異背景の別熱




青い空に浮かぶ白い雲が山に乗る。遠くで叫びあう蝉が更に熱を上げる。
一目で分かるそんな夏が、ここの夏だった。

「とぉーくー、とぉーくー、はーてしなくつづく、みーちーのうーえーからー」
「・・・」

開いた教科書に目を落としながら、そのまま目だけを縁側に向けた。
額に手をついて、その自分の手首の向こうに、の頭が見える。

「つーよーい、おーもーい、あーのひかりまで」

「とーど・・、え?なに?」

空に向かって寝転がっていたは、頭の先から聞こえた声に反応して、くいっとあごを上げて部屋の中の俺に目を向けた。
なーにー?間延びした声でヘラッと笑う。

「休憩時間長いぞ、戻っておいで」
「あーとじゅーっぷーん」
「さっき後5分って言ったじゃないか」
「じゃあこれ歌い終わるまで」
「さっきから同じところばかり歌ってる」

だってそこしかわかんないんだもーん。
は上に両腕を伸ばしコロコロ転がって、戸にどんっとぶつかってわき腹を打ち、痛みに体を丸くする。
バカ。小さくつぶやいてから目を離し、教科書の問題に頭を戻した。

すると部屋のドアをトントンとノックする音がして、はガバッとわき腹を押さえて起き上がる。静かにドアを開けて顔を出したのは、冷たい紅茶のセットを持った家政婦さんだった。

「お茶いかがですか?」
「あーありがと」
「こちらに置いておきますね」
「はいはーい」

俺越しには家政婦さんに手を振り、お母さんじゃなかった、とため息と一緒に吐き出した。 そのままじゅうたんに両手をついて、4本足でドアまで進んで、紅茶のセットを机の上に、二人分の教科書を押しのけて置いた。

「お茶にしーましょ」
、勉強する気あるのか?」
「気はあるけど、まぁそう急がなくていいじゃない。夏休みはまだあと1週間あるし」
「この1ヶ月何してたんだ?俺より進んでないじゃないか」

グラスに紅茶を注ぐと、カランと涼しげに氷が崩れた。その紅茶にミルクをたっぷりと注ぐは、ぐるぐる回る螺旋のミルクを楽しそうに覗く。そんなに、また頬杖ついて小さなため息が出る。
大型連休の夏休みといえど、全国大会があった俺はその半分も味わえない。特にすることもなく夏休みを迎えながらその俺よりも宿題が進んでいないなんて。

「カッちゃん偉いね。サッカーも勉強もきちんとやってるんだね」
「べつに偉くはないよ、出来ることを出来るだけしてるだけさ」
「うわ」
「うわ?」

カッちゃんてさぁ、・・・
そう言い出して、は紅茶にストローを差して口にした。

「なに?」
「なにが?」
「カッちゃんてさぁ、の続き」
「ああ。カッちゃんてさ、武蔵森行って頭固くなったんじゃない?」
「・・・。そういうはいつも何して生きてるんだ?成績も少し落ちてるし」

そう、机の下に落ちていたの1学期の成績表をピラッと開いて見せると、は即座に取り上げた。お母さんみたいなこと言わないでよ。と、少々口を尖らせてまた紅茶を飲む。

「あたしはいいの。たのしーく生きてますから」
「楽しく生きるのは結構だけど、この成績じゃ武蔵森厳しいんじゃないのか?」

少なくともうちは進学校だし。
そもそもこんな立派な屋敷に住むお嬢様育ちのに寮生活が出来るかどうか・・・
そんな心配事にばかり頭がいく俺は、確かに頭が固くなったのかもしれない。こことは何もかも違う都会の空気を吸って、競争の激しい場所に身をおいて、大人数を纏める地位にまでついて。

「ああ。あたし、武蔵森、行かないよ」
「・・・」

ストローの先で氷をつつくの言葉はまるで風鈴のように、
静かで小さくて、聞き逃しそうになった。

「そんな顔しないでよ」

すぐそこから、ふっとが笑った空気を感じた。
にそう言われて初めて俺は、自分が不意に表情を崩しているんだと気づかされた。

「・・・どうして?」
「このまま今の学校で進学するから。親も、寮なんて駄目だって言ってるし」
「それで、・・・」

反対されて、はい分かりましたって・・・?

「・・・」

あの時、俺がこの町から出て二人が離れる時、は俺よりも悲しく泣いたのに
あの時の感情はもう、にはない・・・

「カッちゃん」

カランカラン
グラスの中で回るストローに誘導されて、ミルク色した紅茶と氷がぐるぐる回る。

「カッちゃん?」
「・・・ん」

外から風は部屋の中に吹き込めど、この暑さにあおられて生ぬるくて、じわり汗が滲む。この部屋には暑さを凌ぐエアコンも扇風機もあるのに、縁側に面する大きな窓は全部開け放たれて開放的。風流な庭に水が流れて池になって、軒下に吊るされた風鈴が夏を奏でて。
裸足でこの大きな家の中を走り回る小さな自分たちが、あちらこちらに見える。

「あたしべつに、カッちゃんが嫌いになったんじゃないよ。ただ、ついてくだけが良い事じゃないんだと思っただけ。カッちゃんはサッカーがんばってるのに、あたしはそれにただついてったって、邪魔になるだけじゃない?」
「邪魔?」
「もしもよ?もしカッちゃんがそうやって広い世界を見ることで、誰か、別の人を好きになった時がきたら」
、」
「もしもだったら。あたしはこんな狭い世界で生きてるだけの人間だし、親の言うこと逆らって家を出て、もしカッちゃんまでいなくなったら、あたしには何もなくなっちゃうでしょ」
「・・・」

やりたいことのために出て行った俺と、ここに残されたじゃ
のほうがずっと寂しかったんだ。
泣いただろうし、悩んだだろうし、いろいろ考えたんだろう。

「だから、今までどおりここで、長い休みにちょっとだけ帰ってくるカッちゃんをさみしーく待ってるよ」
「・・・」

ふと、に目を戻した。
両手で頬杖ついてずっと俺を見つめていたが、にんまりと目を細めて笑う。

「ビックリした?」
「・・・したよ」
「ふふ」

悪戯っぽく笑うの満足げな笑顔から目を離して、ふぅーと長い息を腹の底から吐き出した。

もう会わないって言われるのかと思った。
そうでなくても俺たちなんて、確かに好きだとか、付き合おうとか約束したわけじゃない。そんなことを言い合ったことすらない。ここに帰ってくる時だってそんな口約束をしたわけじゃないから、本当に会いにいっていいのか迷う時だってある。そんな中であんな言い方されたら誰だって、・・・

「ああ、汗かいた」
「あはは。紅茶飲む?」
「うん」
「お砂糖とミルクは?」
「いる」

額に無駄な汗が滲んで、それを見つからないようにぬぐいながら教科書をパタンと閉じた。
もう、問題なんて頭に入らない。

「お砂糖いくつー?」
「ひとつ」

カラン
またグラスの中で、半分溶けてしまった氷が音をたてる。
その中に沈んでいくミルクと、

「はいどーぞ」
「どうも」
「お砂糖もどーぞ」

俺の前にコトンと汗ばんだグラスが置かれて顔を上げた俺の口にちょこんと
がキスをした。

目を丸くする俺の前でまた、が悪戯っぽく笑う。


「ふふ」
「・・・」

冷たくさせたり、熱くさせたり
沈ませたり、浮き上がらせたり

ひやりと何度も汗をかかせるに深くため息をついて、せめてもの仕返しに
キスをした。


紅茶の海の中で踊る砂糖とミルクのようだった。
沈んで絡み合って、溶けて消えていくのが心地良いと感じた。

「汗いっぱい」
「・・・」

背中で騒ぐ夏が他人事のように、感じた。





異背景の別熱