私は、神様から見落とされたんだ、と思っていた。 その思いはだんだんと大きくになるにつれ、少しずつ変わっていく。 神様なんていなかった。 STAND BY YOU!! File2:泣いた人体模型 ![]() 生ぬるい空気の中で、誰もが半袖で肌を冷ます。緑の樹木は生い茂って地面に陰を作り、重なる葉音に混ざって蝉が鳴く。学校という空間を象徴する若い声。夏の開放感と閉鎖感。水道から流れる水は指の間から毀れ落ち、手の温度をさらっていく。 「・・・」 長袖のシャツを捲し上げている左手に目を落とす。体のどこよりも白い腕の内側の肌。それより薄い色で残る、手首を横切る痕。それでもその下では熱く強い血液が流れていた。肌色に透けて浮かぶ、黒い血管。 「ー!」 「!」 呼ばれた声に驚いて、水から手を引き捲し上げていた袖を下ろした。呼ばれたほうに振り返ると若菜君が教室のドア口から顔を出している。 「早くしろよ、今日テープ回収しに行くんだからー」 ほうきを持って、急ぎたい気持ちでいっぱいの若菜君にうなづくと若菜君は教室に引っ込んだ。濡れてる雑巾を絞って、手を洗って水道の水を止める。 「くっそぉー、今週に限って掃除当番とはなー。英士たち先行ってるってさ」 いつもならほうきと雑巾で遊び出す若菜君が珍しくテキパキとみんなに指示をだし、掃除はものの15分で終わった。使ってるところを見なかったほうきを掃除箱に投げ入れ、机の上のカバンをひっつかむと早く早くとまた私を急かす。 「てかお前なんでいつも長袖なの?暑くない?」 「うん」 「いくら夏休みが終わったって言ってもまだ夏だぞ?見てるこっちが暑いっつーの」 早足に、でも私に振り返って歩く若菜君とベースへ向かう。 確かにまだ暑い。暦上で夏は去っても実際に浮かんでる太陽はまだ夏の名残を引きずっている。何もしなくても汗が滲むし涼を求めずにはいられないくらい。 「英士も夏は駄目でさ、夏休み中遊びに誘っても暑いからイヤだって何度断られた事か。一馬は夏生まれだから暑いのヘーキでさ、でもあいつは夏休み中ずっと別荘で避暑!何様だよ、俺も連れてけっつーのなぁー」 いつの間に並んで歩く事に抵抗がなくなったのか。いつの間に彼らの名前を覚えてしまったのか。いつの間に毎日同じ場所に向かうことに疑問を抱かなくなったのか。若菜君は自然すぎて、抗う事も忘れてしまう。 「は何月生まれ?ちなみに俺は6月生まれ」 「10月」 「お、何気にもーすぐじゃん。たんじょーびにはケーキ買ってやるからなー」 でもそれはぬるま湯で、暑くもなく冷たくもない。浸かってる間は何も感じないけど、少しでもそこから出た途端に外気温との差に身をすくめずにはいられない。その時はそれまでの心地よさを清算するほどの熱さか冷たさを受けなきゃならなくて、でもそれが世の定めだと知っていた。 ヒヤり足元をさらう冷気が刺すように感じる。お前冷え性だろ、だからそんな寒がりなんだ、運動をしろ運動を!そんな冷たさ、きっと若菜君は感じる事もない。その熱で溶かしてしまうから。 「手とか冷たいんだろ、末端冷え性ってヤツ?」 「!」 若菜君が私の手を取り、でも私はすぐにその手から手を引いてしまった。 ビックリした顔で「ゴメン」という若菜君は大きな目で私を見つめる。私は小さく首を振り、左手の、指先の冷たさをギュッと握った。行くか、と元通りの笑顔を見せて若菜君は跳ねるように歩いていく。 彼は飛ぶように歩く人。 元気にドアを開け入っていく若菜君について、部屋に入って静かにドアを閉めた。 「あ、結人やっと来た」 「ワリーワリー。どう?ビデオ」 「ここ見て」 「なになに?なんか映ってた?」 撮影したカメラの映像を見ていた英士君と真田君に近づいて画面を覗いた。ビデオを再生すると画面は理科室の人体模型の足の部分を映し出す。しばらく何も起こらないただそれだけの映像が続き、英士君が「そろそろ」とつぶやいた。その直後、薄暗い理科室の床にじわじわと、水が現れた。 「水だ!人体模型が泣いたー!」 「でも涙っていうから水滴程度かと思ったら、これまんま水じゃん」 「じゃあ人体模型のションベン?」 みんなが黙って若菜君を見ると、若菜君は小さく頭を下げた。 「時間は夜9時20分。この日科学部の部活が終わったのが5時半で、最後に理科室を閉めた部長さんが出てったのが大体6時。その後理科室に入った人はいない」 「やっぱ人体模型の涙だよ。誰もいないのに水が出たんだよ?それも号泣だよ?」 「でもこの出方はどう見たってわざとらしいだろ。どうにかすれば水が発生するように細工できるんじゃないの?理科室だし、水素とか使えば出来ないこともないと思うけど」 「電気分解の逆か。でもコレだけの量を発生させるのにどれだけ必要?」 映像を何度も繰り返す英士君と真田君は画面を見ながら様々な推論を交わす。その二人の後ろで会話に混ざれない若菜君は「お前ら探偵みたいだな」と脱力させる言葉を漏らした。 「マジメに言ってるんだけど」 「俺だって大マジメだ」 「(無視)とにかくもう一度理科室行こうか。部長さんにも見てもらえば何かわかるかも」 「そうだな」 「リーダーを無視するな!」 「行くよ、リーダー」 画面の前から離れてテープを持ってみんながベースを出ていく。私は机にカバンを下ろし、若菜君が「早くしろ」と声をよこした。 「私ここで待ってる。行っても役に立たないし、意見箱の纏めとく」 私がここにいるのは、幽霊が見えるから。幽霊じゃないらしい今回は私がついていく意味なんて何もない。 途中まで英士君がしてたのだろうノートを開いて椅子に座ろうとした。・・・すると、若菜君がスタスタ私の元まで歩いてきて、突然ぎゅっと私の頬を引っ張った。 「いた・・」 「お前も行くの!」 「・・なんで?あたしが行ってもしょうがないよ」 「しょーがないのはお前の頭ん中だ!お前自分で自分のこと不幸にしてんだぞ、わかってんのか!」 「は・・・?」 「そーやって人から離れようとするから人のありがたみがわかんねーんだよ!だからお前はいつまでも友達の一人も出来ねーの!」 「・・・そんなの、」 若菜君に関係ない。 そう言いかけた私の、今度は額をペシッとはたいた。 「関係ないとか言うな、今度言ったらマジで殴る!」 いつも太陽のように笑う若菜君が、いつも深く弧を描いてる目が、本気で怒っていた。 「結人、それ殴ってから言うセリフじゃないよ」 「こんなの殴ったって言わねーの!」 ほら行くぞ!と若菜君は私を引きずって歩幅の大きい足でベースを出ていく。ドア口で待つ英士君と真田君の間を通り抜けて、結局4人で夏下がりの廊下を歩いた。若菜君が掴む私の手はやっぱり冷たくて、小さく震えていた。 理科室についた私たちだけど、理科学室では科学部の人たちが何かの実験をしていて、科学部の部長さんにしばらく待てと言われ私たちは理科室の前で待つことにした。 「あの水の出方からして一番考えやすいのはやっぱり氷だね。放課後に置いていけばあのくらいの時間に溶ける」 「でもカメラには氷持ってるヤツも仕掛けてるヤツも映ってなかったじゃん。それにあの水の量だと結構デカイ氷じゃないと無理だろ」 「あのカメラじゃ夜は暗すぎてイマイチよく見えないんだよね。せめてどこから流れてくるかが分かれば特定しやすいのに」 「てゆーかその氷どっから持ってきたんだろーな。だって放課後に設置するならそれまで溶かさずに持ってなきゃいけないんだろ?そんなの出来るの?」 「学校から家が近いとか、寮に住んでれば出来るんじゃない?」 「よし、お前寮の冷蔵庫調べてそんなよーな氷がないか見て来い」 「今から?」 今から!と若菜君に背中を叩かれて、私は寮へ向かった。階段を下りていくと1階一面に甘い匂いが立ち込めていて、家庭科室で調理部がお菓子を作っている匂いだった。 学校の寮は遠方から来ている生徒しか住んでいない。年々寮生は減り今年の入寮者は30人程度。寮の真ん中の階段から右側が女子、左側が男子、つまり男子も女子も同じ棟に住んでいる。 冷蔵庫は各階の給湯室にあり、各階の冷蔵庫を見て回ったけどそれらしいものはないし、そもそもそんな大きな氷を作れるほどの空きスペースもなかった。一応1階にある食堂で働く人にも聞いてみたけど、食堂の大きな冷蔵庫にもそんなものは見当たらないと言われた。 学校に戻り理科室に行くと、もう廊下には若菜君たちはいなかった。中を覗くと黒板の前にみんなで固まって、科学部の部長さんにあのテープの映像を見てもらっていた。 「、どーだった?」 「何もなかった」 「そっかぁ。寮じゃないとなると、近くに住んでるやつとかか」 椎名さんに映像を見てもらっている間、英士君は準備室に設置していたカメラのテープを取りに行き、真田君は人体模型の周りを調べていた。きのう出たあの水は、科学部の部員に掃除されたようだ。 「でもこれがイタズラだとして、何がしたいんだろうな」 「面白がってるだけじゃないのー?噂に便乗してさ」 「でもこんなの2・3回やれば噂なんてすぐに広まるのに、もう2週間以上続いてるんだろ?何か目的があるんじゃないの?」 「何かって?」 「それは知らないけど」 「理科室にヘンな噂が流れて得するヤツなんているかー?」 「それか、誰かを困らせたくてやってるとか」 「翼センパイ!ひょっとして誰かに恨み買ってないでしょーね!女とか!」 「ケンカ売ってんの?」 「だって実際部員が減って困ってんの翼センパイだし」 「べつに困ってないってば。一番ウルサイ奴らが辞めてってくれて助かってるくらいだよ」 「ウルサイ奴らって?」 「同じ学年の女子で、ベタベタくっついてくんの。そいつらがうちの部にまで入ってきて、実験もせずにキャアキャア騒ぐんだよ。本気しめようかと思った」 「まさか、その人たちを追い出すためにこんな・・・」 「殴られたい?」 「イエ、遠慮しときマス」 「とにかくその人たちが出てったんなら、翼さんの事を思ってやったって線も出てくるな」 「翼さん、そーゆー子に覚えは?」 あるわけないだろとかキッパリ言われるかと思ったけど、椎名さんは少し考え込んで、心当たりがあるような顔をした。 「誰かいるの?」 「可能性低いけど、うちの部に中野ミカってヤツがいるんだ。そいつが俺の事好きで部に入ったとかいう噂が一時期流れてさ」 「わー、やっぱ女子部員の大半は翼さんのファンなんっすね」 「でもそれってただの噂じゃなくて、さっき言ったウルサイ連中、あいつらが中野からかって言い出したことで、中野はあいつらにいい遊い道具にされてたらしいんだよね」 「うーん、ますますアヤシイっすねー。じゃあその人がそいつらへの腹いせに理科室の七不思議を使って仕返しを・・・」 「いや、中野には出来ないよ」 「なんで?」 「そいつ今学校来てないから。2学期になってから一度も」 「なんで?」 さあ、と椎名さんは首を傾げる。そこに英士君が準備室から出てきて椎名さんを呼んだ。 「準備室って頻繁に掃除しますか?」 「いや、滅多にしないけど」 「なに、なんかあったの?英士」 英士君はコレ、とみんなの前に右手を出し、その手にはピンクのヘアピンが握られていた。 「きのう入った時も思ったんだけど、滅多に掃除しない割りに埃がたまってないんだ。というか、埃が乱れてる」 「乱れてるって?」 「誰かここに入ったってことじゃない?」 「誰かって誰」 「そんなの知らないよ。カメラには何も映ってなかったし。で、このヘアピンは奥のロッカーの近くに落ちてたの。錆びてないからそんなに前のものじゃないと思うんだけど」 「それ・・・」 英士君の持っているヘアピンを見て、椎名さんが口を開いた。 「見覚えあるの?」 「前にここに誰かがそんなヘアピン忘れてって、ずっと誰も取りに来ないから捨てようとしたんだけど、中野がもし取りにきたらかわいそうだって言ってさ、ならお前が預かってろって中野に預けたんだよ。それがこんな感じだった気がする」 「へぇー。じゃあコレはその中野さんが持ってたものなんだ。それがなんで準備室に?」 さぁ、と呟く椎名さんは英士君からそのヘアピンを受け取り、記憶を辿るようにそれを見つめた。 「なぁ、ちょっとここ見て」 その私たちのうしろから、人体模型を見ていた真田君が呼んだ。みんなが寄っていくと、真田君は壁際の床につと指をあてる。 「ここの床と壁になんか塗ってあるんだけど」 「なんかって?」 「なんか、蝋みたいな」 「ロウ?って、ロウソクのこと?」 真田君が見下ろす床とその脇の壁は、薄い白で覆われて少し光っていた。真田君が暗幕をめくって廊下の明かりを理科室に入れるとその部分はさらに白く光り、それは人体模型の足元の床から壁を辿って窓の淵まで続いている。そしてその先の窓枠の溝には水滴が残っていた。 「たぶん廊下から窓を開けて中の窓枠に氷を置いたんじゃないかな。氷は溶けて壁から床に流れてって、でも壁と床には蝋が塗ってあるから水が弾いてちょうど人体模型の下に水が溜まるようになってるんだ」 「なーるほど!でもそれを誰がやったわけ?その中野さんは学校来てないんスよね?」 「ああ」 「とにかく、コレで人の手で行われてるって事がわかったんだからもういいんじゃない?」 「犯人捜さねーの?こんな凝ったイタズラする犯人見つけだそーぜ、今度はこの窓んとこにカメラしかけてさ!」 「廊下にカメラ?それはちょっと問題になるんじゃないの?」 「なんでだよ、学園の平和のためだぞ!」 「じゃあ結人は家庭の平和のために自分の部屋にカメラつけられても文句言わない?」 「・・・言う」 はい終了。とみんな片付け始め、理科室を出て行った。不思議な現象でも原因が分かれば、それを誰がしていようと興味はないらしい。そしてこの件は落着したとして終わりを迎えた。 「でもなんかスッキリしねーなー。イタズラに七不思議語られたんだぞ?新聞部になんて言うわけ?ただのイタズラでしたって言ったらじゃあ誰が犯人だってことになるじゃん!」 このサークルの調査結果は新聞部を通して学校新聞に掲載されるらしい。部ではないこのサークルが活動するための資金やこのカメラ類はそこからの報酬としていただいていた。 「じゃあどうするの?続けるの?」 「もち!犯人捕まえてたっぷり灸をすえてやる!」 「でもそのイジメに遭ってたらしい人は学校来てないんだろ?」 「ったく、どこもかしこもイジメイジメ。友愛と自立と向上の精神なんて嘘っぱちだな!」 「そんなものご丁寧に覚えてるの結人だけだよ」 「そーそ、イジメのない学校なんてないんだって」 「・・・まさかまた生霊じゃないだろうな」 「・・・」 ぼそりとつぶやいた若菜君の言葉に、私も英士君も数日前の出来事を思い出してブルっと背筋に寒気を走せた。 「結人、今度は乗っ取られないでね。しっかり気を持つんだよ、何でもいいから頭の中いっぱいにしてな」 「なんで俺にだけ言うんだよ!」 「結人が一番空っぽだから。また乗っ取られてももう助けないからね」 「あたしもヤダ」 「そんな事ゆーなよ!・・・助けてくださいっ!」 一番あの出来事を目の当たりにした私と英士君は寒気を払って足早に歩いた。そのうしろを若菜君が慌てて追いかけ、そのうしろで真田君が笑っていた。 そうやって私たちが理科室から離れていくと、うしろからガラーンっ!と何か重たいものが落ちる音がした。振り返ると、その先ではエプロンをつけた女の人が慌てて落とした何かを拾っている。 「エプロンしてる。調理部かな。さっきからいー匂いがしてたんだよな」 「調理部?」 英士君がポツリと呟いた。英士君はまた振り返って、何かを拾っているその人をジッと見る。 「ねぇ、あれ氷じゃない?」 「え?」 床にしゃがみこんでる人は急いでそれを拾い集めていた。確かに、何色にも見えずにただ光ってるそれは氷のように見える。私たちが遠くからその光景を見ていると、その中から若菜君がぴゅっと飛び出てその人に向かって走っていった。 走ってくる若菜君に気づいたその人は、急いで立ち上がり逃げるように走っていった。私たちも駆け寄っていくと、理科室前の床は一帯に小さな光る破片が散らばっていて、英士君がそのひとつを手に取ると、じわっと滲んで溶けた。 「犯人だ!!」 確信した若菜君は叫び、まだ聞こえている足音を追って階段を駆け下りていった。 |