たくさんの人が行き来する騒々しさの間を縫って、搭乗アナウンスがこれから出発する便の名前を呼び上げている。それになぞらえてまたたくさんの人たちが入り口に向かって歩いていって、だけど俺が用があるのは飛び立つ飛行機じゃなく着陸する飛行機だから、誰も居なくなったロビーのソファに座って腕時計を見下ろした。 ドキドキ、静かに胸が鼓動している。この音は、試合前の音に似てる。期待と興奮と、緊張と少しの不安。 両の手を握り合わせてぎゅっと握った。汗ばんだ手のひらを手のひらで感じて、自分が思ってる以上に興奮してることを自覚する。 だって、そりゃそうだろ。 あと少しでがくるんだ。に会えるんだ。 嬉しくて勝手に頬が上がる。待ち遠しくて落ち着かない。ああ、早く時間にならないかな。早くが乗る飛行機が着かないかな。そう何度も時計と発着の掲示板を見ながらぎゅっと手を握って胸の高鳴りを聞いていた。 予定の時間になってアナウンスが流れる。日本から飛んできた飛行機が空の彼方から現れてどんどん近づいてきて、広い滑走路に滑り込むように着陸して大きな機体は止まった。可動式の階段が飛行機の外面に寄せられてそこから乗っていた人たちが下りてくる。俺は立ち上がり窓ギリギリまで寄っていって遠くに小さく見える米粒みたいな人たちの中からを探そうと目を凝らした。 「あ・・・」 いた、たぶんあれだ。細身のコートに大きなキャリーケース、大き目の帽子を被りその中から緩やかなウェーブを描く黒い髪がふわり揺れている。 だ。 だって俺がを見間違うはずがないもん。 それからまたしばらく待って、奥からぞろぞろと歩いてきた日本人の団体と一緒に出てきたに目を留め駆け寄った。 「っ!」 手すりの上からぐいと体を乗り上げて大きくを呼ぶ。その声に多くの日本人がこっちに振り返って、その中でが俺と目を合わせぱっと表情を明るくした。 キャリーケースをコロコロ転がしながらが小走りで駆け寄ってくる。そのと目を合わせながら俺もが出てくるほうへ走って近づいていく。 が嬉しそうな笑顔を満面に、でも少し抑えるように駆け寄ってくる。がここに来たこと、笑顔でいること、俺に駆け寄ってくること。すべてがたまらなくて、俺はが目の前までくると躊躇いなく両手を広げてぎゅとを抱き包んだ。 「わ、ちょっと、翼!」 「、やっときた!」 「うん、でもあの、翼・・」 「あーほんものだ、!」 この柔らかさ、髪のにおい、肩の細さ、背の高さ。どれをとってもずっと待ち望んでいたそのもので、嬉しくてずっと思い切り抱きしめた。は俺とキャリーケースを支えて周りを通り過ぎていく人たちに少し恥らいながら、それでも俺の背中に手を回してぽんぽんと優しく撫ぜた。が笑う吐息を感じた。 力いっぱい抱きしめて、抱きしめて、満足したところで一度離れてを見る。は少し頬を赤らめて、それでも俺を見上げて柔らかく笑った。 「元気だった?」 「うん」 「サッカーは?練習ないの?」 「今日はオフ。ていうか荷物少ないね」 「うん、必要なものしか持ってこなかった」 「アレ持って来てくれた?頼んだCDと本」 「うん」 それから俺たちはとりあえず休もうかと喫茶店に入った。は当たり前だけど見るもの全てが新鮮で、来たばかりの俺と同じようにあらゆるものに感動していて少しいつもよりテンションが高い。 「Que pide?」 「Deme dos cafe.」 「Si.」 俺もまだスペインに来てそう時間が経っているわけじゃないけど日常会話くらいは出来るようにはなっていて、喫茶店で店員に注文する俺をはじっと見つめて関心していた。 「ちゃんと勉強してるんだね翼、すごいね」 「たいしたこと話してないよ。も勉強してきたんだろ?」 「一応したけど、本当に少しだけだよ」 「勉強より誰かと話してたほうが早く覚えるよ。アパートの大家さんめちゃくちゃおしゃべりだからいい練習台になるしね」 「翼はそういうところがすごいんだよね」 「そういうところって?」 「そういう、学ぶより覚えろみたいな」 「だってテキスト相手にするより実践のほうが身になるのは当たり前じゃん」 そういうとはまた、そういうところがね、って、俺たちの元にやってきたコーヒーを口にしながら呟いた。 「少しって何覚えてきたの?」 「おはようとかありがとうとか、ほんと日常会話だけ」 「ふん。じゃあー、Agradecerle de antemano de hoy en adelante.」 「え?」 「Gracias por haber venido.」 「あ、今グラシアスって言った?」 「Me alegro osadamente.」 「えーわかんないよそんなの、なんて言ったの?」 は俺が並べ立てるスペイン語に耳を澄ますけどまったく聞き取れない。そりゃそうだ、どんなに単語を覚えたって発音が違うだけでぜんぜん違う言葉に聞こえてしまうものだ、外国語なんて。でもなら英語が出来るし、どうしようもなく困ることもまぁないだろう。 「Muchas gracias.」 「あ、またグラシアスって言った」 は俺の言葉に耳を傾ける。 今の俺が生きてる国。その国の言葉。 「、Amor.」 騒がしい空港の中の人がひしめいた喫茶店。 が俺の声に耳を澄ます。 「んーやっぱりわかんない。発音がなぁ」 「うん」 「勉強しなきゃ、大家さんとね」 ふふ、と笑うを目の前に、俺も笑った。 それから店を出て、空港の前でタクシーに乗り込んだ。過ぎ去る景色を目に焼き付けるように見つめるは水族館に来た子供みたいで、楽しそうに何かを見つけては俺に振り向いて、俺の通訳つきで覚えたてのスペイン語で運転手と会話する。 「どこか行きたいとこある?」 「んー、今日はいいよ、荷物もあるし」 「じゃ次の休みどこか行こう。考えといてね」 ほんとは俺だってそんなに案内できるほどこの国を満喫してるわけじゃない。毎日毎日していることも考えていることもほぼサッカーばかりで有名な場所も観光名所も行ったことがないくらいだから。 「いいよ翼、そういうのはさ、時間あるときで」 「え?」 「だって翼はここにサッカーしに来てるんだし、私は翼のお世話係みたいなものだし」 「そうだけど、せっかくスペイン来たんだからちょっとはさ」 「ん、でもそんな急がなくてもさ、当分はずっとここにいるんだから」 「・・・」 そっか。はここに遊びに来たんじゃないんだ。 これからずっと俺と一緒に、ここにいるんだ。 「」 「ん?」 「ありがと」 俺に振り返って、は小さく首を傾げる。 そして、ふわり笑って、 「グラシアス」 俺に指差して、イタズラっぽく笑って言った。 アパートの前でタクシーが停まった頃には日が傾いて道やアパートは薄い赤に染まり始めていた。夕焼けなんてどこの世界でも同じはずなのにはそれすらにも感動して空を見上げてる。 のキャリーケースを担いで階段を上り、部屋の鍵を開けるとはまたわぁと歓声を上げた。 「結構広いね」 「うん」 あまり物がないってのもあるけど、リビングを中心に寝室、キッチンとシャワールームが繋がった部屋はいわゆる「外国のアパート」っぽいとは嬉しそうに部屋を見て回っていた。 「ちゃんと片付けてるじゃない」 「きのう必死で片付けたんだよ、怒るから」 「ふふ」 初めてのひとりでの生活は結構苦労することが多くて、今まで全てをやってもらって生きてたんだなってことを今更ながらに理解させられた。のキャリーケースを部屋の隅に置きながらそうぽつりと言うと、はふふと笑って部屋の窓を開けた。 「わぁ、綺麗」 「うん、この時間が一番綺麗だよ」 「すごい」 部屋の窓から遠くの屋根に夕陽がちょうど沈んでいく頃で、空も道も近くの川もアパートの窓も、それらを見るの目と頬も、夕陽の色を映してほのかな赤一色に染め上がった。 今まで数ヶ月、初めてひとりで生きてきたこの部屋。 あるものは俺のものだけ。俺が使うもの。俺が必要とするもの。 その中に、がいる。 それがどういうことか、わかる? どのくらい幸せか、わかる? 俺は背を向けてるの傍まで近づいて、をぎゅと抱きしめた。は少しだけ振り向いて、何?と笑って問うけど、俺はただただ力いっぱい抱きしめていたくて、感じていたくて、何もいえなかった。 ありがとう。 来てくれてありがとう。 本当にありがとう。 慣れない言葉じゃうまく伝わらなかったみたいだから、ちゃんと伝わる言葉で、もう一度言う。 「ありがとう」 「・・・」 「ありがとう」 腕の力をそっと抜いて、少しだけ離れて、の腕を引いて振り向かせる。向き合ったに笑顔はなくて、今まではずっと俺のことを心配する姉さんの顔でいたけど、それはもう崩れてしまって、ためらいがちに移ろう目はきっとまだ色々迷っているんだろう。 「・・・」 だけど、 俯かないで、目を逸らさないで、俺を見て 「キスしていい?」 「・・・」 そっと優しく、柔らかい頬に触れて 赤い糸のように、髪に指を絡めて 壊さないように、解けないように、逃がさないように 思いのたけを全部込めて、口付けた。 だいすきだよ ほんとに、ほんとに、どうしようもないくらい、好き もう死んでもいいってくらい・・・ ありがとう 好きでいさせてくれて 好きになってくれて ありがとう 俺の傍に来てくれて、ありがとう・・・ 僕らをとりまく全てのものよ
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