日曜午後3時の珍客




店のドアが開くと風が通りぬけて、窓につるした鉄琴が高い音を重ねてたてる。鈴より強くて鐘より細い。流れる星に音があるならこんな音ではないかと思えるような音だ。その音がするとドアに振り向きやってきたお客さんをいらっしゃいませと出迎える。図書館に併設するカフェなだけに客のほとんどは物静かで穏やかな空気の人が多いように思う。だからたまに、毛色の違う空気を纏ったお客がくると強く記憶に残ってしまうんだ。彼はまさに、強く記憶に残る人だった。

「コーヒー」
「ホットで?アイスで?」
「ホット」

彼は一番奥の窓辺の席に座るなりメニューも見ずにそう告げた。まるで常連さんのような口調とテンポで、思わず「初めてだよな?」と顔を二度見してしまったほどだ。

その時も今も、彼のイメージは黒だ。いつも黒いシャツやセーターを着ていた。そのせいか、彼の細い髪や奥の見えない目は必要以上に紛れのない漆黒に見え、彼が毎度頼むコーヒーに砂糖とミルクを添えても必ずそのまま残されて返ってくる事もそのイメージカラーをより強めていた。
本が好きで図書館に通っているようには見えない。散歩に出かけてふらりと立ち寄った風にも見えない。しかし来るのは必ず日曜の午後で、誰と待ち合わせるわけでもなく30分ほど時間を過ごして去っていく。ただの時間潰しか、それともその時間は彼にとって何か尊いものなのか。その姿勢も目線も足も必ず理由を持って目的の場所へ前進していると思わせるほど確かな印象を残す彼は、のどかな日曜のカフェには似つかわしくない珍客だった。

「ごちそうさん」
「ありがとうございました」

いつもの時間を過ごした彼は、出口に向かう道中でカウンターに小銭を置いて帰っていく。その額きっかり350円。いつもつりの出ないその去り際の挨拶はまるで最初から用意されていたような乱れのない動作で、彼は本質的にか意図的にかは分からないが、人と関わり合うということを避けているように見えた。

一定の来訪と退去を繰り返す彼が、僕と今のようにサッカーの話や昔の思い出話を交わすようになるには季節を反転させるくらいの時間がかかった。常連になればそれなりに挨拶は軽くはなるけど、彼は頑なに頬杖をついて窓の外を見つめる体勢を崩さないし、お客が求めもしない接待は僕もする気がない。誰かのように呆れるほど無邪気に話しかけてくるなら乗るけども。

「あの、すいません」

それでも最初の一手を打ったのは僕だった。少し客が減った3時過ぎ、僕はカップにコーヒーを半分ほど残す彼に声をかけ、彼は頬杖を解き窓の外から僕へと視線を変えた。

「今新商品を開発中なんですけど、良かったら試飲してもらえません?」

何色にも滲まない漆黒だと思っていた彼の瞳が僕を映すと、その目は意外にも柔らかく円を描いていた。

「ああ、いいよ」

コーヒーの味に厭きたのか。外の景色に厭きたのか。きっとその両方だろう。
注文以外で初めて言葉を交わした彼と僕は、その日何も受け付けられなくなるほどのコーヒーや紅茶を飲み、口直しのつもりで出したケーキを彼に拒否されて彼が甘いものが嫌いだということを知った。気がつけば彼がいつも帰っていく時間も越えてしまっていて、彼は「ヤベ」と顔をゆがめていつもより早い歩調で店を出ていこうとして、その去り際に僕たちは今までと違う挨拶を交わした。彼の名は三上というらしい。


そうして彼と話すようになって、僕は彼を面白いと思った。いつもコーヒーはブラックで飲む彼だけど、僕はそれでも砂糖とミルクを省いたことはない。毎度ブラックを飲む人だろうとたまには違う味にしたくなるかもしれないから、提供する側がそれを勝手に省いてはいけないと思っているから。でも彼は「自分で開いてる店なんだから自分の味で出せ」と言った。自分が最高だと思ったものに過剰に砂糖やらミルクやらを入れられたらハラが立つだろうと。確かに、そうだ。残した紅茶に使わなかった砂糖やレモンの皮を入れてかき混ぜて遊んでる人を見ると、顔には出さないけど心の中でもうこなくていいと思ってしまう時もある。

彼はすごく自分というものを曲げない、甘やかさない人なのだろう。自分で認めたものなら最後まで信じて貫く。それが人に受け入れられなくてもそれは仕方のないこと。彼はコーヒーの味から備え付けのおかし、店に流れる音楽にまで僕が思わず聞き入ってしまうほど話した。彼の話には夢がありロマンがありプライドがあり、なのにスティック砂糖一本いくら、紙ナプキン一枚が何日でどれだけの出費といった堅実っぷりで、僕より経営に向いてるんじゃないかと思った。

「あ、三上さん、もう3時半過ぎてるよ」
「ああ。今日は長引くそーだからいいんだよ」
「長引く?もしかしてまた手術?」

堅実で身勝手でプライドが高く自分を隠すのが上手い彼が、毎週日曜午後3時に店に訪れる理由を話したのは、僕たちが気軽に話すようになってからまた季節が半周したころようやくだった。

図書館の裏にある病院。彼は毎週欠かさずその病院に通っている。通っているといっても彼はどこをケガしているわけでも重い病を患っているわけでもなく、人の見舞いなのだそうだ。その「人」というのが「最愛の彼女」だということを聞くまでにはまたしばらくの時間がかかったのだけど。(そして最愛の、というと彼は酷く不機嫌になるのだけど)

それでも疑いようがないのだ。彼はこの店に訪れるようになって約一年。多分それよりもっと前から、毎週病院に訪れ続けているのだから。

「なぁ」
「はい?」
「お前ならさ、あと何年かで死ぬって言われたら、何がしたい?」
「・・・」

彼と話せば話すほど、彼と親しくなればなるほど、死という言葉を日常的に聞くようになった。非現実的な現実を目の当たりにするようになった。それに反比例するように、軽々しくその言葉を口に出来なくなった。それをこうも簡単に口にする彼の胸には、どんな覚悟が刺さっているのだろう。

「一度連れてきてよ」
「は?」
「会いたいな、さんに」

生きる時間を決められたときの気持ちは分からない。
でも、彼が愛した人は見てみたい。そんな単純な思い付きだった。

ある、日曜でも午後3時でもない日。彼は彼女を連れて店にやってきた。
思っていたよりずっとしっかりと笑う人だった。背も高く背筋もまっすぐで口調もはっきりしてる。いや、きつめと言ってもいい。彼には三歩下がってついてくるような女性が合うかと思っていたが、彼女に会った途端彼女以外に想像がつかなくなった。

「店長さんのおススメは?」
「甘いものは大丈夫ですか?」
「はい、お土産がいつも甘いものじゃないから甘いものがいいです」

にっこりと僕に向かって言いながらもその言葉は前に座る彼に向かっている。いいお店ねとあたりを見渡しても、ドアが開くたびに響く鉄琴の音に耳を澄ましていても、その空気はずっと頬杖をついて窓の外を見ている彼に向かっている。それが僕から見てもよくわかり、微笑ましかった。

「お待たせしました」
「わ、かわいい」
「うげ、匂いだけで吐きそ」

ミルクスチームにバニラシロップを加え、ふわふわに積み上げたフォームミルクの上からキャラメルソースをかけた最上級の甘い飲み物。キャラメルマキアート。あたり一帯はバニラとキャラメルの甘い匂いに包まれ彼はげんなりと顔をしかめたが、次の瞬間にいて!っと顔を歪ませた。どうやら机の下で彼女に足を蹴られたらしく、僕に気を使ってか、ふたりは言葉は出さずに目だけでケンカし始めた。睨み続ける彼女から先に目を逸らしたのは彼のほうだった。彼が一人でここに座っていた時は孤高でしっかりとした人間、男に見えていただけに、笑いが止まらなかった。

彼らはすごく幸せなふたりに見えた。ふたりが一緒にいれば時間なんて消えて失せ、そのときは永遠に幸福に包まれる。他の何よりも確かに、大きく、彼らを暖かく包むだろうと。

しかしその次の日曜日、彼は店に来なかった。
その次の日曜日も、そのまた次の日曜日も、彼は姿を見せなかった。
どうしようもない不安が店を襲い、僕を襲い、日曜日を襲った。

何度か通り過ぎた日曜日、彼は真っ黒な服で現れた。彼が黒い服を着ているのはいつものことなのに、その日の黒はあまりに無駄がなさ過ぎて、目に痛かった。

窓辺のいつもの席に彼は座り、いつも通りの声色でコーヒーを頼んだ。静かに窓の外を無機質な目で見送る。明らかにいつもと違うところは、一度も手を付けられることなく湯気を失せた黒い液体と、杖にされていない彼の腕。彼の頬杖は無機質にならざるを得ない自分を支える最後の力だったのかもしれない。

彼は外を見続けていた。いつも見ていたその風景に何を思い浮かべているのか、時間が過ぎ、人が入っては出て行くたびに響く鉄琴の音に反応することもなく、彼は外を見続けていた。手はポケットに入れられて、何を支えることもなく存在している。彼はしっかりと自分の背で体を支え、いっそ清々しく見えるほど堂々と背もたれて座っていた。

店から人がいなくなったのを見計らって、僕は店のドアのカーテンを引き「OPEN」の看板をひっくり返した。いつも図書館の閉館時間と一緒に閉めるけど、お客さんがなかなか引かずに大抵延びている毎日で、その日は閉館時間より30分前に店を閉めた。もう窓の鉄琴が鳴り響くことはない。でも彼はそれにすら気づいていない。

カチャン、

カップをテープルに置きながら彼の真正面に座った。日が暮れて赤く染まっていく外を彼と同じように見た。湯気の立つ僕のカップがその湯気を失せるまでずっと。遠い茜が灰色に、やがて黒になるまでずっと。

明かりもつけずに日が暮れた店の中は真っ暗で、こんな店の中にいるのは初めてじゃないかな、と思った。外の少ない明かりだけでギリギリ視界が支えられている。そんな中、カチャンとカップの音がして僕は真正面を向いた。暗い中で彼が、冷え切ったカップを口にする。いつもに増して黒い髪、黒い瞳、黒い服、黒い空気。

「・・・甘ぇな」

冷えたブラックコーヒー。

「吐きそうだ」

彼はいつの味を噛み締めているのか。
黒い黒い、キャラメルマキアート。

彼はやっぱりいつまでも、どこまでも、イメージの黒を纏う。
心に居座る香りだけ、甘い甘い、キャラメルマキアート。




日曜午後3時の珍客

この話は潤慶がカフェの店長さんという素敵シチュを考えたhthr.のナオちゃんに激しく賛同して書いたものです。店長ユンがリアルに想像つくのもにゃおが屈指のユンスキーヤーだからでしょう。そんな人さまの夢想に、あんなほのぼのシリーズに、なによこのどす黒い男。なによこの方向性無視の三上バカ。(・・・)
にゃおんちにはユン店長のもとにやってくる藤代やら英士やら結人やら渋キャプやらがいます。どうぞ来店してきてね。