だから今はまだ、もう少し B A M B I N A 夜でもぼんやり明るく見える白夜のような白のおかげで、茶色い大地はもう何年も太陽光を見ていない。ここではいつも海のように深い雪が地面も山も湖も覆い尽くしているからだ。川でさえ流れを止めれば瞬時に凍るここでの暮らしは、今まで居た土地の冬なんてただの子供だましだったと思えるほど厳しい。 そんな土地での仕事は辛い以外に無かった。息をするのも困難な極地で、毎日背丈以上の雪を掻き分けながら何十キロと歩く。最低限の食料と装備だけを持って1週間かけて目的地へ赴き、仕事をしてまた1週間かけて本拠地へ戻ってくる。その繰り返し。 唯一の楽しみは、夜だろうか。 気を抜けば骨から凍り付いてしまう寒さの中、真っ暗な夜空は雪に照らされてぼんやり白く光り、そしてさらに夜が更け寒さも極限になると、暗い空に幻想的な虹のカーテンが現れるのだ。これを初めて見たときは本当に凍り付いてしまった。そして思ったんだ。世界にはまだまだ、自分の知らない奇跡が想像できないほどにあるんだと。 「まだ起きてたの?」 ガチャリと開いたドアの音に振り向くと、厚手のコートを着込んでなお息を白くする笠井が見え、かけられた台詞に藤代はおつかれーと軽い言葉を返した。部屋の中では薪の燃える音がパチパチと音をたて、1枚窓を挟んだ外とは別世界のような暖かさを保っている。 温かい部屋に入ってきた笠井は疲労を隠せない顔でコートを脱ぐと、窓の外を見るため後ろ向きに座っている藤代の向かい側に座り、ため息を吐き出すと同時にかけていた眼鏡を外し、目頭を指先で押さえた。 「大丈夫か?あんまり無理すんなよな」 「無理もするよ。初めて任された重大な任務だ」 「でもまだまだ先は長いんだから、今からそんなにへとへとになってちゃ身が持たないよ。物事ってのは下積みが大事なんだから。家だってちゃんと土台を作らないと長持ちする家にならないだろ?」 「・・・砦の建設は順調にいってるの」 「まーな」 時折振り返り笑顔を見せながらしきりに窓の外を見上げる藤代は、こんな生活を繰り返していながらちっとも疲労や苦痛を感じていないように見える。この雪に埋もれる土地で毎日身を削る仕事をこなしながら日に日に憔悴していっている中、今でもこんなに目を輝かせながら夜空を見上げる兵隊がいるだろうか。 「明日からまたさらに気温が下がるらしい。それを見越しても砦の設立にはまだあと半年はかかるな。それでやっと2つ目だし、次の関所は海の中になる。まだまだやることが山のようだ」 「だからそう焦るなって。渋沢大佐も長丁場だから覚悟しろって言ってたじゃん。この1年でみんなだいぶうまくなってるし、ペースは上がるよ」 「・・・随分と暢気だな」 「余裕っていってくれる?」 フフンと含み笑う藤代はテーブルの上のティーセットからカップをふたつ取り、そのひとつにコーヒーの粉をぽんと入れた。それを持って立ち上がり暖炉の上で湯気を出しているポットの湯を注ぐと、カップの中からふわりと溶けた粉の香りが際立つ。黒く渦巻くカップを笠井の前にことりと置き、もうひとつのただお湯が入っているだけのカップに口をつけた。 目の前に置かれたカップの香りを感じると、不思議と体中に走っていた寒さも疲労も重責も、少し和らいだ気がした。目の前でただのお湯をおいしいミルクのように飲む藤代を見ていると、尚更。 「そんなお湯なんて飲んでないで、コーヒー入れてもいいよ」 「まさか。大事な少佐様の飲み物、いただけません」 「やめてよそんな言い方」 笠井が堅かった表情を崩しテーブルに頬杖つくと、胸に下げた勲章がカチャリと音をたてた。先ほどまで今後の日程と他国との交渉のために長い話し合いをしていたのだ。こんな夜更けまで軍服を着込まなければいけない立場上、現場の力仕事よりも交渉を任される笠井は肉体的な疲労よりも断然、精神的な疲労の方が大きかった。 それに引き換え藤代はシャツ一枚で、この遠征と同時に得た少尉の勲章さえ持ち歩いていない。同時期に軍に入った二人は当初は同じ位置にいながらもその身体能力には歴然とした差があり、群を抜いて成績の良かった藤代は誰よりも先に昇進するだろうといわれていたのだ。 だけど、周りの誰もがひとつずつ階級を上げていく中で、藤代の階級は一度も上がらずいつまで経っても一兵隊のまま。どうも望んでその位置にいるようだった。 「藤代、今の仕事どう?」 「ん?なに急に」 「だって今まで昇進なんて興味なさそうだったし、最初に渋沢大佐に声かけられたときだって断ったんだろ。立場が変われば仕事も責任も全然違うし、疲れることもあるし」 「んー、でも俺、今までとやってること変わらないし、楽しくやってるよ」 くいっとカップを高く上げ飲み干す藤代は、ただのお湯をぷはっと美味い酒のように堪能した。そんな藤代が一緒だからこそ、笠井はこの過酷な責務の中でも目的を見失わずにいられる。帝国の未来を担う外交、その関所建設の現場を取り締まる地位に着いて、だけど藤代は今でも他の多くの一兵と同じ力仕事に精を出していた。昇進し地位を得て、だけどその権威を誇るわけでもひけらかすわけでもない藤代は、今でも心持ちは上等兵だった頃となんら変わっていないのだろう。 笠井に遅れに遅れてようやく渋沢の統括する北地区で少尉の地位に着き、この遠征で笠井の同行を命じられた。長い下積みで培われた精神はこんな状況でもまったく焦りを見せない。昇進を受け入れ始めたからには、肩書きや昇進、成績や体裁ばかりに気を使う他の軍人よりずっと、もしかしたら自分以上に、立派な軍人になるだろうと笠井は思っていた。 「なぁ藤代」 「ん?」 「なんで急に少尉の話受けたの?」 ばきんと暖炉の中の薪が割れて火花が散った。外は雪に埋もれていながらも晴れ渡って星が光り、建物の中からでも空にゆらゆら揺れるオーロラが見えている。だけど今だけはその幻想に背を向け、藤代は笠井の目を見返した。 「そりゃまぁ、大佐の命令だから」 笠井から目を外し、手中のカップをテーブルの上でコロコロと弄びながら藤代は口を濁して言った。いつもあっけらかんと誰にでも壁なく話す藤代なのに、オレンジ色の部屋の中で暖炉の色を頬に照らす藤代のその表情は、読み辛い淀みを感じる。 「俺は前みたいに、ずっと兵隊のままでもよかったんだけどさ、やっぱただの兵隊と地位持った軍人じゃ出来ることが違うだろ。俺がどんなに、たとえば命かけて仕事したってさ、ただの上等兵じゃ行きたい現場にさえ連れてってもらえない」 「うん」 「自分のしたいことをしようと思ったら、やっぱりそれなりの地位がいるんだ。ま、出来れば西で昇進したかったけど、でもあの人、全然俺のこと使ってくれないしさぁ」 「・・・」 ひっでぇよなと、藤代は不機嫌に口を尖らせた。 ”あの人”・・・ 「藤代は、国のためとか、自分のためっていうよりも、大佐のためなんだな」 「んー、正直国とか地域とかもあんまり興味ない。そういう意味じゃどこに配属されても一緒なんだけどさ、やっぱ西じゃないと、ほら、こういうことになるし」 帝国よりはるか北の果てに位置するこの土地で、渋沢が提携を結んだ国々を結ぶための関所の建設は、おそらく5年はかかるだろうといわれていた。雪に埋もれた土地、深く広い海を越えて、陸に着いた先には砂漠もある。連合国と同盟を結んだとはいえ、その中の未開拓の部族や小さな国と交渉しながら進軍しなければならない。この任務が果たせるのは、何年、何十年先かも分からない。 しかし、この任務が終わる頃、二人の地位は確実に変わる。 功績次第では飛躍的に。 「今は我慢の時だな。今まで好き勝手気楽にやってきたんだ、覚悟してるよ。何年かかっても、例えこれが出来たってまだまだ俺の階級なんてしょぼいもんだろうけど、でもいつかは絶対役に立つんだ」 「・・・それは、三上大佐の?」 揺らぐカップに視を落とし、笠井は小さく口を割る。 藤代はきょと、と目を丸くして、にこりと大きな笑顔を見せた。 「もちろん、当たり前じゃん!」 渋沢大佐にも感謝してるけどな、やっぱこれだけは譲れないや。 どんな苦行にも逆境にも屈さない明るい笑顔は、分厚い雪雲のはるか上空で燦々と輝き続ける太陽のよう。眩しく力強く堂々と、何物にも揺るがない信念と信頼の分だけ、大きく鮮やかに咲く。 「・・・」 その眩しさに、笠井は目を伏せる。 彼の中に潜む底知れない未知の可能性と、従順な光。 1年も前に本国にいる渋沢から届いた訃報は、彼の命令により自分以外ここに居る誰にも届いていない。帝国から遠く離れた、情報もうまく行き届かない北の地は、今ではおそらく帝国の誰もが聞き入れているだろう大事さえも厚く遮っていた。今ここでそれを知っているのは笠井だけ。渋沢の命令は、すべてはこの藤代の耳に入らないようにするためだと判っていたけど、笠井はそれに納得出来ていなかった。 例えば自分なら、これほどまでに忠誠を誓っている人が居なくなっとして、それを知らされずにずっとこんなところに居たいだろうか・・・ 「・・・藤代・・・」 「ん?」 「・・・・・・もし、ここでがんばって、昇進して、それでも大佐の元で働けなかったら、どう思う?」 「んー、それはやっぱ嫌だな。俺がここにいるのは大佐のおかげで、全部大佐のためなんだ。じゃなきゃ軍にいることすらおかしな話なんだよ、俺」 もし今、藤代が、それを知ったらどうするかな。 この任務も、地位も立場もかなぐり捨てて、国に戻るかな。 「さて、そろそろ寝ようかな。明日も早いし。お前もあんま力入れすぎるなよ。昇進したって死んじゃったら意味ないんだから」 「・・・」 「って俺、少佐に向かってなんて口きいてんだかな」 大佐がもう、大佐じゃないと知ったら、どうする? 役に立つどころか、もう二度と会えないと知ったら・・・ 「・・・あのさ藤代、例えば、例えばだよ?」 「ん?」 「この仕事をしてる途中で、自分が死んじゃったら、どうする?」 「は?」 「大佐のために昇進しようとして、こんなところで仕事して、でももし事故とか戦争とかで命を落とすようなことになったら・・・」 立ち上がり歩き出そうとしていた藤代は、足を止め首をかしげて笠井を見下ろす。でも藤代は考える間もなくまたあの笑顔を咲かせた。 「死なないよ俺は。言ったろ、俺の仕事は全部あの人のためなの。あの人によくやったって言わせるまで俺は絶対に死なないの。事故死も過労死もゴメンだね、俺の死に場所はここじゃない」 「死に場所?」 「あの人、何があるかわかんないじゃん。無茶するから人の恨みだって買うし、敵だってめちゃくちゃ多いし。そんなむきになって何がしたいのか知らないけど、きっと何かあると思うんだ」 「何かって?」 「さぁ。でも知らなくてもべつにいい。知ってても知らなくても変わんないし。ずっとついてくんだ、嫌がられても追い払われても、なんかあったときに俺が身代わりになれるように」 「身代わり?」 「いつか危ない目に遭って、それこそ死にそうなときが来ても、俺が代わりになる。そうすればあの人はまたその何かが出来る」 「なんでそこまで、」 それほどまでに忠誠を誓うには、どれだけの過去が要るのか。どれだけの覚悟が要るのか。・・・でもこの強い意思の篭った眼は、何も見失わず、何にも左右されず、ただひとつだけを見据えて。 「俺あの人好きだから」 それ以外にない。 それ以上もない。 だからどこまでも、いつまでも。 ただそれだけ。 「・・・」 この幼いまでに従順な強い信念を見て、笠井はようやく、渋沢が言わんとしたことを理解した気がした。もう喉まで出掛かっていた言葉は胸の奥深くに飲み込んだ。 二人が持っているもの。それは決して同じ形ではないのに、同じ方向に向いてるわけでもないのに、何故だかピタリと綺麗にはまるパズルのよう。まるで家族のように強い絆は何故か他人以上に細く、繋がっているのか途絶えているのかも分からない無色透明でありながら、だけどそれは血の繋がりよりも確かな温度を持っていて・・・ 藤代の持つ危うい凶器を制御できるのは、唯一、あの人だけなんだ。 この力強い命が簡単に消えてしまう可能性。 だから今はまだ、もう少し・・・ ようやく一歩先へと歩み出した彼に、揺るぎない確固たる信念に勝るほどの、生きることへの責任やその尊さ、そして、新しい眩しく光る眼差しの先を見つけさせるまで 君の分も、僕が偲ぼう。 |