家に帰ると、玄関には黒の皮靴が置いてあった。
父さんのものにしては小さく、母さんが俺に買ってきたような新品でもない。
つまりこれは・・・
「・・・」
きっと据わってるだろう目を隠す余裕もなく、まっすぐに廊下を突き進み階段を上がってすぐのドアをノックもなしにガチャッと開けた。
「わっ・・・翼!」
突然部屋に入ってきた俺に驚いて、は立ち上がると急いで俺を部屋の外に押し出した。
でも俺にはしっかりとの前に座っていた男が見えた。と同じ学校の制服を着ていた。
「急にビックリするじゃない、どうしたの」
「今帰ってきたんだよ」
「ああ・・・おかえり」
「あれ誰」
「誰って・・・友達?」
何、その疑問系。
「帰ってくるの早いね、部活は?」
「テスト中だからない」
「あそっか。テスト出来た?」
「当たり前じゃん」
「いつまで?」
「あさって」
「そ。じゃあ勉強しなさい」
「は?なんでこんな早いの?」
「私も来週からテストだから」
「フーン・・・。それで一緒に勉強」
「もういいから、ね、部屋に行こ」
そう言ってまた俺の背中を押し出して、はすぐに部屋に戻っていった。
納得いかない。俺をさっさと追い返して部屋に戻るなんて。いつもなら俺がただいまって言うより先におかえりって言うのに。
誰、あいつ。
無性に腹が立ってきて、の部屋のドアの前にしゃがんだ。盗み聞きしてるわけじゃない。なんてゆーか、ほら、が危ない目に遭わないか見張ってんの。(いや、聞き張り?)
「今の、弟?」
「うん、翼」
「女の子かと思ったよ、かわいかったからさ」
「それ絶対禁句。あの子ホントに気にしてるから」
「あれだけ超越してたらそれはそれでいい気するけどな」
「ぜーんぜん。中身はすごく男の子だから」
「まぁ男からしたら相当コンプレックスかもな」
・・・あんたに言われたくないよ。2・3秒しか見なかったけど、人並みに身長もあると思う。とてもじゃないけど女に間違われない顔をしてる。そんな奴にわかるわけがない。
「弟も麻中通ってたんだろ?」
「うん。2年まで」
「なんでまた急に市立に転校しちゃったの?」
「あそこじゃやりたいことができなかったから。相当反対されたんだけどね」
「そりゃ私立から市立に転校なんてな」
「でも前よりずっと楽しそうなの。私は良かったと思うよ」
・・・転校したいと言った時、強く反対した父さんを前に、俺の味方はだけだった。父さんは俺にエリートコースを歩ませたがったし、母さんは父さんに強く言えないし。
俺だって悩んだ。本当にサッカーだけ見て生きていけるかとか、この体格でどこまで通用するかとか、いろいろ考えた末の決断だったんだ。でもそこまで反対されて延々親に現実的な話をされると、幼心だけに不安は募る。
それでもは俺を疑わなかった。
だけは俺以上に、俺を信じてくれた。
大丈夫。がんばれって、背中を押し出してくれる。俺が下を向いてると名前を呼んで顔を上げさせて、俺がつまずくと手を差し出して引っ張り上げて、俺が走りだすと手を離し、俺を高く高く羽ばたかせてくれる。
不安で押しつぶされそうになっても、現実に目をつぶりたくなっても、いつも傍でやさしく笑ってる。
飛べ、飛べ、もっと高く。俺を高みへ羽ばたかそうと。
「トイレ借りていい?」
「うん。階段の横」
中からドアに近づいてくる声がして、ヤバイ、と急いでその場から離れた。の部屋からあの男が出てきて、廊下にいた俺を一目見てトイレに入っていった。
「・・・」
時々、に抱いている想いがなんなのか、分からなくなる。
生まれたときからずっとそこにいる、それは死ぬまでずっと変わらないんだろう、唯一の人。
でも、今みたくの隣にいる誰だか知らない男を見ると、心の奥底から渦巻く闇が俺の心臓を食らいそうになる。俺に見せる顔とは違う顔をしてるを見ると、泣きそうになる。
子供の頃みたいに、俺たち以外、誰もいなけりゃいいのに。
そんなことを思うようになった俺は、おかしいのかな。変なのかな。
いや、わかってるんだ。絶対におかしいってこと。
わかってるんだ、けど、
「・・・」
の部屋の前で小さくつぶやいた。
「翼、どうしたの?」
するとすぐ、俺の声をちゃんと拾ったがドアを開けて俺の前に現れる。
「翼?」
「・・・」
この少し広い部屋は、幼い頃は俺とのふたりの部屋だった。
イヤだよ、。誰もこの部屋に入れないでよ。
ここは、俺たちだけの場所だったはずだろ。他人には入れない、俺たちだけの、俺とだけの空間だったはずなのに。
俺たちの場所に、他人なんて入れないでよ・・・。
「頭、痛い・・・」
「頭?いつから?」
「・・・帰ってくる、途中」
俺とそう背丈の変わらないの顔が一瞬で真剣になって、どうしたのかな、と俺の額に手を当てた。何の疑問も抱かず、俺の髪を撫ぜる。と同じ髪の色。
「風邪かな・・・、熱計ってみようか。他には?気持ち悪い?」
「・・・悪い」
酷い。吐き気がする。
「そんなに?どうしてもっと早く言わないの。薬飲む?持ってきてあげるから着替えて寝ててね」
「ん・・・」
は俺を部屋に押し出して階段を下りていこうとした。その手前でちょうどトイレから出てきたあいつと会って足を止める。
「どうした?」
「翼が気分悪いみたいで、部屋に行ってて」
は状況を説明し階段を駆け下りていった。がいなくなって部屋に入ろうとしたその男と、まだ部屋に入らずにじっとそいつを見ていた俺は目が合って、俺の目から何を感じ取ったのかそいつは俺に口を開いた。
「気分悪いなら寝てたら?」
「ご心配なく」
「、すごい慌てようだな」
「は僕が大事だからね」
「たしかに、アイツはちょっとブラコンの気があるな」
「・・・」
アイツ?
何その我が物顔。お前のじゃないっつーの。
「お大事に」
「大事にしようがないね、ウソだから」
は?とそいつは丸い目で俺を見た。
「ていうかさぁ、アンタ帰れば?勉強なんて人とやってはかどるわけないじゃん。そうでなくてもは大事な時期で成績落とせないんだよ。アンタがの役に立つわけでもないだろ。それともアンタより頭いいわけ?」
「え?」
「誰もいない家に上がりこんで、テスト勉強?笑っちゃうね。頭ん中で何考えてるやら。にこの程度の男なんて不釣合いだよ。アンタにはもっとアンタのレベルに見合った女がそのへんにいくらでもいるだろ」
「何言ってんだ?」
「まだわかんないの?ほんと頭悪いんじゃない?よくそれで麻城通えてるね、周りについていくのに必死だろ。頼むからの足引っ張ったりしないでよね。”アイツ”はおせっかいだから、誰彼かまわず世話焼いちゃう悪い癖があるんだ」
「それはお前だろ?仮病なんか使って」
「僕がの足を引っ張る?が僕の世話を焼くのは当たり前なの。アンタは何?クラスメート?友人?」
「彼氏だよ」
敵意丸出しの俺の目と口にだんだんと同じような意識を向け始めたそいつは、それでもむきにはならずに落ち着きを見せようとする声で言った。
その態度も発した台詞も、最悪。
頭の奥でじわりと何かが襲い掛かって、激しい嫌悪。吐き気がする。
「っは、も、見る目ないね」
いい加減俺の言葉が鼻についたのか、そいつは俺に詰め寄って睨み下した。
「何?この程度でむかついちゃってるわけ?それとも俺に嫉妬してるの?」
「嫉妬?お前ただの弟だろ。シスコンかよ、だせぇ」
「・・・」
マジで、殺してやろうか。
不穏な俺たちが睨み合っていると、階段を登ってくる足音がしてそいつは俺から離れた。
「翼、何してるの。寝てなって」
「今行くとこ」
「、そいつ仮病だってよ」
「え?」
突然言い出したそいつの言葉を聞いてはそいつと俺を交互に見やった。チクってを味方にしようなんて、小さい男。
「ウソだよ。ほんとに頭痛いもん」
「お前さっき仮病だって言っただろ」
「言ってないよ」
「てめぇな」
「ちょっと、」
また俺に詰め寄ろうとしたそいつとの間にが割り入って、えーと・・・とは困った顔で言葉を探していたけど、その後俺に背を向けた。
「あの・・・ゴメン。今日はもう、終わりにしよう」
「は?」
「また明日にしよ。ね」
「何だよそれ。俺よりそいつの言う事信じんの?」
にまでそう言われて機嫌を悪くしたそいつは、言葉強くに詰め寄った。
「・・・翼は、弟なの」
「は?」
・・・たぶんは、弟だから、信じないわけないじゃない、とかいうことを言いたかったんだと思う。
するとそいつはいよいよキレて、カバンを担いでうちから出ていった。
は何度も謝ってなだめようとしてたけど、そんなの必要ない。
玄関の黒の皮靴はようやくなくなって、閉じた玄関のドアを二度とくんなとジッとにらめつけた。
「翼」
「何」
「頭痛くないの?」
「ないよ。あんなのウソ。本気で信じたの?」
は2階の俺の部屋まで戻ってきて俺を呼んだけど、俺は何ごともなかったように着替えながらあっさり言ってやった。うしろのドア元でふぅと小さなため息が聞こえる。でもはそれ以上何も言わずにドアを閉めようとした。
「」
「ん?」
「怒らないの?」
「なんで?」
「ケンカしちゃってどーすんの。バカだな。あいつじゃなくて俺を追い出せばよかったんだよ。俺なんてほっといて部屋行ってればケンカしなかったじゃん」
「うーん・・・」
「俺が方がウソついてるってわかってただろ?」
うーん・・・。はそればかり。
昔からあまり人と言い合うっていうことが得意じゃない。
人に強くものを言えないし、人に強く言われるとビビって萎縮しちゃう。の悪い癖だ。
「ウソかどうかなんて、どっちでもいいかなって」
「は?」
「翼が気分悪いって言うんだから、それが本当で、それでいいよ」
「・・・」
真実がなんだろうと。たとえそれがウソだろうと。
「翼がウソつくときって、かまってほしい時だよね」
「は・・・なにそれ」
「でも罰として、ごはんまで寝てなさい。頭痛いんでしょ」
「・・・」
ふふと姉さんぽく笑って、はドアを閉めた。
が俺を信じるのは、理由があってじゃなくて、理屈じゃなくて、感覚。どうしてとか、だからとか、考えちゃいない。ただただ、俺なら信じて・・・許してくれる。
それが俺にとってどれほど、・・・
「・・・最悪」
息が喉に詰まって、胸がきつく締めあがって、痛くて苦しくて・・・でもその奥の奥ではじんわりと何か大きなものが膨らんでいた。それがいいものなのか悪いものなのかも分からないけど、ここ最近、ずっとそんな感情と同居していた。
俺とは姉弟。一生変わらない、唯一のもの。
俺だからは理由なんてなくても、理屈なんてなくても、ただ俺を大事に思う。
俺はそんなだから、好きで好きで、大事でたまらない。
だから、俺は好きで好きで、大好きで・・・
辛くてたまらないんだよ。
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