武蔵森というところは今までと何もかも違った。
友達が増えるのは楽しいし、サッカーを思い切りできるのは嬉しいし、上手い人と出会うのは刺激的。
一年の時からこの武蔵森でレギュラーを取ったという人の技術には、今までに感じたことないほどの衝撃を受けた。
全体的のレベルも練習量も監督の厳しさも、今までとは全然違った。
これからここでどんなサッカーが出来るのか、希望と胸の高鳴りは募る一方だった。


受話器の奥で、呼び出し音が数回繰り返されるとプツッと途切れて、もしもし?と母さんのよそ行きの声が聞こえた。


「あ、かーさん?俺ー」
『誠二?どう、ちゃんと出来てる?足りないものない?』
「えーとねー、おかしとマンガとCDとー」
『大丈夫そうね』


かわいい一人息子が手元を離れて淋しがっているかと思いきや、あっさり見捨てられた。
まぁ手元を離れたのがなら心配して夜も眠れないかもしれないが、昔からすぐにどこかへ飛んでいってしまう風船のような自分ではいちいち心配しても身体が持たないだけ。こんな態度も容易に想像つくことだった。


「あ、ねー今日のやつビデオ撮っといてね」
『え?どれ?』
「いつも撮ってるじゃん、9時からのやつ。デッキの上にテープあるからさー」
『え?ないよ?』
「えー?もう、に代わってなら判るから」


母さんじゃ埒が明かない。
そう思って頼むと、電話の向こうで母さんがを呼ぶ声がして、しばらくしてが出た。


ー?久しぶり」
『うん。ビデオセットしてるよ。先週もちゃんと撮った』
「お、マジで?ごくろーごくろー」
『うん』


電話越しに聞くの声は、まったく何も変わってない。
当たり前か。たかだか2ヶ月振りだし。
でもと電話で話すなんて滅多とないことだから、不思議な感じもする。


「来週も忘れんなよー、夏休みに帰ったら全部見るんだから」
『うん。それだけ?』
「え?ああ、それだけ」
『今からいっちゃんとこ行くんだ。切るよ』
「いっちゃんとこ?こんな時間に?」
『うん』


いっちゃんは、近所に住んでる同じ年の友達。
どうやらは今学校のテスト期間らしく、いっちゃんと一緒に勉強するんだそうだ。
近所だから近いし、小学校の時だってこのくらいの時間に遊びに行ったりごはん食べにいったりよくしてた。
なんだか、ここでの2ヶ月がいろいろありすぎて、自分の中の感覚がずれていってるようだった。


「そーだ聞いてよ!渋沢さんって人がいてな、もうその人ってばすっげーのなんの!もうハンパないんだよ!」
『それ前聞いたよ』
「あれ、そーだっけ?でもほんとすごいんだって。今度試合あるからさ、土日だし見にこれば?」
『こればって、東京でしょ?無理』
「無理って、つめたー」


って、こんな質素な喋り方したっけ。
ああ、してたかもしれない。同じ喋り方でも、顔を見て雰囲気を感じて聞いてるときとは全然、違って聞こえるもんなんだな。


『もういい?切るよ』
「切れば」
『・・・。何怒ってんの?』
「なんも怒ってないよ。切ればいーじゃん」
『怒ってんじゃん。なんなの?』


なんなのって、こっちが言いたい。
なんで俺たち、久しぶりに喋っておいて意味もなくケンカしてんの。


「・・・」
『・・・』
「切らないの?」
『あんたが切れば』
が切るっつったんじゃん」
『じゃあせーので切ろっか』
「・・・」


すこん、と、苛立ってた気分が抜け落ちた。
の声が僅かに笑ってたし、「せーの」はよく、俺たちが使ってたものだ。
どっちからやる?どっちに行く?どっちがいい?
二人で何かを決める時、俺たちはいつも「せーの」と一緒に決めてきた。


「うん、それにしよう」
『うん』
「いくよ、せーの」


ガチャン。
と、受話器を電話に置く、手前でとめた。
その受話器をまたゆっくり耳に近づけて、静かに音を聞いてみた。

何も聞こえない。


「・・・?」


そう、呟いてみると、何も聞こえない受話器の向こうで小さく、小さく、「・・・うん?」と聞こえた。


「ずっけー。切るんじゃないのー?」
『お互い様』


はは、と俺が笑うと、何も聞こえないけど電話の向こうでも笑ってる気がした。


「その渋沢さんって人も1年時にはもうレギュラーとってたんだって。俺も絶対1年のうちにレギュラーとってやるからな!」
『あんたうるさいからセンパイとかに目つけられてるでしょ』
「あー俺そーゆーの全然気にしないし。でも渋沢さんにも言われたよ、最低挨拶と言葉遣いだけは気をつけろって」
『いい先輩だね』
「そーなの、ちょーいい人!俺あの人ダイスキ」


玄関前の冷たい床に座り込んで、電話に差し込まれたテレフォンカードの度数がどんどん減っていった。
気がつけば9時を回っていて、録画を頼んでいた番組の時間が過ぎていることに気がつく。
また電波越しにぎゃんぎゃんケンカして、まぁいっかって笑って。

今まで二人で話す時間に制限なんてなかったのに。
二人で話すことにお金なんてかからなかったのに。

この星は決して止まることなく回っていて、たとえ時計の針が壊れたって時間が止まることはなくて。
そんな世界で、俺たちは少しずつ、別の時間を歩きだす。
今まで以上にもっともっと広い世界へ、別々の道を。

いや、別の世界へ飛び出ていったのは俺のほうで、は今までと同じ場所にいるのだから、変わっていくのは俺だけか。

俺は前へ、前へ、高く羽ばたこうと羽を伸ばす。
そうやって次第に離れていく場所に、身体の一部を落としてきてしまったような喪失感を感じながら、俺はこの足を止めやしない。

でも、このとき俺は、俺たちは、まだ気づいていなかった。













が沈むイムリミッ








(未来の有効期限を知る術を、俺たちはまだ持ち合わせていなかったんだ)
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