重い雲の上に晴れる空が想像つかない。
この世は青を、忘れてしまったようだ。










Planetarium












どこいったんだぁ?」
「さー、進路の紙出しに行くって言ってたから、職員室じゃないの?」


どーしたんだろ、と圭介は空っぽのの席を見つめていた。そんな中、教室のドアから荒々しくクラスメートが駆け込んで圭介の机に滑り込んできた。


「やっべぇ!ヤベぇよ圭介!」
「んあ?どしたの」


あまりの慌てようにクラス中が注目していたけど、それどころじゃないといった顔で圭介のシャツをぐっと掴み引き寄せると、耳元でそっとつぶやいた。


が、飯田殴ったって」
「・・・はあ?!」


折角気を利かせて声を抑えてくれたのに、圭介の叫ぶ声でまたクラス中の視線を集めてしまう。でもそれどころじゃない圭介は、椅子から立ち上がって掴み寄った。


「なにそれ!どーゆーこと?!」
「さっき職員室で、飯田が頭から血ぃ流してたから大騒ぎになって、にやられたって言ってて」
「んだよそれ、んなわけあるか!で?は?」
「わかんね、校長室連れてかれたっきり出てこないし・・」
「・・・!校長室だな」


バッと手を離すと圭介は机の間を縫って走り出した。そうして廊下に出ようとドアをくぐるとすぐそこにいたとぶつかりそうになって急停止する。


!お前、大丈夫だったか?!」


圭介の形相を見てはもう知ってるのか、と思った。でもそれが”大丈夫だったか?”にどう繋がるのやら、なにが?とは圭介の横を通り過ぎて、自分の席に向かって行くとカバンを取って、またドアのほうへ戻ってくる。


、どこ行くんだよ」
「家。謹慎だってさ」
「謹慎って、なんで!」


隣をしつこくついて歩くけど、は答えるどころか足も止めない。そのまま1階まで階段を下りてきてしまうと、そこには担任が待っていた。


「なんなんだよ、何があったんだってば!」
「山口、教室に戻りなさい」
「訳わかんないよ!ちゃんと説明しろよ!」


が人殴ったなんてそんなこと、あるわけない。だっては、誰よりもその痛みを、悲しさを知ってるはず。


「先生、ちゃんと話聞いたの?が飯田殴ったなんて、嘘だろ?!」
「そう騒ぐな。本人が認めてるんだよ、理由は言わないけど」
「絶対なんか訳があるんだって!はそんなことしないから!ほんとに、あるわけないんだよ!」
「山口、」
「アイツはそんなことしねーよっ」


に振り返ったけどはもう下駄箱で靴を履き替えて、そのまま昇降口を出て行ってしまっていた。


「待てよ、!」


なんなんだよ、意味わかんねーよ。
濡れたコンクリートの上を遠ざかっていくを追いかけようとしたけど、担任に止められた。校舎の中に休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴り響いて、教室に戻りなさい、とまた言われて、意味がわからないまま頭をがしがしと掻き毟る圭介は、行き場のない思いを壁にぶつけ階段に座り込んだ。


「圭介・・」


伏せた頭の上から声がして顔を上げると紫で、目の前で紫は少しビクリと肩を揺らした。苛立つ圭介があまりに表情を歪め崩していて、怖かった。紫に目を合わせた圭介は、ああ、と強張った顔を緩めるけど、やっぱり圭介にこんな顔をさせるのはだけだと、紫は胸の奥でチクリと思った。


「あの、さん、は・・・?」
「・・・。何、なんか聞いたの」


まさかもう噂になってるのか?あいつ最近浮いてるから、周りからしたらまたいいエサなのかもしれない。
戻そうと思ってもなかなか戻らない眉間のしわをゴシゴシこすって、圭介はさり気に顔を伏せて話した。こんな顔を、今の心の中を誰にも見せたくないけど、どうにもこうにも、落ち着きそうにない。


「・・・あの、私のせい、なの」
「・・・え?」
さんが飯田先生にケガさせたの、私のせいなの」
「どういうこと?なんか知ってんの?」


顔を上げて、立ち上がって圭介は紫に詰め寄った。














ポーン・・・、と遠くで呼び鈴の音がなると、しばらくしてガチャリと目の前のドアが開いた。


「よ」


ドアの向こうから顔を出したは圭介を見上げて、でも何か喋ることも、笑うこともしなかった。なんか、疲れてる顔だ。少し瞼も赤い。


「なんか色々持たされちゃったよ。お前テスト受けれないんだってさ、だからその分プリントとか宿題とか色々。あとてっちゃんたちが差し入れだって。おつとめゴクローさんですってさ」


家の中に入れてもらうと、圭介はカバンの中からどさっと何枚かのプリントと、袋いっぱいにつまったお菓子やジュースを机の上に並べた。
思えばが引っ越したこのマンションに入るのは初めてだ、と圭介は周りを見渡すけど、カーテンは閉められているし、洗い物や洗濯物は乱雑だしゴミもたまってるしで、陰気な感じを覚えた。

ごめん、ここは汚いや。そう圭介を通したの部屋は、散らかり放題のリビングとは違って結構片付いていた。というか、さっぱりとしている。最低限のものしかない。
それでも何故か懐かしい気がしたのは、圭介の家の隣に住んでいたときにあったの部屋の中のものがそのまま揃っていたからだった。机やベッド、クローゼットはもちろん、UFOキャッチャーで取ったぬいぐるみとか、一緒に夏祭りに行った時のうちわとか、一時期はまって熱心に集めたカードとか。


「お!」


部屋で何かを見つけて手を伸ばす圭介の声に、は振り返った。

窓際の机の上に置かれていた、紺色の透明なシート。方角と時間が書かれた四角い基盤の上で、円形の盤に星座が描かれたあの星座盤。裏側に擦れて消えかけた黒マジックで、山口圭介、と見覚えのある字で書いてある。


「なつかしー、お前ほんとまだ持ってたんだな」


そう、明るく話題を振るようにに振り返るけど、はうんと頷くだけ。


「どした?」
「・・・」


元気のない顔と声で、は圭介が持ってきたプリントをぺらぺらとめくる。
あんなことの後じゃ、当たり前か。


「あのさ、紫に聞いた」


手の中で星座盤をくるくる回す圭介の言葉を聞いて、は目を上げて合わせた。


「紫助けるためだったんだろ?全部飯田が悪いんだろ?じゃあなんでそう言わないんだよ、言っても聞いてもらえないと思ったのか?だったら俺も言うからさ、」
「いいよ、それは別に」
「何がいいんだよ。お前こんなことで謹慎くらって、テストも受けれないし進路とかも色々ヤバイだろ。悪いのは全部あいつなのに、なんでお前がこんな目に遭わなきゃなんねーんだよ」
「だって、佐伯さんがかわいそうじゃん」
「は・・・?」


紫?紫がなんでかわいそう?


「それ言ったら、佐伯さんがされたことも知れ渡っちゃうもん。そんなのかわいそう。黙っててやってよ」
「・・・お前、なぁ」
「いいんだ、べつに。テストなんて受けなくてラッキーじゃん。高校も、あんまり考えてないし」
「考えてないって、行かないつもりかよ」
「だって考えられないんだもん。先のことなんて何も」
「・・・」


気にしてないなら、もっと普通に喋れよ。ラッキーだと思うならもっと笑えよ。きっとここに他の誰かがいれば笑っているかもしれないはずっと、泣きそうな顔をしてる。


「あー・・、あのな、飯田、大したことないってさ。病院行ったみたいだけど」
「・・・」


プリントの束を持って部屋の真ん中で立ち尽くしていたの手から、パラリと数枚の紙が毀れ落ちた。ハラハラと落ちていって、支えられなくなって足元に降っていく。


?」


床に視線を落とした、髪に隠れる俯けた表情はよく見えなかった。に近づいて手を伸ばし、顔を隠してる髪をのけて顔を覗き込むと、睫に今にも落ちそうな雫を見た。


「・・・あの時、よく分からなかったのに、なんか、頭の中にもやがかかった感じがして、」
「え?」
「ムカついたとか、助けようとか思ったわけじゃなかったんだよ・・」


たどたどしく話すの口唇は震えていた。睫にぶら下がる雫がポタッと落ちて、散らばったプリントにしみを作る。


「あ、あたし、殴ろうなんて、思ってなかったんだよ・・」
「うん、分かってるって。お前は悪くないよ」
「違う、そうじゃなくて・・」
「え?」
「何も、思ったわけじゃないのに、勝手に動いてて、椅子なんて絶対ケガするに決まってるのに、そういうこと何も考えられなくなって、」
・・」
「気がついたら殴ってて、血が、出てて、」


は震える手を圭介の胸に伸ばし、シャツをギュッと握り締めた。胸に押し付けられた手から直にその振動が伝わってくる。申し訳なく思って、なんてものじゃない。ガタガタと怯えるように震えてる。小さいその手があまりに苦しそうで、圭介はそのの手をぐっと掴んだ。


「大丈夫だって、あいつのケガなんて大したことないから、自業自得だよ」
「何も考えずにやってた、やっちゃ駄目だとも思わなかった、あ、あたしは・・」
っ」
「あたしは、あの人と同じだ・・・っ」
「・・・・・・」


ぐしゃぐしゃに顔を歪めて、喉の奥で上手く出てこない嗚咽を繰り返すは堪えきれずに床に座り込んだ。圭介の足元でうずくまって、小さい身体をもっと小さくさせて、大きく背中を揺らしてボタリボタリ涙を染み込ませて・・

深く俯くの、後ろ首から覗ける服の中に黒いアザが見えた。本当はずっと見えてた。制服じゃ見えなかった、今着てるの服の首元から覗く黒い痕も。


あの人と同じだ


あの人


・・・は、誰よりも殴られる痛みを知ってるから、人を傷つけるなんてありえない。そう思って、信じてた。

でもは今、怖くて泣いている。
自分が一番忌み嫌って軽蔑していた。自分はそんなことしない、絶対にそんな人間にはならないって、ひたすらそう信じていた、はずなのに・・・


・・・」


もう、何をどう言ってやればいいのか、わからなかった。お前は悪くないというのは簡単だけど、でもそれは、の父親だって悪くないと言ってるようで。でもだからって、暴力はいけないなんて簡単にも言えず・・・。

うつ伏せて泣き続けるを覆うように、抱きしめた。

でも何も、言ってやれない。俺の中に、この世のどこかに、こんなを救ってやれる言葉があるのだろうか。今のこのの涙を止められる、魔法のような言葉がこの世にあるのだろうか。

俺は持ってない。そんな奇跡のような言葉があるのなら、それをくれるなら、俺はなんだってするのに・・・


「泣くな、大丈夫だから・・・」


情けないそんな言葉だけ言って聞かせた。自分の無力さが、幼さが、なんて頼りなく無意味で、何も出来ないこの口も、何の役にも立たないこの腕も、心底恨めしかった。


悔しい・・・。
悔しくて、悔しくて悔しくて、


ただぎゅっと抱きしめて、涙を堪えた。














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