EDEN











「翼!!」


翼と一緒に家に帰ると柾輝君たちがいの一番に飛び出てきて、玲さんも、高校の友達や近所の人もたくさんいて、みんなが翼の無事を涙を流し喜んだ。


「翼生きとったんかー!!」
「おお」
「おおじゃねーよバカヤロ!」
「マジでもう、おまぇ、・・・」
「翼ー!」


奇跡とも言える出来ごとを喜んで笑顔になりたいのだけれど、一度心に巣食った恐怖の反動か、誰の目にも涙が滲んだ。ただでさえ翼が家を出て海外で暮らすことを心配していた母にとって、それは他の誰よりも、計り知れないほどの深い傷になっただろう。

なのに、当の本人からしたらまるで他人事。
取り残されてしまったように、翼は一人ケラケラと笑い飛ばしていた。


「でもなんで飛行機乗らなかったの?」
「ああ、それがふと頭の中で誰かの声がして、その飛行機に乗ってはいけないと・・・」
「ウソつけ」
「はは、なんか忘れモンしたよーな気してさ」
「虫の報せってやつ?」
「それなんか意味違うんじゃねーの?」
「なんにしてもすげぇ運やなー。200人も死傷者出たっちゅーのに」


テレビの中ではずっと、飛行機事故の報道が繰り返し伝えられていた。喜び広がる我が家とは別世界に、家族や大事な人を失って泣いている人が大勢いる。そう思うと、手放しに喜べる気には到底ならなかった。


「もう、やっぱり心配だわ。ねぇ、なんとか翼を説得してよ。日本にもいいチームたくさんあるじゃない」


母はまだそんなことを言う。誰よりも、甘やかす勢いで翼を愛する母にだって、それが翼のためにならないことくらいわかっているけど。


「だってまたこんなことになったらお母さんもう生きた心地しないわ。いっそ家族みんなでスペイン行こうか」
「子どもの仕事に家族でついていったら笑われるよ」
「いいじゃないそんなの。あーあ、パパがスペインに転勤にならないかしら」
「無茶言うなぁ」
「だって・・・。じゃあ、あなた翼についていきなさいよ」
「ええ?」
「あっちにだって大学くらいあるでしょ。翼一人で行かせるよりずっと落ち着くわ」
「大丈夫よ、翼には幸運の神様がついてるから」
「神様じゃ翼の健康管理までしてくれないわ」
「ええー」


普段から神様に拝んでいるあなたがそれを言うんですか。
相変わらずどこか身勝手で不躾な母の愛情は、誰かにそっくりだと思う。


その日は日暮れまでリビングは明るく和気藹藹としていて、みんなの中心で笑ってる翼を見ながら私も安堵していた。

それでも胸の鼓動はまだ落ち着いてくれなかった。
ドクドク、ドクドク、・・・
もう心配することは何もないのに、翼は目の前にいて、笑っているのに、私の心臓はまだ闇のような恐怖におびえていた。

春先の夜風はまだ冷たかった。
暖かな家の明かり、夕げの香りが漂うぬくもりの中でさえ、冷え切っていた。


?」


風にふわり乗るように、翼の声がした。
昨夜はもう、当分聞くことはないと思っていた、その声。
ベランダに出て星を見上げていた私のうしろに翼がいた。


「寒くないの?」


私はまだ逸る鼓動を聞きながら、それでも自然に笑い返した。
すると翼は一度顔を引っ込めて、また戻ってくると私にストールをかぶせた。


「ありがと」


翼の手で肩から冷たさが溶けていく。
だけど私は、翼のほうを向いていながらその顔をまだ一度もきちんと見れていなかった。


「なんか、知らないうちに大事になってたみたいだね」
「みんな駆けつけてくれて、翼って大事に思われてるんだね」
「まぁね」


自信満々に返す、久しぶりに聞いたそんな翼の言葉になんだか笑みがこぼれた。
ああ、翼だ。ここにいるのはちゃんと、いつも見てきた翼。


「今度はいつ行くの?」
「空港がまだちゃんと機能してないみたいで、もう2・3日待ってろってさ」
「そう。あんな大変なことが起きたんだもんね」
「ま、俺はまったく知らなかったんだけどね。がすげー泣いてるから、マジビビったし」


なんだか、とても不思議。
長い長い冬がようやく雪解けをして、冷たい中から小さな芽が出て、春が来たような穏やかさ。

なのに、どうして。


「・・・なんで、まだ泣きそうな顔してんの」


明るかった声のトーンをポロリと落として、翼が目の前でつぶやいた。

失う・・・という恐怖を初めて感じた。
思考が停まるとか、言葉を失うとか、全身から力が抜けるとか。
なかなか消えてはくれない。脳の奥深くに根付いた恐ろしい絶望。


「俺は死んでないよ。ここにいるよ」
「ん・・・」


死んだ

それはなんて、心をえぐる牙。非現実的な、現実


「俺ね、ギリギリでやっぱ飛行機に乗れなくてさ。最後にもう一度、ちゃんとに会いたくて。でも、に拒否られるかもって、ビビっちゃってさ・・・。は今までそんなこと一度もなかったのに。俺今までもずっとそうやって、ひとりでビビってた。にだけは、嫌われたくなかったから」


そんなことあるわけない。言葉には出せなかったけど、私はやっと翼を見上げた。
風に髪を揺らす翼はまるで小さく震えているように、心の中を広げてる。
ずっと隠し、押さえ続けてきたんだろう、心の奥の奥。


に会って何て言おうってずっと考えてたんだけど、がいきなり泣き出すから全部吹っ飛んじゃってさ。もしかしたら、も寂しがってくれたのかななんて、思っちゃって・・・」


馬鹿だね。と翼は笑った。


「でも俺、が俺を想ってくれるなら、死んじゃってもいいかな」
「・・・」


ザッと強い風が吹いて、翼の髪も私のストールもはためいた。
確かにそこにいるはずの翼が、突然風に浚われそうで。

ー?翼ー?

カーテンが風で揺らぐ向こう側で、部屋のドアが開いてお母さんの声がした。
けど部屋に私はいなくて、どこ行ったのかしらと部屋のドアを閉めた。


「・・・、?」
「・・・」


翼の心の強さがドクンドクン、私の胸に伝わった。
風に浚われそうな翼を、私は強く抱きしめていた。
翼と身体を合わせ心の音を感じて、ようやくずっと怯えていた私の鼓動が落ち着いていった。
同じ髪色。同じ心音。同じ温度。


「死ぬのは嫌」
「・・・ごめん」


たとえ幻だったとしても、あまりに大きすぎたあの数分間の現実は、私の心も体も壊した。
でも不思議なことに、壊れた心の向こう側にも、世界はあった。


「ごめんね翼」
「え・・・?」
「もう何だっていい。そばにいる。ずっと翼のそばにいる。翼がいれば、何も要らない」
・・・」


翼の早い心音は上り続けて、赤らめた顔はみるみる歪んでいって、じわりと大きな目に波が生まれ、翼の瞳にキラキラと星が宿った。


・・・っ」


どう言葉を紡げばいいか分からない。
またこんな感情を形にすることはとても重く、罪悪な事のようにも思えた。
翼はそんな苦しみをずっと抱えて、それでも私に伝えた。
私の言葉は、ちっともうまくなかったかもしれないけど、抱き合う腕は確かに私たちの心を繋げた。
私たちにだけ分かる言葉だった。


同じ髪の匂い

同じ目の色

同じ肌の質

同じ手の形


この体を作っているすべてが同じフォルム。
私たちは命が果てるまでそれを憂い、残酷に思い、だけど喜び、必ず幸福に思う。

他人であれば・・・なんて思わない。
これが過ちだと言われても、罪だとなぶられても、私たちは血で繋がっている。

この血に温度がある限り、私たちは幸福のそばに、楽園にいるのだと信じたい。