眠 り 











「じゃあ、本当に頼んだわよ、翼」
「うん」
、6時くらいに帰ってくるって言ってたから、帰ってきたらごはん温めて食べてね」
「わかったって、早く行きなよ」
「じゃあ行って来るね、ちゃんと戸締りしてね?」


母さんは最後の最後まで家と俺たちの心配をして出ていった。父さんの出張先が母さんの実家の近くなため、母さんもそれについていくことになったのだ。俺もも受験生だし、は先週末から塾の集中講義で出かけていて、だから俺たちは家に残る事になった。は今日帰ってくる。


「ただいま」
「おかえり」


冬の6時はもう真っ暗で、迎えにいこうかと思っていた矢先にが帰ってきた。
寒かったのだろう、コートとマフラーを堅く握って真っ白い頬を少しだけ赤くして小さく震えていた。あったかいリビングでカバンを下ろしコートを脱ぎ、冷たい手を温めようと暖房の前にしゃがみこむ。


、ごはん食べる?もう準備しちゃうからね」
「あたしやるよ。お風呂入るからちょっと待ってて」
「いいよ、あっためるだけだから」
「そ。じゃあ先食べてていいよ」
「・・・待ってるから、早く行ってきて」


キッチンの中で鍋を火にかけながら言ってみたら、は普通に笑ってリビングを出ていった。

こんな些細な言葉に意味をこめているのは、俺だけ。
からしたらなんてことない、ただの言葉なんだろうな。






準備の整った夕食を前にしてが出てくるのを待っていた。テレビもつけないで静かな部屋は、部屋を照らす電気のおとすら聞こえてきそうなくらい静か。聞こえるのは、窓の外の強い風の音。時計の針の動く音。リビングの外の、風呂場のシャワーの音。
こんな些細な音が気になって仕方ないのは、俺だけ。


「おそい」
「先食べてて良かったのに」
「待ってたかったの!」
「ごめんごめん」


肩にタオルをかけて、濡れた髪を髪留めで留めるは清潔なにおいを漂わせてテーブルについた。そのにおいに目を逸らし、いつも通り気丈に振舞ってみせる。じゃないと、もれてしまいそうで、前に座って手を合わせるに目も合わせられなかった。
こんな静かでもは何も気にならないんだ。俺はリモコンでテレビをつけた。


「翼、今日サッカーは?」
「やってたけど、早めに切り上げてきた」
「なんで?」
「だってが帰ってくるから」


なんで?とまたはきょとんと俺を見た。


「明日もない」
「めずらしいね」
「だって一人じゃ危ないし」
「そんな事ないのに」
「だーめ。危なっかしくて一人で家において置けないよ」
「あのー、あたしもうすぐ大学生なんですけど」
「俺はもうすぐ高校生だよ」
「高校生か、大きくなったなぁ」


やめてよ、子供じゃないんだから。
そう言うとはフフと笑った。


「何その笑い方」
「何って?」
「まだまだ子供よとか言いたそうだね。といい玲といい、いつまで俺のこと小さい子供だと思ってんの」
「思ってないよ」
「思ってる」
「ないない」


絶対思ってる。はいつでも姉さんらしく笑って、いつもやさしく見守るような眼差しで俺を見る。 それが”家族”という、どんなにあたたかくかけがえのないものだとしても、今の俺には重い鎖のようでならない。戸惑いどころか、疑問すら抱かないを見ていると、正直苦しさよりも、苛立ちを感じる。



食事を済ませると俺も風呂に入って、出てきてもはまだテキストを広げていた。勉強合宿から帰ってきたばかりだというのに、ほんと丁寧な性格してる。


「そんな根つめなくてもいいんじゃないの?」
「ま、試験終わるまではね」
「がんばるねぇ」
「翼は?受験大丈夫そう?」
「余裕」


は俺を見てにこり微笑むとすぐテキストに目を戻した。
は十分勉強が出来る。きっと、ていうか絶対大学だって一発合格するに決まってる。それでもはご丁寧に塾へ行くし、毎日夜まで机に向かうし、いつでもテキストを手放さない。
昔からそう、手を抜く、と言うことを知らない。夢中になると他が見えなくなって、与えられたことはきちんとこなす。「努力」というものは、きっとから学んだ。


、あの頭の悪そうな彼氏とはもう別れた?」
「翼・・・」


勉強する気が抜けそうな話題を振ってみると、案の定は口ずさんでいた英単語が消えてがくりと頭を落とした。そういうとこ絶対にしらっと素通り出来ないんだよな。


「別れたの?」
「よくゆーよ。散々ジャマしておいて」
「あ、別れたんだ」
「大変だったんだから。翼がいちいち首突っ込んでくるから」
「あの程度での事諦めるならさっさと別れておいて良かったんだって。大体あれのどこが良かったわけ?」


ほっといてよ。
テキストに無理やり頭を戻す。


にはもっといい男が合うの。あんな男絶対認めないから」
「お父さんじゃないんだから」
「俺父さんよりうるさいからね。はい、うしろ向いて」


困ったように笑うからテキストを取りあげて、まだ濡れているの髪にドライヤーをかけようとのうしろに座った。細い髪に指を通しながら水分を飛ばして乾かす。

俺は、のうしろが一番好きかもしれない。の顔は見えないけど、も、俺が見えないだろ?俺がどんな顔をしてたって、わからないだろ?


は父さんに似てまっすぐでいいよね。俺もまっすぐのほうが良かったな」
「えー翼のがいいよ。ふわふわしててかわいいじゃん」
「ケンカ売ってる?」
「いや、かわいいっていうか、くるくるしてて、ねぇ?」
「おんなじだし」


クスクス、の細い肩が揺れた。

俺はこの髪が嫌い。ただでさえ女と間違えられるのに、このクセっ毛のせいで間違えられ度2割り増しだ。
それに、この母さん似の髪と、の目鼻立ちのはっきりした父さん似の顔は、俺たちが父さんと母さんの子供で俺たちが姉弟だという紛れのない証拠。いつかのお決まりドラマのように、実はあなたは橋の下で拾った子供なのよ、なんて言われたほうがよっぽどうれしい。そうすれば、に男が出来てもあんな遠回しに別れさせたりしなくてもいいんだ。こんな風に静かな世界を二人きりですごす時間が、永遠になったはずだ。

俺は一生の側にいられた。
世界中の誰にもあげない優しさを、にだけにあげられただろうに。


「翼、もういいよ、ありがと」
「・・・」
「翼も早く乾かしなよ?風邪ひくから」
「ん・・・」


テレビの音がうるさい。ドライヤーの音がうるさい。
俺たちの世界はもっと静かでいいのに。

赤の他人に生まれたなら、俺は他の何を犠牲にしてでもを愛せたのに。血なんか繋がってなければ、俺はもっと堂々と優しさをかけられたのに。俺の体の細胞ひとつひとつが、俺とをつなげてる。爪先から髪の毛1本まで、俺たちは同じもので出来てる。

それがどんなに鬱陶しいか。
これがどんなにもどかしいか。


「翼、眠いの?」
「・・・ん」
「寝るなら部屋行きな?風邪ひくったら」
「でも、俺の部屋暖房つかない」
「なんで?」
「なんか、ストーブつかない。寒い」


ほんとに?首をかしげながらはリビングの明かりを消して2階に向かった。俺の部屋のストーブをカチカチといじってみるけど、やっぱりつかない。
その背中で、あたりまえじゃんと閉じた口の中で言った。だってが帰ってくる前に中開いていじったの俺だもん。


「寒い、風邪ひく」
「ふとん入ってたらあったかくなるよ」
「やだ。俺デリケートなの、絶対風邪ひく。んとこで寝る」
「ええ?」
の部屋ならあったかいし」
「えー?」
「えーって何、嫌なの?」
「いやっていうか、せまい」


せまいって・・・。
まぁ、いやって言われなかっただけ。


「まぶしい?電気消す?」
「大丈夫」

 
結局の部屋に押し入ってベッドにもぐりこんだ。のベッドで寝るなんて、小学生の低学年以来じゃないかな。あったかくて、甘いにおいがする。はまだ懲りずにテキストを開いてるのだけど。


「ねぇ、まだ勉強するの?」
「うん、もう少し」
「もー十分じゃん。あんまり勉強しすぎるとバカになるよ」
「意味わかんないよ」


俺に背を向けて机に向かってるがペンを走らせながら笑った。昔から変わらないさらさらの長い髪と細い肩が、少し、華奢に見える。


「ねーまだ?もー寝ようよ」
「寝ていいったら」


俺はぐずる小さな子供みたく声を出して、ベッドの中でゴロゴロ転がっていた。なんだかそんな気分だった。甘えたくて甘えたくて仕方ない。だってこんな日、もう二度とないかも。

それから数十分机から離れずにペンを走らせたは「よし」と一息ついてやっとノートを閉じた。そうして振り返るけど俺はもう寝落ちてしまっていて、そんな俺を見てはまた姉さん顔で、俺にふとんを掛け直して笑う。
傍にいるの匂いと温度を感じて、手を伸ばした。


「翼?」
「ん・・」
「翼、離れてよ、寝れないじゃん」
「・・・」
「ねぇ、翼」


眠気にかまけて何も言わない俺に、が困る。
でも、離れられなくて。離れたくなくて。

ふぅと小さく息をついたのが、回してる腕から伝わってきた。俺の頭をぽんぽん撫ぜて、ベッドの端で俺を抱き包むように寝転がった。いくらなんでもこの年で一緒に寝る姉弟なんていないだろうし、も本当に困ってただろうけど、俺はその時、まるで生まれてくる前のような深い深い安心感に包まれていた。

弟のフリをしてれば、はずっとこんな風に、俺を抱きしめるのかな。

フリ

もう、そんな風にしか考えられなくなっていた。


「・・・」


明かりが消えてしばらくした冷えた部屋で、が寝息をたてる。
勉強し通しで疲れてる。寝入るのも早かった。


「どっちが子供なのさ」


俺を抱いていた腕は力なくシーツの上に倒れて、すーすーと寝息が小さな鼻を通って、無防備な顔で。
久しぶりに見る寝顔。その顔は昔のままだ。


いつからだろう、が俺の中で家族という範疇からずれていってしまったのは。はいつだって、もちろん今でも変わらず俺を弟だと思っているのに、なんで俺だけずれてしまったんだろう。


「・・・ズルイんだ」


俺ばっかり、苦しい。
俺ばっかり、もどかしい。

もう、何もかもを捨て去って、家族も、血も、関係も、体裁も、



滅茶苦茶に壊してしまいたかった。


こんなに無防備で、何されてもしらないからね。俺を部屋に入れたが悪いんだからね。俺の姉さんなんかに生まれて来た、が悪いんだからね。


起き上がって、今にも落ちそうなベッドの隅で寝入るを上から見下ろすと、腕に重みがかかってベッドがギシッと音を立てて揺れた。天井で小さな明かりだけがついている中で、うっすら見える輪郭が呼吸とともに揺れて、甘い匂いの中心に、顔を近づけた。

これ以上ないくらい傍で、の閉じた睫を見た。

こんな距離にいても、何も感じずは幼く眠っている。俺はまたゆっくりと距離を詰めて、前髪が触れ息が合わさるほど傍へ、傍へ。

外の冷気に消えた暖房の熱が負けて、冷えていく部屋の中で、初めて、境界線を飛び越えた。

柔らかく温かいの唇は俺に計り知れない熱をもたらせて、たとえここが氷の世界でも、俺は平気な気がした。


「・・・


触れた唇でそっと呼びかけてみても、は目を覚まさない。


もういっそ、一生このまま眠り続けて。俺の中で、誰にも触れさせず、俺だけのものでいて。

俺を見て、とは、いえないんだ。
怖くて怖くて、それだけはいえないんだ。


を起こさないように、そっと、に身を寄せた。


俺の目の前にがいる。抱きしめられるほど傍にがいる。
ほんとは、確かに抱きしめたい。
痛いほど、抱きしめたい。けど。


「・・・」


は、こんな俺を見たら、どう思う・・・?


「ん・・」


眠り続けていたが何かを感じ目を覚ました。でも部屋は薄暗い静かな部屋のまま、俺が隣に眠ったまま、何もなくそのまままた眠りについた。
そのを背中で感じながら、俺も目を閉じた。


「・・・」


想いが溢れる。
止められないほど。怖いほど。


止めた方がいいよね?
には、俺はただの弟だもんね?

でも、もう、自分でも抑えられないんだ。




愛してもいい?
俺を受け止めてくれる?



無理だよね・・・










 

1