愛するなら今




 日も暮れかけた夕暮れに家に帰りただいまーと声を上げた私にお母さんがおかえりと返して、結人くん来てるわよと付けくわえた。私はそれを聞く前に玄関にあった靴を見て察知していたけど、まさか本当に来ていたとは。

「お、ちゃんおっかえりー」
「ちょっと帰ってくるの早くない?」
「いーじゃん、休みの日に実家帰ってくるくらい」
「あれよね。高校の卒業式で涙のお別れをしたのに大学の入学式で会っちゃったみたいな」
「俺そんな涙のお別れなんてしてないやん」
「何そのわざとらしい関西弁、気持ちワル」

 二階の部屋のドアを開けると、私のベッドに寝そべり漫画を見てた結人が変わらぬ明るい調子を見せつけた。たしかに涙のお別れをしたわけではないけど、2ヶ月ほど前、所属チームが決まり大阪に旅立つ結人を結人の家族も隣の私の家族も見送りに集まった数人の友だちもがんばってねとそれなりに惜しんで手を振り合ったはずだ。泣いて見送ってた子だっていた。たしかあの子は結人の彼女だった子だと思うけど。

「まぁ私は分かってたよ、結人と別れを惜しむなんて時間の無駄」
「そんなことねーだろ、俺だってあんときはけっこー泣きそうなくらい」
「ウソつけ。いつもどーりヘラヘラ笑ってサラッとタクシー乗ってったよ」
「へらへらってお前ね。俺ぁ今や注目のルーキーだよ?プロサッカー選手だよ?お前ちゃんと大学で自慢したか?私の幼馴染、あのガンバの若菜結人なのよって」
「まだフルで試合にも出てないクセに」

 都合の悪い話はサッと受け流して、結人はまた枕を胸の下に漫画を構えた。

「あーもう、ベッドぐちゃぐちゃにしないでよ。靴下汚れてないでしょーね、結人いつも汚いんだから」
「相変わらずうるさいねお前は。キレーだよホラ、におい嗅ぐか?」
「バカ」

 ホラと結人が足を伸ばしてきたからオレンジ色の靴下をバシッと叩き落した。
 だいたい私がいないうちから私の部屋に入ってベッドに寝転がるってどーなの。もう子どもじゃないんだから私だって勝手に部屋に入られたくないし、結人は机の中とかそのへんに置いてあるものとか詮索しそうだから本当に嫌だ。あーあ、とわざとらしく苛立った声を吐きだすと結人は何も分かってない顔で「どうしたんだよ」と聞き返してくる。

「結人ってホント子どもの時のまま。ガキくさいまま」
「しつれーだな、俺ぁ今やプロのサッカー選手だぞ!」
「それしか誇れることないわけ?」
「なんだよ十分すげーだろ!サッカー選手だぞ?子どもの時の夢をホントに叶えたヤツなんてこの世にそう何人もいねーぞ」
「どうでもいいけど私今からバイト行くから出てってくれない?」
「バイト?へー、何やってんの」
「本屋さん。駅ビルの中の」

 あーあそこな!と結人は漫画を持った手で私を差してくるけど、すぐまたうつ伏せに戻って「お前本好きだもんなぁ」と歌でも口ずさむように軽く言う。結人は漫画かサッカー雑誌のコーナーくらいしか用がないだろうけど、本屋さんは扱う種類も冊数も多くて大変なのだ。最近じゃ文具の販売や中古本の買い取りまで始めて仕事が多彩だし、調子に乗ってDVDレンタルまで始めようとしているからさらに大変だ。・・・と、少し前にお母さんにも同じことを言った私の愚痴のような話を、結人は「それおばさんに聞いた」と漫画を見ながら軽く言った。

「いーじゃないべつに!それはお母さんの話でしょ、これは私が話してんの!初めて聞いたみたいに聞いてなさいよ!」
「同じ話をへー!なんて目新しく聞けるか・・・ってお前、お前だってガキのままかよ!堂々と着替えんな!」
「上脱いだだけじゃない!」
「ブラヒモ見えてんだよ!それでも女かお前は!てかお前は俺を男だと思ってないなさては!」
「ぜぇんぜん思ってないよ、思われたいわけ?べつに下着になったわけじゃなるまいし、タンクトップくらい夏ならそのへんいっぱいいるよ!結人なんて裸でウロチョロしてるじゃない!」
「今は夏じゃねーよ!」

 脱いだ上着を結人にブン投げて、クローゼットから新しいシャツを探した。
 たかが着替えくらいでそんな過剰反応される方が違和感を感じる。これまでの私と結人に1ミリたりとも色気ある空気があったか?子どもの頃なんて子ども用プールでふたりともほぼ裸でキャッキャ遊んでいたし、中学の頃だって何度結人にスカートめくられたか分かんないし、高校生になって結人がチラホラ女の子を連れて歩くようになってもこんな風に平気で互いの部屋を行き来していたし、私たちの間に男だとか女だとか一切なかったはずだ。オシャレに目覚めたり彼女作ったり街に繰り出したり、確かに結人のほうがずっと色気づくのは早かったけど、そんなの私には関係ないことで、結人に女だからとか女のクセにとか言われたくない。

 そう、なんとなくイライラしながらシャツを引っ張り出して、袖を通して頭からかぶろうとした、その時。突然おなかに腕が回されて、うしろに引っ張られて私はシャツに腕を取られたまま転げそうになって、うわわとよろけてそのままベッドにどさりと倒れた。スプリングで背中が跳ねた瞬間は思わず目をつむって、その目を開けた時には目の前で結人が、私にまたがって私の両耳の隣に腕をついて私を見下ろしていた。

「・・・なに?ビックリして舌噛みそうになったんだけど」
「お前、さてはまだ彼氏のひとりも出来てないな?」
「はあ?」
「こんな態勢でもそんな普通って、よっぽどガキかよっぽど慣れてるかどっちかだぞ」
「なに言ってんの、結人だからでしょ。もーどいてよ!」

 両腕をシャツに絡み取られたまま結人を押しのけようと伸ばすけど、この態勢じゃろくに力が入らないし結人は体だけは頑丈だしでちっとも動かすことが出来なかった。

「じゃーお前もう誰かとキスしたの?」
「そんなの結人に関係ないの、早くどいて!」
「じゃーエッチは?」
「も・・・マジで殴るよ」
「した?誰と?」

 節操無い目の前の大馬鹿者をシャツでくるんだ両腕で思い切り殴った。
 その手は咄嗟に体を起こし避けた結人のオデコあたりに微かに当たって、結人はイッテェと頭を押さえた。

「色気ねーなぁ、がそーゆーことしてるとこなんてぜんぜん想像できない」
「想像すんな気持ち悪い」
「お前ね、ほんっといい加減どうにかしたほうがいいよ。ハタチまで処女持ってくつもりか?やめろよ重いから」
「アンタってほんっと最低。寄らないで馬鹿がうつるから」
「しみじみ言うなよ、実感こもり過ぎてるから」
「もういいから早くどいてってば!バイト遅れるでしょ!」
「あーもう俺がもらってやろーか。自慢出来るぞ、初体験の相手があのガンバの若菜・・」

 ちょうどよくシャツからすっぽ抜けた手でそばにあった漫画を投げつけると、結人の顔にジャストミートした漫画はバサッと床に落ちていって、今度こそ結人も痛みで立ち上がり私から離れていった。だからって足りない、殴ってやりたい、脚に蹴り入れてサッカー出来なくしてやりたい。

「わー待て待て!ゴメンて、ゴメンって!」
「マジで信じられない!本気でいっぺん死んだら!?」
「やっとプロなったのに死にたくねーよ!」
「プロになっても直らなかったんだから一回死んでその性根叩き直してこい!」
「一回死んだら戻ってこれねーから!ごめんってばぁ!」

 どたばた狭い部屋で騒ぐ私たちの声と振動が階下まで響いたようで、下からお母さんの「何騒いでるの!」という子どもの時と同じ怒鳴り声が飛んできた。
 ただでさえすぐ調子に乗る結人が、それでも一人で大阪行ってプロの洗礼とかプロの体作りとかさぞかし毎日苦労してるんだろうと思っていたのに、こいつは日々大阪で遊びたくっているのか?ファンにキャーキャー言われて浮かれてんのか?軽さにさらに磨きがかかっている。

「いやべつに、俺軽く言ってねーよ?本気で言ってるって!」
「余計気持ち悪いよ!あんたなんて見境ないの!?」
「見境なくなんてないだろ!俺今彼女いないしお前だっていないだろ!?」
「決めつけんな!」
「ええっ!いんの!?」
「いないよ!」
「ほら見ろ!」
「なにがほら見ろよ!あーもう気持ち悪い気持ち悪いー!」
「お前さっきから気持ち悪い言いすぎなんだよ!俺けっこー傷ついてんだからなそれ!」
「知らないよ結人が傷つこうが何しようが!」
「お前それ本気で言ってんだったら俺マジ泣くぞ!」

 じゅうたんの上の小さなテーブルを挟んで、漫画を持ってもう一度殴ってやろうと構える私と、その対角線上でぐるぐる逃げ回る結人。いったい私たちこんな年になってまで何やってんだ。子どもじゃあるまいし。

「だからほんっとテキトーに言ってないって!お前男いないだろ?好きなヤツもいないだろ?俺のこと嫌いじゃないだろ?何がダメなんだよ」
「ダメな理由がなかったらするわけ?頭おかしーんじゃないのっ?」
「するって・・・その話じゃねーって!べつにお前の処女もらってやるって言ったんじゃなくて、お前ごと全部もらってやるって言ったんだよ!」
「・・・はあっ?」
「とーぜんだろ!当たり前だろ!お前なんて絶対1回やったら責任とってよとか言うタイプだろ!そんなヤツに軽くもらってやるなんて言うか!」
「言わないよそんなの!ていうか何なの?なんでこんな話になってんの?」

 いつも冗談めいてる結人の目とか口調とかが抜け落ちて、私は意味が分からずとりあえず持ってた漫画を結人に投げつけるんだけど、結人はそれを避けもせずおなかで受け止めて、外れたカバーと一緒に漫画をまん中のテーブルに置いた。その行動があまりに自然で、これまで結人が大げさに痛がったり逃げ回ったりしてたのが、全部ウソに見えてきて、まっすぐ私を見てくる結人の目も見ていられなくなった。

「やっぱ、俺ひとり無理だわ。プロんなったからには当分彼女とか作らないって決めたし、実際そんな余裕ないし、でも毎日練習以外何で時間つぶせばいーか分かんなくて、ここにいた時はそんなの考えたこともなかったのに」

 攻撃する武器も腕に引っ掛かってたシャツもなくなって、私はとても無防備な気がしてきて、さらけ出してる腕に寒気すら感じた。静かな結人と向き合ってるのも嫌で、少しずつ後ずさって、居心地悪くて。

 自分の部屋なのに。相手は結人なのに。
 こんなの、知らない。

「な、。一緒に大阪いこ」
「は?あんた今、彼女作らないって言ったばっかじゃない」
「ん、でも、はもう家族みたいなもんじゃん?」
「・・・」

 さわり、腕の皮膚が逆立つよう。
 途端に部屋の温度が下がったようで。シャツ一枚の自分が恥ずかしく感じてくる。

 な、。そう結人が小さなテーブルをまたいでこっちに来る。
 結人が一歩近づくごとに私はどんどんうしろに下がるけど、私のうしろにはもう壁しかなくなってしまった。結人でさえテーブルを回って逃げる知能があったのに、私としたことが・・・。

「そんなの、無理じゃん、普通に!」
「なんで」
「私、大学あるし、バイトあるし!」
「大学はともかくバイトはいーだろべつに。大阪にも本屋くらいあるって」
「だいたいさ、ひとり寂しいとか、子どもじゃないんだから・・・、もう少し時間経ったら寂しくなんてなくなるんじゃないの?友だちとか出来て、サッカーも試合出れるようになって・・・彼女もそのうち出来るんじゃないの結人なら!」
「それはそーだけど」

 それはそーだけど?
 また軽く言った結人の言葉を聞いて移ろってた目を正面に向けると、いつの間にか結人は必要以上にそばにいて、うわっと逃げようとした私を両手でガバッと捕まえそのまま私が逃げようとした先にあったベッドにどさりと一緒に倒れた。・・・でも今度は目をつむってる場合じゃない。結人は私の背に手を回したまま、左腕を私の顔のすぐ隣に立てて、一度前よりずっと顔を近づけて、見つめ下ろして。

「・・・へー、そういう顔するんだ」
「はっ・・・?」
「けっこーかわいい、お前」

 これ以上近づきたくないと両腕を結人との間で構えるんだけど、カッと熱くなった目を移ろわせると、私の腕の間からそれを見た結人はフッと笑ってまたその言葉を吐いた。

 結人にかわいいなんて、言われたくない。

「お母さん!お母さーん!!」
「おま・・・ずるいぞそれ!」
「お母さぁあーんっ!!」

 男だとか、女だとか、好きとか嫌いとか、一緒にとか。
 じわじわと迫ってくる何か、見たことも感じたこともない知らない何かが、結人が私に触れてる部分から全身へと滲んで広がってくるみたいで、結人の体をバシバシ叩いてとにかく結人を遠ざけようとした。

 その先にあるものを、近づいてくる何かを、私はまだ知りたくない。
 得体のしれない何かは怖くて怖くて、走って逃げたいくらいに。
 でも結人は遠ざけようとする私に手をしっかりと掴んで、不躾に節操もなく、またニッと笑うそのムカつく顔を必要以上に近付け、無理やり私を世界の向こう側へ連れてった。

 ー?どうしたのー?
 下からお母さんの声がした。

 凍りつく私のすぐ鼻先でまた一度笑った結人は顔を上げて
 おばちゃーん、俺もらっていいー?
 そう叫び返した。





愛するなら今