・・」 立ち上がるは平気に笑って、廊下を歩いていった。 |