ずっと、ほど 叶わない願いはないと思った。










Planetarium











ピタリと笑い声を止めたに気づいて、圭介は暗い中でどした?とつぶやいた。 そうして静かになった部屋の外で人の歩く音が圭介の耳にも聞こえて、


「・・・お父さんか?」
「・・・」


息を潜めるように膝に口をうずめるの様子で、それは確信になった。


「圭介、出てって」
「え?」
「窓から出れるから。下芝生だし、ケガしないよね」
「・・なんでそんな、逃げるみたいにしなきゃいけないの?」
「いいから、早く。下で待ってて、すぐ靴持ってくから」


静かに音を立てないように、は圭介の腕を引っぱり立たせて窓のカーテンをしゃ、と開けた。きっと玄関にある靴で誰かがいるのは気づいてる。その証拠に足音はまっすぐこの部屋に近づいてきていて、窓を開けると部屋のドアがゴンゴン、と叩かれた。
、いるのか?
もう圭介もあまり覚えていない、の父親の声がする。


「早く」
「・・・」
「ケースケ早く」


焦り気味で急かすに背中を押されながら、圭介は薄い木の扉に振り返っていた。ゴンゴンノックを繰り返す向こうで「?」とかけられている声は別段、怒っている様子もなく聞こえる。でもは早く早くと急かして逃がそうとする。

カーテンが開いたせいで明るくなった部屋。オモチャの星はただのプラスチックに戻り、一面の星空はただの部屋にもどる。魔法が解けるみたいに。圭介はふと、カーテンと一緒にかかっている、いつかに被せた自分のパーカーに目を留めた。


、お前そこ隠れてろ」
「え?」


ぐいと圭介はを引っ張って押入れの中に押し込んだ。圭介が扉を閉めようとするところを止めて「何するの?」と怖がった顔で聞くけど、圭介はふと笑って、大丈夫と言って、


「絶対出てくるなよ」
「何、何するの、ケースケ・・」


バタンと扉を閉めた。
ふ、とひとつ息を吐いて、ノックされ続けてる鍵のかかったドアに振り向いた。ドアの鍵はもういつ壊れてもおかしくないくらい緩く、ドアノブが回されるたびに大きな音をたてていて、その鍵を外してドアを開けた。


「・・・」
「あ・・の、こんにちは」
「・・・誰?」
「覚えてないですか?前に隣に住んでた山口です」
「・・・そう」


何年ぶりかに見たの父親は、圭介が覚えているその容姿よりずっと老けて見えた。白髪が混じって頬もこけてシワも増えて、こんな人だったっけと思うほど。そんなの父親も、圭介が分からないようだった。ただ前の家の隣人、ということに反応しただけで。


は?」
「あ、は、買い物に行くって、さっき出てきました」
「買い物?君をうちに置いて?」
「はい・・」


静かに話すの父親は客観的に見て、殴るとか、そんな風には見えなかった。本当にこの人がの傷を?手足も細めで、華奢な感じがするのに。


「・・・あの、」


でも、の傷も、涙も、全部本当だ・・・。


「なんで、を殴るんですか・・・?」
「・・・」


今まで目を合わせつつもどこか、合っていないような気がしていた。でもその目がピタリと圭介の目に合わさった時、反射的に圭介の胸を小さくビクリ、と震わせた。


が何か言ったのか」
「いえ、あいつは・・」
はね、昔から人見知りが激しくて、母親もいなくなってしまったから寂しがりなところがあるんだよ。
構って欲しくてありもしないこと言うんだ。だから君が聞いたことも嘘だよ、父親が子供を殴るはずないだろ?」
「・・・」


雨の中小さくなるは冷たくて、傷ついた手を震わせて、泣いてて、


「じゃあ、あののケガは・・」
「最近付き合う友達が悪いらしくてね、どこで何をしてるんだか。私も注意しているんだけど」
「・・・」


それでもあいつは、


「・・・あいつは、殴られたなんて一度も言わなかった」
「・・・」
「俺が何回聞いたって、あいつは首振るばっかりでずっと、何でもないって言ってたんだ・・」


悔しい。悔しい、悔しい。
なんで・・・


「なんで、アンタにその気持ちがわかんないんだよっ・・!」


どうしたって癒せない深い傷をつけたのはこの人なのに、あんな痕が残るほど痛めつけて、ずっと泣いてたを見ていたはずなのに、この人の口から出るのは自分の保身ばかりだ。


「なんで父親のアンタがなんでを殴るんだっ。俺が何したって治せない傷を、父親のアンタがつけて、どれだけを傷つけたか、分かってんのかよ・・・、そんなの父親じゃないよ、アンタは親じゃない!」


バシッ

何かが飛んできて圭介は咄嗟に腕でかばって一歩下がった。
足元にバサリと雑誌が落ちて、目を上げるとの父親は蒼白な顔で目を見開いていて、まるで人が変わったように怖い目で静かに圭介を見下ろしていた。


「悪いのは俺か、悪いのは俺かっ?違うだろ、悪いのは勝手に出ていった母親だろ!」
「・・・」
「誰が育ててると思ってるんだ・・、も、俺の言うことを全く聞かないからっ・・・」
「誰が悪いとか、そんなこと関係ないんだよっ!アンタがしてることは最低だ!」


バシッと張り手が飛んできて、かばったけどそのまま圭介は背にあった机に倒れたこんだ。


はどこだ、隠してるんだろ、どこだ!」
「なんでわかんないんだよ、なんでアンタがを泣かすんだよっ」
「お前に関係ない!出てけっ、出ていけ!」
「っ!・・」


シャツの胸倉を掴む目の前の人に、もう何を言っても聞こえない。この人はもう人の耳を持ち合わせていない。人の心も。

ガッ、と殴られて圭介は床に倒れこみ、その圭介に向かって時計が飛んできてガシャン、と押入れのドアにぶつかって大きな音を立てた。その音でビクリと体を震わせるは、ドア一枚隔てた暗い押入れの中で泣きじゃくって耳を押さえていた。すぐそこから怒鳴り声が聞こえていて、物がぶつかる音もして、圭介がきっと、殴られてるだろうに、腕も足も心臓も震え上がってしまって、体どころか声すら出せなかった。

出なきゃ、出なきゃ、・・・
ケースケが、止めないとケースケが・・・

それでもどうやっても、声が空気としてすり抜けるばかりで、手は握る前に震えて、震える気持ちばかりが勝って、どうしても目の前の扉を開けることが出来ない。

扉の隙間から滲む外への薄い光に震えながら手を伸ばし、出なきゃ出なきゃと繰り返し言い聞かせる。扉に、と、と弱い手をつくと、バンとその扉を向こう側から押さつけられ線状の光が消えた。ぎしっと扉の向こうから重みがかかって、圭介がそこに、いる。


「ケースケ・・・」


出てくるな


「・・・ケースケっ・・・」


押入れの扉を背に立ち上がる圭介はごし、と口元にぶつかった痛みを押さえる。ここでを出したら、もっとが傷つけられる。


「お願いします、もう、を傷つけるのはやめてください」
「うるさい、二度とに近づくなっ、出て行けっ」
「お願いします、もうが泣くのは嫌なんです、お願いしますっ・・」
「うるさいっ!」


お願いします、お願いします、
言い続ける圭介は掴まれて部屋から引っぱり出され、引きずられて玄関から靴と一緒に外に押し出された。勢い余って外の廊下の壁にドンッとぶつかり、肩を押さえながら家の中を見るとが部屋から出てきているのが見えて、立ち上がり家に戻ろうとした寸前でバタンと玄関を閉められた。

ぶつかった箇所も殴られたところもズキズキ痛む。小さく手も震えていた。
涙が出そうだった。でもそれはこの、痛みにじゃない。人に殴られるという衝撃と、それがの父親だという事実。それが実の父親であるにとったらもっともっと痛かったに違いない。


「っ・・・」


玄関の向こうではまたドアをバンバンと叩いている音がする。拳をぎゅっと握って靴を履き、圭介は立ち上がって廊下を走っていった。階段を駆け下りてぐるりとマンションの裏に回って、奥の窓にカーテンと一緒にかかったパーカーを見つけた。

あの日、守ろうと、決めたんだ。


っ!」


まだドアが叩かれる音が聞こえる。さっきよりずっと荒っぽい音だ。もう一度呼ぶと窓の向こうにが見えて、窓を開けるが酷く苦しそうに濡れた顔で見下ろした。


、大丈夫か?」
「ごめんね、ケースケ、ごめんね・・」
「・・・っ」


雨は降ってないのに、パラパラ、パラパラ、・・・


「来い、
「・・・」
「下りれるか?受け止めるから、そっから飛べ」
「・・・駄目、駄目だよ、もう行ってケースケ」
「いいから、早く」
「駄目、こないで、早く、どっか行ってっ・・・」
「来いっ!!」
「っ・・」


圭介が手を広げると、は涙を飲み込んでゆっくりと柵に手をかけた。乗り越えて、手を離し飛び降り、降りかかってくるが地面に足をつくところで体を捕まえた。力を込めたけどそのまま芝生に倒れこんで、湿った芝生にぐしゃりと手をついた。


、大丈夫か?」


こくりこくり、は泣きながら頷く。


「良かった」


泣き止まないを抱き込んで圭介はホッと胸をなでおろす。


「ごめん、ごめんケースケ、」
「お前が謝んなよ。いいんだ、俺は全然後悔してない」
「ケースケ・・・」
「行こう、とりあえずうち行こ」


の身体と一緒に起こして立ち上がり、見つかる前にと走り出した。途中靴を履いてないを負ぶると、どんより暗い空からまたポタリと雨が降ってきた。

雨よりもっとはっきりと、すぐ後ろでの泣き声は止まなくて、ぬるい雨がどんどん体を濡らしていくけど、ぎゅと肩を掴んでいるの手が初めて自分を頼ってくれたようで嬉しくもあった。
でもやっぱり、このままでいいはずがない。早くどうにかしないと、がどうにかなってしまいそうだ。

でも、何が出来る?俺に何が出来る?
この震える手を止める術を知らない。雨から守ってやるものすら持ってないのに・・・


通りかかった家のベランダをふと見上げると、雨に濡れた笹を見つけた。色とりどりの飾りと短冊がぶら下がって、そうか、今日は七夕だったと数時間前に思ったことを思い出した。


きっとあの雲の上には、こんな風に身を寄せ合ってる二人がいる。


、あれ」


雨の中足を止めて、一緒に見上げた。


「今日は七夕だもんな」
「うん・・」


いつも雨の、7月7日。


「雨が止めばいいのに」
「・・そうだな」


・・・大丈夫だ。俺たちはまだ、年にただ一度逢瀬を交わす二人の幸せを想像できる。どんな現実に直面しようと、まだ誰かの幸せを願える。誰にも聞こえない声で叫んで、届かない願いを繰り返して、それでも、想い、夢見ることが出来る。


雨は止む。
夏は来る。


そう、強く信じることが出来る。














1