世界が音を立てて崩れていく。 色は褪せて、音は溶けて、まるで異空間のような暗闇がうしろから襲ってくる。 私を包む冷気が指先から、鼻先から、目から入り込んで、カチカチと歯が音を立て震えた。体がどんどん崩れ落ちていくようだ。全身から力が抜けて、ヘタリ、床に膝を崩した。 「椎名さん?」 周囲の人たちが突然、失意して座り込んだ私を不思議そうに目を集めてくる中で、誰かの声が聞こえた。テレビ画面に捕らえられてしまった私の目がゆっくりその方に移る。 「あ・・朝賀さん・・・」 「どうしたの?」 私の異変に気づいた朝賀さんは私のすぐ前にしゃがみこんで肩に手を伸ばした。だけど私はうまく体を動かすことが出来ない。大きなあたたかい手は私をしっかりさせようと力を強くするけど、私の意識は定まらず、乾いた目が画面にまた戻っていく。 すぐ近くからどうしたのと何度も問いかけられる。周囲から不思議そうな大勢の目が私に向かっている。その、さらに向こうで、テレビの画面が騒然とした空港を映しアナウンサーが強い口調で言葉を並べたてていた。 ・・・つばさ、 「つばさ、」 「え?」 「どうしよう、つばさ、」 「椎名さん落ち着いて、どうしたの?」 「つばさがっ、つばさがっ・・・」 ガチガチ震える口をさらに震える手で押さえるも、その言葉以外忘れてしまった私の口はひたすらそれだけを繰り返した。頭と体がずれてしまって、混乱して壊れて、目が熱くなってテレビ画面が揺れた。酷く慌てる私がそれでも画面を見つめているのを見て朝賀さんも振り返りテレビを見た。 「あの事故?あれに誰か乗ってるの?」 「つばさ、つば・・」 「しっかりして、とにかく、誰かに連絡取ってみたら?事情がわかる人いないの?」 「・・・」 ぼろぼろと涙を落としながらまた床に崩れ落ちた私を支え、朝賀さんはしっかりとした口調で私に言い聞かせた。 連絡・・・、事情がわかる人・・・ 力の入らない足を崩しながらも何とか立たせて、カバンを置いている机に向かった。カバンから携帯電話を取り出し家に電話をかけようとした。これだけテレビでやっていればお母さんも気づいてるはず。ひょっとしたらお父さんだって、そしたらどこかに現状を、翼の安否を確かめてくれてるかもしれない。 そう思うのだけど、震える指はうまくボタンを操作できず、アドレスを出したいのにどこを押せばいいのかわからなくて、隣から落ち着いてとまた朝賀さんが私から力を抜き、私は一度息を吐いて気持ちを抑えゆっくりと家の番号を出した。 何度もコール音がなって、それでもその音が途切れなかった。 どうして?お母さんが家にいるはずなのに、どうして出ないの? ぞわりとまた不安が押し寄せてきて、恐怖からまた涙が落ちた。 「椎名さん、どう?」 「・・・っ」 隣から朝賀さんが私を覗き込んで、でもその声は私には届かなかった。くり返される呼び出し音だけがぐるぐるといつまでも渦巻くばかりで何も見えなかった。いつまでも途切れない音がまるで、何かのカウントダウンのように聞こえて、堪えきれずに私はカバンを掴んで食堂を走り出た。 大学を彩る梅のやわらかい香りが一面に広がっていた。世界は長閑な春の陽気になって、暖かい日差しに見守られてふわりと花をつける。空から押し寄せていた寒気も、時間が経つにつれて日差しに溶けていって、もう誰も、上着を着ていない。 誰もがあたたかい春を感じていた。 陽だまりに誘われて何人もの人が行きかっている中を、荒々しい足音で駆け抜けた。途中人にぶつかっても振り返らずに走った。 翼、翼、翼っ・・・ 私の中はもうそればかりだ。 他に何かを思えというほうが無理だ。 あんなにも苦しい顔をして、想いに押しつぶされそうになりながら、耐え切れずに流れ出てくる想いをそれでも翼は必死に殺して殺して、懸命に、私を守ろうとしていた。 すべてが当たり前であるようにと、抗い続けていた。 「っ・・・」 酷いよ 酷いよ もうこれ以上翼を傷つけないで もう翼を、苦しませないで 私なら何でもするから、お願い神様、 この世から、翼を消してしまわないで・・・ 広い大学を出口に向かって走り続けやっと門が見えてくる。走り慣れてない足は思うほど急いでくれなくて、ちっとも進んでないように思えてもどかしくてたまらない。体中を巡る血の管が沸騰する血に耐えられず引きちぎられる痛感がした。 やっと門をくぐり抜ける。大通りに出てタクシーを拾おうとして、 でもそこでピタリ、足を止めた。 「・・・」 門をくぐって大学に入っていく人たちの向こうに、チラチラと、 「つばさ・・・」 門の傍らに立ち足元にカバンを置いて頭に深く帽子をかぶる翼がいた。かすんだ視界で捉えた影は意識と同じでうまく作動してくれないけど、あれは何年か前に私が買ってあげた羽の付いたコート。 大き目のキャスケットに隠れるその顔はよく見えないけれど 私が翼を、見間違うはずがない。 ふらり、足を動かした。時間が止まったように頭の中が静か。少しずつ近づいていくと、ふと何かに気づいてあのぴんと跳ねたクセのある髪が動き、キャスケット下からずっと見続けてきたあの大きな瞳が、翼の大きな目が、私を捉えた。 私を見つけた翼はポケットから手を出し、壁から背を離してしっかりと自分の足でまっすぐ立った。私に貼り付ける目はどこか、怯えるているようにも見える。そして、 「・・・」 また、こわごわと怯えるような声で、私の名を紡ぐ。 その細い糸に手繰り寄せられるように、いや、私は確かに自分の足で。 「あの、ね、・・・」 言いにくそうに口を動かす翼。 私から目をはずし、怯えるように顔を伏せて、 この翼は、本物・・・? 「あの、俺・・・」 「翼?」 私の声に翼はぐと息を呑む。 ああ、本物だ。ちゃんとその名前に反応する。 「翼、どうして・・・、飛行機乗らなかったの?」 「・・・」 うん・・・ 聞き落としそうな小さな声で翼は呟く。だけど私はその些細な声も落とさないくらいの距離まで近寄っていて、その空気を感じて翼もまた恐る恐る目を上げて、 その翼に、私は、手を伸ばした。 「ケガ・・・、痛いところ、ない・・・?大丈夫・・・?」 「え?」 感覚なく冷え切った指先を翼の頬につけ、しっかりと手のひらも添える。まだ震えの止まらない手で、翼の形、質感、温度を確かめるように触れた。頬に、髪に、肩に、腕に、私の冷たい手は彷徨うように、だけど確かに翼の温度を感じ、ぼろりとまた涙が落ちた。 「・・?」 翼だ。確かに翼だ。 少し乾燥した頬も、はねた髪先も、細い指も、クセのある声も、すべてすべて 「翼っ・・・」 ずっと傍にいた、翼に他ならなかった。 突然に泣き出して抱きしめる私に翼は驚いて体を硬くした。 心が溶ける。全身から力が抜ける。 でもそれは、さっきまでのような不確かな闇の虚無ではなくて、眩しくて思わず目を閉じてしまうほど力強い確かな光。 その中からふわり、真っ白なあの天使の羽が、背に、この手に、 翼が、帰ってきた・・・ |