瞳を閉じて







B A M B I N A


shadow










コン、と硬い岩に当たった些細な音で、閉じていた目を静かに開けた。定まらない視界は意識と共に少しずつ少しずつ覚めてきて、座りこんでいる石畳の硬さと冷たさを理解させた。周りは暗くて静か。ここはどこだと一瞬思うけど、それより先にずしんと襲った全身の痛みで思考はかき消された。少しでも動けば骨がしなり、体内を逆流して血が喉から滲んでくる。その匂いと味にむせればまたアバラが音を立てて渦巻くように痛みを発する。皮肉にもその痛みで今自分が置かれている場所と状況を思い出すことになった。

また硬い岩を叩く小さな音。眼を動かすのも億劫で視界を朧に耳を済ませた。よく聞けば岩を叩く音はぴしゃんと弾かれる音に聞こえ、コンクリートの壁の高い高い上部にある四角い鉄格子のついた窓の外からサー・・・と雨の音も聞こえた。雨がコンクリートを伝い高い窓から落ちてきた雫がこの硬い岩の地面を叩いているのだ。雨でさらに下がる温度。この真冬に冷えに冷えた気温と岩は体を蝕むように染みてくる。座り込んでいる足と尻はもう感覚がなかった。

無様だな・・・

声を出そうとすると内蔵が痛み顔を歪めた。
声を出すのも許されないか。

声・・・


意識がはっきりとしてくると次第にいろんな音が聞こえ始め、雨と雫の音の向こう側に人の話し声がコンクリートの四角い狭い牢に反響して聞こえた。笑いの混じる声。この牢屋の見張り番たちだろうが、愉快に笑いながら軽口を叩く様はなんとも間抜けで粗末な仕事に思える。

先ほどまでも、あの声たちは笑い楽しみながら自分を見下ろしていた。無様だ愚かだと蔑みながら蹴る殴るを繰り返し、憎むでも恨むでもなくただ愉しむだけで人を虐げる。判らないでもない。自分もしてきたことだ。

先ほどといってもつい今まで痛みで意識を失っていたからどれだけの時間が経っているかは判らない。外から差す光が失われ鉄格子の奥でオレンジ色したランプの明かりが滲んでいるからには、もう夜は更けたんだと思う。

視界を遠くに伸ばしているとくらりと頭の中が揺れる。暗がりで判り辛いが、白いシャツは隙間もないほど赤黒く染まっている。そこまで染め抜く血が流れ出ては視界も意識も通常に保てるはずがない。骨も腕から足まで所々に途絶え、体勢をずらすことも頭を動かすことも苦痛だ。いっそ凍り付いてしまったほうが楽なくらい。

凍え死ぬが先か。嬲り殺されるが先か。

意識が混沌として、はっきりと覚めているのも苦痛で眼を閉じる。夜が手伝って世界は闇になり、音も次第に遠ざかっていく。眠ってしまったほうが楽だと体が求めているんだろう、また意識は沈殿するように静かに落ちていこうとする。

意識を戻す前、夜とは別の闇の中で見たものは、何だったか。
遠い、記憶もない、でも懐かしいものだった気がする。

夢の中で、色はひとつだった。

眩しい、眩しい、・・・


「・・・」


ひくり、鼻に匂いを感じ取った。
甘く気高い安息香。


「・・・」


ズキズキと響く体内を抑えながら重い眼をゆっくりと開けると、視界にぼんやりとした白が広がった。
鉄格子の一角にある小さな扉が開いている。
目の前にがいた。


「・・・なんだ、その恰好」


体内を荒らさずに、口先だけで空気のように搾り出した声は空気に乗りもせずにそこでだけ生まれた。でも傍近くにいるは確かに、聞いた。

目の前にあったのは穢れを知らない純白の絹。薄い水色の刺繍で施された形は世界の半分の力を持つといわれる帝国の象徴であるクレマチスの花。頭、腕、指先に金の装飾とそれに散りばめられた宝石の数々が光を吸い込み存在の高尚さを放つ。この壮大な城に相応しい姿形。こんな地下深くには似合わない気品。


「上等な身分になったもんだ」


は、と息を漏らし、俯いて口端をじわり上げた。

すると目先で、コトンと小さな音がした。目を開けると視線の先にはの手があり、その指先にあった指輪が硬い岩の床に置かれていた。指先からに目を上げると、次は首に纏った装飾品を取り外し、腕、耳、頭と次々に外して床に置いていくのを見た。纏め上げられていた長い髪もハラリと落ちて、全身に纏っていた高貴な色は少しずつ落ちていき、残ったのはいつも見ていたそのもの。屋敷の奥の奥の小さな部屋で、ただひっそりと生きていただけの存在。


「・・・」


人の手によって作り出された価値在る金。
それらが全部床に落ちて、残ったのはただ、救いの金。

少し視線をずらすと、鉄格子の奥の明かりが滲む階段に軍服を纏った背中を見た。いつもならその背筋をまっすぐに、決して進路を失わない強く気高き大きな背中。なのに今そこにある背は、どこの頼りない人間かと思うほどに意気を消沈させている。地位も責務も忠誠も伏せ、今だけは、ただひとりの人間のよう。

馬鹿な奴だ。罪人一人見殺しに出来ねぇで。


・・・数日前、静かな屋敷に大きな軍勢が押し寄せ、屋敷を隅々まで踏み荒らした。目的はもちろん、反逆を犯した西の大佐と、本来なら数ヶ月前に手に入れていたはずの「新世界の鍵」。

屋敷の中央に位置する見晴らしのいい光差す部屋の中で、いつものように椅子に深く腰をかけ煙草をふかしていた。冬の割りに晴れやかな水色の空が覗いていた。暖房はつけていないせいで肌寒くはあったけど。
そんな長閑に感じる空気を壊す黒い足音。屋敷の扉は屋根裏から地下まで全て暴かれ、華やかな調度品や家具は壊され赤いじゅうたんは泥に染まり、軍人の節操の無さを鼻で笑った。

屋敷の中にはそれ以外に誰の姿もなく無用な犠牲はなかった。容赦ない波は衰えることなく屋敷の隅々まで行き渡り、すぐに屋敷から離れた小さな部屋を発見する。微量な安息香の香りが残る部屋にいた、ひとりの少女。

抗うことはなかった。
全てが在るべき場所に還っていくだけ。


「何しに来た」
「・・・」
「喋れ。もうお前は俺の物じゃない。城の所有物だ。国の重鎮共に一生すがりつかれて生きるのさ。お前が死ねばまた新しい金瞳が連れてこられる。不幸を背負って生まれたどこかの人間が、自分以外の全てを失いながら国の夢を背負い続けるんだ。この国が続く限りお前らの不幸は終わらない」


冷えた空気はキンと耳鳴りを引き起こすほど静かで、風を生む力もない掠れた三上の声を耳に入れながら、それでもは声を発さなかった。赤に染まる口からペッとまずい血を吐き出す。冬の監獄に入れられ殴られ蹴られ、あとは国の決断を待つだけの哀れな男を目の前にして、まだ、呪縛が続いているとでもいうのか。

すると、が静かに手を伸ばした。白い指先が自分のほうへと伸びてきて、赤く腫れた頬に触れようと近づいてくる。何を案じているのか、哀れんでいるのか、その指先が触れる前に三上はふいと顔を背けた。その反動でまたぎしりと腹の骨が響き苦痛を知らしめる。血と咳を吐き出し、むせてはまた痛みを感じ、その繰り返し。少しずつ浅い呼吸をして痛みを逃がす。情けない姿だと自嘲する力もない。


「・・・前の金瞳は、皇后だった。地位も経歴もない人間が金瞳というだけで国の皇后だ、開き直っちまえばこんな幸運はない」
「・・・」
「恨みが募ろうと憎しみが煮えたぎろうと、腹の底に隠して生きろ。何も思うな。何も考えるな。そうすりゃお前のくだらねぇ宿命も、少しはマシになる」
「・・・」
「せいぜい生きながらえろ。俺はもう、疲れた・・・」


生まれてきた理由を探すこと。不確かなものを求めて生きること。
憎しみ悲しみに苛まれること。死に方を考えること。

なんのため?
だれのため?

この、救いのない世の中で・・・


「ごほ、ごほっ、ぃぎっ・・・」


肺からむせあがった咳が体内を侵して喉から這い上がってくる。咳き込むと体中が痛み余計に痛みを引きずってくるのだけど、黒ずんだ肺から咳は止まらずこみ上げ続けた。この肺が正常に作動しないのはもう、随分と前からのこと。

死にたくないとは思わなかった。
楽に死ねないと判っていても、生きることとそう変わらないから。


「・・・なんだ、それ」


息を落ち着け薄く開けた目で見たものは、の手中に握られた黒塗りのケースだった。三上の視線を追うようにもそれに目を落とす。

黒い漆のケース。表面に紅い花が描かれている。
月日で掠れた、いつかの紅い彼岸花。


「・・・処刑も病死も御免だが、お前に殺されるのは、悪くないかもな」
「・・・」


どのシナリオにも載っていなさそうだ。三上は巧く動かせない口でじわり笑む。

すると、がまた三上に手を伸ばした。
三上はそれを視界に入れ、だけど今度は顔を背けなかった。


「・・・なんのつもりだ」


細く冷たい指先を熱を持った頬に感じながら、目の前を見ていた。触れる指先の辿る先、逆光で暗く見えにくい目の前の女の顔に、確かに伝う一滴。

暗い中では光らない眩い金。その金から溢れゆく透明の涙。哀れんでいるのか、同情か。たとえ死に際だろうとそんなものには反吐が出る。・・・なのに、この涙に嫌悪はなかった。何も喋るなと命じそれに殉じてきた女が腹の底で何を思っているかは判らないけど、だけど、こいつは、・・・


「・・・俺の感情なんかに触れるな」
「・・・・・・」


生まれてきたことに意味を持たせようと、貪欲に高みを見続けた男。

生まれながらに意味を架せられ、狭い暗闇でだけ生き続けた女。


結局、同じ穴の狢だったのだ。人から架せられたか自ら落ちていったかの違いだけで、明るい場所とは無縁の人生。行く末の見えた宿命。うまくいくはずもない性。

・・・だけど最期だけは、手を伸ばすことが許されるとしたら。
触れようとした。触れたいと思った。
その涙に。その存在に。

・・・でも無駄だった。手は後ろから動くことを許されず、重く冷たい枷が音を立てた。本当に触れたいと思ったときだけ、自由などもうどこにもなかった。


の手に収まった漆のケース。はその小さな容器の蓋を開け、中の物に指をつけた。数量で体を体内から侵す猛毒。恨みの結晶。その手をゆっくり、まっすぐに伸ばし、三上の、血に染まる口唇に乗せた。

無音だった。いつの間にか雨がやんで、夜明けが近いのか高い窓からうすらと青い光が滲み、清浄化された空気が石の壁の中で反響し合い、底にささやかに存在する二人に舞い降りた。

暗闇から抜け出た世界で、の瞳が淡く色づいた。
次第に深く滲みゆく金に、恨みも憎しみも、悲しみも苦しみもなかった。

口唇から滲んでいく粗悪が内臓を壊し、噛み締めた口から血が毀れる。ぽとりと落ちる血が穢れなき白を侵す。だけど穏やかだった。苦しみも憎しみもし尽くして、ようやく、このしがらみだらけの生から開放されるのだ。痛みも苦味もこれが最期。

目の前で静かに消えていこうとする灯火を前に、は手の中のケースを手放した。カランと石の床に落ちる音が響いたときには、は三上の力ない口に口唇を寄せていた。今までどれだけ触れようと決して交わらなかった口唇は最初で最後、ただ一度だけ重なり合った。

光が下りてくる。
夜明けが新しい日を始めようとする。

昇っていく太陽。
沈んでいく月。

弱く小さなふたつの光。

天に召されし、救いの光。










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