続きがくれる勇気




 梅雨が明けたのか明けてないのか、とにかく3階の窓から見上げた空は青い。
 山のほうに流れてく雲はやけに芸術的で、はっきりとした色と形をしている。
 生ぬるい風。白いポロシャツの中で汗ばんだ肌はベタベタして気持ち悪かった。

 空から目を離し、もう何度目かもしれない手中の携帯電話を見る。
 いつもの待ち受け画面が変わらずそこにあり、着信もメールも知らせない。
 もう、とため息ついて手を下げたら携帯電話が汗で滑って、危うく窓の下に落としてしまうとこだった。焦った。

 3年の教室が続く廊下に、普段はあるはずのない椅子が壁にみっつ並んでいる。
 1組の教室の前に並んだみっつの椅子にはそのクラスの男の子と涼しげなスーツを着たお母さんが座っていて、2組の教室の前に並んだ椅子には女の子がふたりとそのお母さんふたりが仲良く笑ってしゃべってる。反対側の4組の教室の前の椅子にはお母さんがひとりで座っててそれから少し距離を取ったところに男の子が床に座り込んで携帯電話をいじっている。それぞれ親子の関係が知れてなかなか面白い光景に思えた。

 しかし、私はひとりだ。4時に来るはずのお母さんはもう20分も遅刻している。
 ひとりきりの私は周りから見たら、とても寂しい子に見えてるんじゃないだろうか。お母さんのバカ。今度はわざとらしくあーあとため息ついて、固い椅子にドカッと座った。



 ふてくされた顔が代わり映えのない携帯電話の画面に映ってた。
 そんな顔のまま、名前を呼ばれてそのほうに顔を上げた。
 私を呼んだ人を見た途端、私はパッと目を大きくして背筋を伸ばした。

「まだいたの」
「ああ、うん。お母さんが遅れてて、次の子に先に入ってもらった」

 近づいてくる真田は小さく「そうなんだ」と呟いて私のそばで立ち止まった。
 真田の後ろには緩やかな襟元の白いシャツを着た長い髪の人がいて、その人が真田の後ろで優しく微笑んで会釈したものだから、私は慌てて立ち上がり頭を下げた。真田が「べつに立たなくていいよ」と言った。
 しかしここには椅子がみっつしかない。一番右に私がすでに座っていて、あとふたつに真田とお母さんが座ったらなんだかおかしな図になる気がする。真田もそう思ったのか、お母さんに「座れば」と薦めて自分は椅子の向こうの柱に背中をつけた。まん中ひとつを空けて私と真田のお母さんが並んで座る。

さんていうの?」
「はい、です」
「一馬と仲良くしてくれてるの?」
「え、えーと……」

 チラリとお母さんの向こう側に立ってる真田を見上げたら、真田は一度私と目を合わせたけどすぐに逸らしてカバンから携帯電話を取りだしたから私もすぐお母さんに目を戻した。

「同じクラスになったのは、初めてです」
「一馬が女の子と話してるところなんて初めて見たから驚いちゃった。この子、女の子と仲良く出来てるの?」
「母さん、やめろよ」
「えーっと、あんまり仲良くは、ないかもしれない……」
「やっぱり? この子無愛想でしょ? 中学生にもなって女の子と仲良く出来ないなんてね」
「やめろって」

 真田は恥ずかしそうにお母さんを睨むけど、お母さんはまるで気にしてない顔で笑ってて、ふてくされてる風な真田がいつもより幼く見えた。真田が「一馬」とか「この子」とか呼ばれるのもなんだかかわいくて、男の子とお母さんってこんなものなんだなぁと思った。真田はさらに不機嫌な顔をしてるけど。

「お母さんはお仕事?」
「あ、はい、スーパーの花屋さんでパートしてます」
「あら、よく行くのよあのお花屋さん。お会いしてるかもね」

 真田のお母さんは綺麗だけどかわいい感じもあって、品のある明るい人だった。
 真田も、品があるっていうとおかしいけど、他の男子みたくズボンからシャツが出てたり濡れた手を服で拭いたりしないし、先生への言葉使いとかごはんの食べ方とかもきちんとしてるから、なるほどなって感じだった。(うーん……うちのお母さんとは会わせたくない)

 真田のお母さんとおしゃべりしてると教室のドアがガラっと開いて、私の次の順番だった子とそのお母さんが出てきた。

、お母さんは?」
「まだこないです」
「そうか、遅くなりそうか?」
「ぜんぜん連絡こないから、たぶん」
「どうする。また次にするか?」

 担任の先生が真田のお母さんを私のお母さんと間違えそうになったけど、その横に真田もいることに気づいて失態は免れた。うちのお母さんのせいで真田とお母さんを待たせるのも悪いので先に真田に面談をしてもらった。

 真田のお母さんが立ち上がり教室に入っていくと、それに続いて歩きだす真田がカバンに携帯電話をしまって、その代わりに取りだしたものを私に振り向き差し出した。真田の指先にはガムがあって、両手を出した私の手の上にそっとそれを乗せて教室に入っていった。私はそのキシリトールのガムを見下ろして、唇を噛み締めて笑った。一度前に、私の次の順番の子が先に教室に入っていった時は、ひとりぼっちで廊下に残されて何故か泣きそうなほど寂しさを感じたのだけど、今度はそんなこと、ぜんぜんなかった。

 教室の中からお母さんと先生の声が途切れ途切れ聞こえる。
 真田の声はその中で一度二度小さく聞こえるだけだったけど、私はその一瞬に耳をすませて、ぜんぜん聞こえないやと笑った。
 そんな中で、先生の声だけど「東高校」という言葉を拾った。
 それを聞いて、私は携帯電話と一緒にひざに乗せていた紙を手に取り広げた。
 その進路希望の紙には第二希望も第三希望も空欄で、第一希望にだけ「東高」と書いてある。
 本当ならとっくに全部を埋めて先生に提出しているはずのこの紙を、私はいつまでも白紙のままだったから今日の三者面談までに書いてくるよう先生に言われてたのだ。

 いつまでも真っ白なままだった。綺麗なままだった。
 だって行きたい学校もやりたいことも、何にも思いつかなかったから。
 そんな空白ばかりの進路希望を見て、ある雨の日、真田が言ったんだ。

 ――俺、東高行くよ。

 何も言い返せない私の前で、真田が書いた。空白に。学校の名前を。
 あのあと私は、笑ったっけな。泣いたっけな。
 不思議だった。
 役目を果たしたこの紙は輝いて見えて、行く宛てが出来た私は呼吸の仕方を思い出した。仕事で忙しいお母さんに文句ばかり言ってたのに、真田がお母さん大変だなって言ったら私もお母さん大変だなって思えるようになった。背中を丸めて自分の足ばかり見てた目が真田を探すようになって、そしたら学校ってこんなに広かったっけ、こんなに明るかったっけって思うようになった。挨拶の意味も、友だちの必要性も、勉強の意味も、真田が全部思い出させた。何してるんだろう私……って目が覚めたようだった。

 全部、真田が置いてった。私に必要なもの。
 全部、真田が持ってった。私の要らないもの。

 ああ、どうしよう。
 寂しくもないのに泣けてきた。キシリトールのせいにしようと口に放り込んだ。

 プリントで涙を隠すと膝の上で携帯電話が鳴った。
 公衆電話からの着信は、きっとお母さん。
 今終わったの、ごめんね、すぐ行くからね。
 焦った声のお母さんに、もう待ってる人いないからゆっくりでいいよって言った。


 10分くらいして、教室から真田とお母さんと先生が出てきた。

、お母さんまだ来てないのか」
「うん。もうすぐ来るって」
「連絡来たのか。じゃ、先生今のうちトイレ行ってこよ」

 実はずっと我慢してたようで先生が廊下の奥に走っていった。
 先生にも文句ばっかり言って迷惑かけたけど、今はごめんねって笑える。

「お母さんお仕事大変なのね」
「そうみたいです」
「お会いしたかったわ。じゃあお先に」

 真田のお母さんがまた丁寧に挨拶してくれて、真田も「じゃあな」と手を上げて歩いていって、私も手を振った。ひざの上に携帯電話とプリントを乗せて、キシリトールのガムを噛みしめながら、先生とお母さんを待った。

「かわいい子ね」

 ふと小さく、風に乗って聞こえた。離れていった真田のお母さんの声。
 ドキッとしたけどまさか振り向くわけにもいかなくて、ひとりでうろたえた。

「あー……、彼女」

 えっ? って、真田のお母さんが驚いてた。
 足を止めて振り返ったようだったけど、私はさらに顔を上げられなくなって、聞こえてないフリした。こっちに戻ってこようとしたお母さんを真田が止めてるようで、そのまま真田とお母さんは帰っていった。

 気がつけば廊下には誰もいなくなってて、隣のクラスで誰かのお母さんの笑い声が小さく響いてた。背中の窓からはぬるい風が吹き込んで頭の上を撫ぜていった。もくもくとした青空の中の雲が教室の窓に映って、まだ陽が暮れない初夏を思わせた。

 ボロッと目から涙が落ちてきて、私は咄嗟に手で隠した。
 プリントに黒いシミが出来てしまって、どうしようと慌てふためいた。
 寂しくもないのに、悲しくもないのに、涙は零れるのだと知った。
 お母さん、まだもう少し、遅くなっていいよ。





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