テレビのニュースではようやく梅雨明けの兆しが見えてきたと言っていた。
季節は夏へと向かっていくようだけど、空はまだ、薄暗かった。










Planetarium











二人でびしょぬれになりながら帰ってきた圭介の家で、驚いている圭介の母に簡単に事情を話すと、今日は圭介の家に泊めてもらうことになった。二人は濡れた服を着替えて夕食をとる。雨はぬるかったとはいえ、体だか心だか、ぽかりと穴が空いてるような体にあたたかいごはんは染み込むようだった。


「なんか懐かしいな、2年くらいしか経ってないのに」


日が暮れて、夜空をうっすらと雲が覆う。
圭介の部屋の窓から空を見上げていたは、隣に建っている昔自分が住んでいた家を見て言った。
その家にはもうすでに別の人が住んでいるらしく、庭に三輪車があったり花壇が作られていたりと、自分が住んでいたころとはもう、まったく別の家になっていた。窓のカーテンの向こうからも明かりが漏れていて、カーテンも当たり前だけど、知らない別の柄。


「なんか変な感じ。自分ちに人が住んでるのって」
「お前が引っ越してって割とすぐ今の人引っ越してきたんだよ。俺だってヘンな感じだよ、やっぱ隣はお前んちって感じだからな」
「ふーん」
「隣に小3の男の子がいてな、野球が好きで野球やろうやろうってゆーんだよ。俺はあいつが中学上がるまでに絶対サッカーに切り替えてやるね」
「無理にやらせたって伸びないよ」
「俺が育ててやるんだ、将来大物間違いナシ!スーパースター2号だ」


小さい笑い声を口の中で上げては窓から腕を引くと圭介に振り返った。
こっちに背中を向けている圭介は、テレビに向かってビコビコとコントローラーを操作している。
は自分の家が久しぶりなら圭介の部屋はもっと久しぶりだった。
昔よりずっとサッカー関係が増えたような気がするけど、それ以上にゲームの本数もかなり増えている。


「お前相手しろよ、何のためにいるんだ」
「てゆかアンタ、勉強しなくていいの?」
「あとでするからいい。いーからここ来なさい」


テストでゲームを取り上げられていたここ2週間、圭介は鬱憤を晴らしたくて晴らしたくて仕方ないのだ。
窓辺にいるを隣に座らせると、もうひとつのコントローラーをつなげてカセットを入れ替えてスタートボタンを押す。画面を見ながら「二人でゲームするのもいつ振りかなぁ」なんて昔を思い返して、この部屋で時間を過ごせば過ごすほど、時間も、自分たちも、心も、昔に戻っていくような気がした。


「お前鷹野先生覚えてる?小5の時お前のクラスの担任だった」
「うん?」
「俺去年小学校遊びに行ってさ、その時にあの先生に会って、お前元気かって聞かれたよ」
「なんで?」
「さー、ただの会話じゃない?まぁあの先生だいぶお前のこと気にかけてたからな」
「うん、あの人はいい人だったね」
「よっくゆーよ、お前ウザイとか散々言ってたクセに」
「反抗期だったんだよ」


変わんねーよ、今もまったく。
せせら笑ってやると、圭介が操作していたゲームキャラが後ろから攻撃されてひっくり返った。


「うげ!お前こんなきわどいとこでぶつけんじゃねー!」
「勝負とは常に非情なものだ」
「ゴール直前なのに・・あー抜かれてくー!」


トップからいきなり5位まで転落していった圭介は猛然と追いつこうとするけど、隣でが堂々と1位のテープを切ると途端にヤル気を削がれて結果5位、画面が黒くなってしまった。


「ちきしょうめ、この恨み晴らさずしておくべきか」
「いやーちょっと、赤甲羅持ってついてこないでよ!」
「待〜て〜」


叫び声と笑い声が合わさって狭い部屋にこだまする。画面の中で白熱しながら、互いにも蹴ったりちょっかいだしたり、足の引っ張り合いで結局二人して最低の結果。勝負はつかず、しまいには勢い余ってコントローラーを引っ張ってしまって画面に横線が入る始末。それをまたお前のせいだ、と罵り合って、笑った。

時計の短針が次第にてっぺんへと向かっていく。
明日はテスト最終日とはいえ、テスト中にゲームなんかしてたら怒られることは必至だ。でも圭介は「がいるから怒りになんか来ないだろう」と踏んでしめしめとゲームを楽しんでいた。が、そんなにうまくいくはずもなく、やっぱり怒られた圭介は仕方なくテレビを切って教科書を引っ張り出すのだった。

はーあ、とわざとらしいため息をつく圭介はもうテストなんて終わった気分でまったくヤル気が沸かなかった。
それでも明日は歴史、国語、家庭科と暗記系ばかりがずらりと並ぶ。重い頭を抱えている圭介に付き合っては教科書を読み上げて煮詰まった脳みそに詰め込ませた。


「ほら、覚えろ。丸覚えしちゃえばこっちのもんだ」
「自分は関係ないからってノンキなこと言いやがって・・」
「関係なくないよ、多分夏休み返上でテスト受けるし」
「そーなの?」
「3年だし、テスト受けずに終わるなんてあるわけないじゃん」
「それもそうか。って、お前高校どーすんの」
「今後の身の振り方によるんじゃない」
「・・・あ、そっか」


・・・つい、家を飛び出して来てしまったけど、高校に行こうと思ったら家に帰るほかないのだ。
明日からは土日で、圭介の母もしばらくうちにいればいいと言ってくれているけど、まさかずっとここにいられるわけがない。
結局、大人の保護下になければ生きていられない、子供なのだから。


「今後どーするかを考えなきゃいけないんだよなぁ、お前はどうしたい?」
「・・・」
「あの人に一回、相談してみよーか。ほら、前言っただろ、役所の人」
「ああ・・・」
「つかうち住んじゃえば。そしたら高校だって近いとこ行けばいーし、オールオッケーじゃん」
「無理だよ、それは」
「なんで?俺頼んでやるよ」
「無理だよ」


ぽとりとは教科書に目を落とした。
圭介も冗談で言ったわけではないし、そうなれば一番いいと思っているけど、実際は考えれば考えるほど難しいものだった。そしてそれらすべての前に立ちはだかるのが、親の負担と金銭面だ。子供の自分たちにはどうしようもない現実ばかり。


「でもだからって、親父さんとこに帰るわけにもなぁ」
「・・・」
「・・・ま、後のことはまた考えるとして、今日は寝よう。な」
「覚えてから寝ろよ」
「ち、覚えてたか」


床に敷いたふとんの上で、圭介はノートを片手にゴロリと寝転がった。
隣のベッドを見ると、ベッドの端でが膝を抱えやけに小さく座っていて、窓から隣の家を見ていた。


「どうした?」
「・・・あそこに住んでた時はお母さんもいて、お父さんも、普通だったのにな」
「・・・」
「どこからヘンになっちゃったんだろう」
「少なくともお前は悪くないからな。ヘンな風に考えんなよ」


圭介の言葉に振り返ったは口唇を噛むように笑った。


「でもさ、お父さんも、ほんと、普通だったんだよ」
「うん」
「休みの日は出かけたし、一緒に遊んでもくれたし、笑ってたし、ほんと普通で」


窓の向こうに、幼い自分が見える。ある日の自分の家族が見える。
特別いい家族、なんていえなくても、間違っても悪くなんて見えなくて、本当にごく普通な、・・・


「戻りたいなぁ・・・」


あれが、幸せというものだった。










それから翌日、土曜日曜と圭介の家にいさせてもらっていた。もしかしたら父親がここまで来るかもしれないと思っていたけど、それはなかったからはほっと胸を撫で下ろした。
それが逆に少し、胸にチクリと落とすものもあったのだけど。

そうして迎えた翌週の月曜日、学校に行く圭介を玄関で見送りながらは「あのさ、」と口を開いた。


「一回、家に帰ろうと思うんだけど」
「え、なんで?」
「あの、ケースケのパーカーも、置いてきたままだし」
「は?そんなのいーよ、うちにいろよ」
「うん、でも、ちょっと、見に行きたくて・・・」
「んー・・・、じゃ俺も行くから帰ってくるまで待っててよ」
「でもお父さんいないうちに行きたいから」
「あ、そっか・・。一人で大丈夫か?誰かについてってもらう?母さんとか」
「ちょっと行って帰ってくるだけだよ」


がそう言うのなら、圭介は了承する他ない。
でもなぁーでもなぁー、と繰り返しながらに背中を押され、圭介は仕方なく学校へと向かった。
もう見えなくなるかというところで振り返って「学校サボればいーんだ!」と閃いたけど、に相手にされずにおとなしくまた歩を進めていった。ダラダラと見えなくなった圭介の後姿にふと笑うは、梅雨明けが発表されたにも関わらずぐずついた空を見上げて、目を細めた。

世間は夏に向かって蝉の声もするのに、まだ晴れない空。
じめじめした湿気は気持ち悪く肌を撫ぜて、気分までをもどんより、引き下げるようだ。


圭介にああは言ったけど、はやはり一歩を家に近づけるたび胃の底からぐっとこみ上げてくるような、
むせ返るほど窮屈で苦しい感情の波を感じた。じわりと額に汗を感じる。虫の声がやけに煩く、重なって大きく響く心臓の音を静めようと服をぎゅと握りながら、マンションを見上げた。

玄関の鍵をガチャリと、できるだけ音をたてないように開けた。こんな時間誰がいることもないのに、なんとなく、堂々と自分の家に入るように、は入れなかったのだ。
そっとドアを開けると中はむっと熱気が篭って、カーテンも少ししか開いておらずで暗かった。
中へ上がって、相変わらず物とゴミが溢れている間をまたぎ歩いて、リビングのテーブルの上にビールの缶と、半分ほどしか減っていない弁当が雑に置かれているのを見た。

すると、椅子の背もたれにかかっているネクタイを見てドキッと胸が騒いだ。
その後すぐ背中でカタンと物音を聞き、バッと振り返ると、洗面所から静かに出てきた父親を見た。
ビクリと身体を揺らすは足元のものを踏みつけて後ずさりし、そんなを映す父親の目も、うすらと暗かったのが光を宿すように力が篭っていった。


っ」
「っ・・」


その声におののいては反射的に部屋に走ってドアを閉め、ガチャリとゆるい鍵をかけた。

、どこに行ってたんだ、心配したんだぞ。
叩いたところが痛かったのか?謝るから、出てきてくれよ。

すぐそこから聞こえてくる父親の声が入ってこないように、ドアを押さえた。
今まで何度、そんな風に優しく情けない声を出し、殴り、その後謝って、また殴りを繰り返してきたのか。
そんな声聞きたくなくて、はぐっと耳を塞いだ。

じゃないと、この言葉を、声を聞いているとどうしても、ドアを開けてしまうんだ。
許してしまうんだ。


っ!」


一度声が収まると、今度はそんな怒鳴り声と一緒にドアがバシンと叩かれた。


「開けろ、言うことが聞けないのかっ」
「や、やだ・・・、いや・・」
っ、どれだけ面倒をかければ気が済むんだ!開けろっ!」


ガチャガチャ、ガチャガチャ、
その頼りない金具が最後の、薄っぺらな境界線で、いつ壊れるかもしれない音を響かせていた。
ドアノブを押さえて、こないで、と必死で自分を守るけど、震えて力は入らず涙で視界は揺れて、世界も、自分も、ガラガラと脆く崩れていくような音がした。
みし、と薄い木のドアがしなる音がする。鍵の金具とドア板の隙間が開き始めている。


「た・・」


今まで何度、何度それを口ずさんで、誰にも届かずに消えていったのか。
誰にも届かない、誰にも聞こえないと身をもって知らされたのにそれでももう、そうとしか言えなかった。


「助けて・・・」


助けて、助けて、助けて、助けて、・・・

誰か、誰かっ・・・





―――





「・・・」


ふわり、まるで花の香りが届くように、ふと感じた。
やさしく名前を呼ぶ声がした。

ぎゅっと瞑っていた目を開けると睫の先から涙が落ちていって、床で弾ける。
目の前のドアの向こうからはまだドンドンと音が響いて聞き難い声が浴びせられているのに、そんな音がフィルターの向こうから聞こえるような、いや、世界自体がすーっと遠のいていくような気がした。

どこからか聞こえたやさしい声。
聞き間違うはずがない、こえ。

ふと振り返り、薄暗い部屋の中で白い光を差し込ませている窓を見た。
眩しい眩しい、白い光。
そこに、


「・・・・・・ケースケ・・・」


冷たい雨の下でも、ぬくもりを与え続けてくれたあの、圭介のパーカーがあった。


「ケースケ・・・」


振動を大きくさせていくドアから離れては足を奮い立たせ窓へ駆け出し、
カーテンと一緒にかかったパーカーに手を伸ばした。


―助けて、ケースケっ・・・


もう圭介の温度どころか、雨のにおいすらしないそれに手を伸ばし、ぎゅと掴んだ。

その瞬間、はじけるように、視界一面に見えたんだ。

あの日の、満天の星空が。
掴めそうなくらい大きく輝くあの、一番星が。


バターン!と鍵が壊れて開け放たれた部屋に父の足音がずかずかと踏み込んでくる。そうして狭い部屋を見渡すけど、その小さな鳥籠は、空っぽだった。


「・・・」


さわさわとカーテンが風に揺られてはためく。カーテンレールにかかっている針金のハンガーがぐらぐらと揺れていた。

偽物の星が鈍く、光を落としていた。




・・・眩しい星を目を細めながら見て、いつも思ってたことがある。
悲しいことの後でも、苦しいことの後でも、それは不思議と傷を癒し、受け止めてくれていた。だから何があっても、ただ最後に必ず、高い星を見上げられればそれで良かった。

籠の窓は、開け放たれた。
籠の鳥は光を求めて、傷ついた羽を必死にはためかせた。

風に乗るように悠々と、花の香りのようにふわり、自由な空へと飛び立った。
羽毛のように温かいものを握り締めながら

飛べる

そう信じていた。


信じていた・・・













1