に召されし背のと化せ







キーン・・・
雲が青空に溶け込んで、白んだ空の真ん中を、耳を突く音を響かせながら飛行機が飛んでいた。

まだ人もまばらな朝の大学。あと数時間後には、あれと同じようにこの空を飛んでいく飛行機で、翼は発つ。きのうの夜は寝付けなくて、まだどこか肌寒い中、翼が起きてくる前に母に講義があるといって家を出てきた。

見送りなんて、どうしてもできなかった。
きっと翼も望んでない。

翼はずっと考えていたんだ。
私に気持ちを吐き出したあの日からずっと、こんな日がくることを。

そしてわかっていた。
抱え続けた想いを伝えたところで、どうなるわけでもなかったことを。
そんな想いを何年も、笑う私の隣で、笑って何年も抱え込んで、そんな翼が家を出ると言い出して、私がどんな言葉をかけられるというのか。どんな顔ができるというのか。


「おはよう椎名さん、早いね」
「おはようございます」


時間が経つと、次第にあたたかさが増してきた研究室にも人がやってくる。冷たかった部屋に人の温度が広がる。講義どころか、授業もなかったから研究室で暇をつぶしていた。そんな自分が酷い人間に思えて、またきゅっと、胸を締め付ける。

もう春だというのに、ひやっと窓から冷たい風が吹き込んだ。でもその寒さを紛らわそうという気にすらならない。この世の冷たさを一身に浴びようとも、翼の心の痛みに微塵も届かない気がしたからだ。


キーン・・・
春の大空を切る飛行機が飛ぶたび、空を見上げては、苦しくなった。
次第に太陽が、高く高く上っていく。









時計が少しずつ針を進めると、大学にも研究室にも人が溢れて、大学の中も上着が要らないほどあたたかくなる。教授がいないことをいいことに周りでは花見行こうか、なんて話で盛り上がって、もうそんな季節なんだと今更思う。ここのところ、ゆっくりと外を見回すことも、季節を感じることも忘れていた。


、お昼は?」
「先行って。これ終わらせたいから」
「そ、早くおいでねー」


お昼の時間になって、研究室の中もまた少しずつ人が減っていく。朝はコーヒーを1杯飲んだだけで出てきたのだけど、おなかが空いたという意識は働かなかった。机の上一面に資料や教材が山積みされた、この少し散らかった空間が妙に心地よかった。計算式をひたすら書いてる時間が一番頭が空っぽだった。あまり頭には、入ってなかったのだけど。

もう、日本から出た頃かな。

かりかりと滑らせ続けたペンを止めて、ふ、とひとつ息を吐いた。重い心がずしんと体を沈ませる。コーヒーでも買いに行こうかと椅子から立ち上がると、またキーンと空を切る音がした。その音のするほうに、窓の外の空を見上げた。

でも、どこにもあの光る機体は見えなかった。
そうして目が太陽に合わさった瞬間、ぐらり、世界が揺れた。

青かった空は真っ白になって、光る太陽が一気に大きくなって目の中に突進してくるように感じた。手をついた机の上の資料を落としてしまって、ばさりと床に広がった。世界がぐるぐるとめまぐるしく回って、すべてがぼやけて見えて、ガタン、椅子ごと床に倒れこんだ。


「痛っ・・・」


壁に寄りかかってなんとか体は支えたけど、しばらくの間世界は揺れ続けて目すら開けられなかった。ぐらぐら、ぐらぐら、吐気すら襲ってきて頭の中も体の中も、血が逆流する勢いで力が抜けた。白かった世界はあっという間に真っ暗になって、静まるのをひたすらじっと待った。


「はぁ、・・」


詰まった息がようやく吐き出された頃、少しずつ目が開いて光が戻ってきた。ドンドンドンドン、体の内側から心臓を外に叩き出すように鼓動が響く。突然何かに蝕まれた意識は、ここがどこなのか、自分が誰なのか、何故今ここにいるのか、すべてわからなくなった。上がる息が静まっていくと同時に少しずつ平常な意識が戻ってきて、世界がゆっくりと戻ってくる。

酷い立ちくらみ。最近まともに睡眠も食事も取れていなかったからかな。汗の滲んだ額を押さえてゆっくりと頭を起こし、散らばってしまった床の資料や本を集めて椅子も起こして、力の入らない腕にぐっと力を入れ込んで立ち上がる。ひとつひとつ動作を思い出すように動かさなければ体が動かない気がした。

ダメだ、少し休憩しよう・・

カバンを取って食堂に向かおうと研究室を出た。ずっと心が重いと思っていたけど、体もどこかおかしくなっていたようだ。まだ頭の中はズキズキして、胃が絞られる感じ。とても食べ物を体に入れる気にはならなくてジュースしか取れなかった。

太陽光が直接当たらない窓辺を選んで座った。空の青と建物の周りに咲く花が春のコントラストを見せる。食堂の中ではまだ数人が昼食を取っていて、広い食堂の中はぬるい空気が漂う。食堂の端に置かれたテレビが昼下がりのドラマを流していて、その周りには人か溢れていた。

いろんな音が入り混じるけど、この深い空の青を見ているとどこか遠い世界に飛んでいける気がして、気分は少しずつ落ち着いていった。冷たいジュースがひやりと喉を通って体の奥底に沈んでいくのを感じる。


「うわ、飛行機事故だって」
「え?日本?」


ふと、グラスに寄せた口が止まった。
後ろから聞こえた声が届いて、振り返る。

テレビの周りに集まる人たちが目線を集めている先で流れているドラマを遮るように、画面の上部に白文字のテロップが流れていた。コトンとグラスを置いてテレビに近づいていき、その文字を目で追った。


2時12分に成田空港から出発した便、乗客200人前後
出発後すぐに機体に異変、緊急着陸、機体損傷、炎上


突然ドラマは打ち切られ、せわしないアナウンサーが画面に映った。
流れたテロップと同じことを読み上げて、空から墜落した飛行機を映した映像が出た。


え・・・?
翼が、乗った、飛行機・・・?


飲み込めない事態に頭が混乱して、目が画面に張り付いていてもちっとも流れてくる音が頭に入ってこない。状況を理解したいのに、体中が拒否しているよう。混雑した空港と煙を上げる飛行機がかわりがわりに映って、その後乗客のリストが流れた。

そのほとんどが日本人名で、何百人と流れていく。

ドキンドキン、ドキンドキン・・・
心臓を押さえて、流れていく名前を必死で目で追った。
ひたすらひたすら、心の中で翼の名前を呼んで、でも決してその中にその名前が現れないよう。


でもその名は、次々に流れる文字の一部として流れた。




シイナ ツバサ




それを見た瞬間、背筋に寒気が突き抜け、世界から音が消えた。


















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