春先、息吹に乗って発つ カーテンを開けると、家の梅の木が芽吹いていて桃色が春の朝を彩った。空から注ぐ光がまぶしくて目を細める。 部屋の隅に置かれたボストンバッグと、さっぱりと片付いた部屋。 ここ最近の、いつもの朝。 部屋を出て、階段の手すりに手をつく。足を踏み出す前に、すぐ隣の部屋のドアに目をやった。外から鳥の声が聞えてくるくらい、静かだった。 「おはよう」 「おはよう翼」 リビングに入ると父さんが新聞を片手にテーブルの奥に座っていて、母さんがいつものように朝食を用意してくれる。いつもの朝。 「今日2時の便だったか、見送りに行けなくてすまんな」 「いいよそんなの」 「必要なものがあったらすぐに言ってこいよ、送ってやるから」 「ありがと」 朝ごはんを食べはじめると父さんが仕事へ行く時間になって、母さんが玄関へ見送りに出て、ごはんを食べ終えると着替えてテレビの前で少しくつろぐ。 18年間繰り返した朝の風景。 住み慣れた家と、見慣れた部屋。 「翼、もういるものない?」 「ないよ」 「航空券はちゃんとある?お金は?」 「あるって。きのうも同じ事言ってたじゃん」 「行く前にもう一度確認しなさいよ、もしもの事があったら大変なんだから」 「わかったわかった」 うしろでなにやらパタパタと落ち着かない母さんが、今日までに散々聞き飽きたセリフをまた繰り返す。18年間見続けた、いつもの母さんの風景。 「も、こんな日に朝から講義だなんてねぇ」 「仕方ないよ」 「見送りにも行けないって言うじゃない、もうしばらく会えないって言うのに」 ただそこだけが、いつもと違う朝。 耳鳴りするほど、静かな朝。 昼になると、マサキたちが俺の家に来た。 家を出る時間になると、中学の頃の友達や高校の同級生なんかも集まってくれてた。 「お前ら学校は」 「何言ってんだよ、今更」 「サボってばっかで留年なんかすんなよ?」 「ああ、お前もしっかりもまれてこいよ」 「お前もな。代表落ちたら笑ってやるからな」 みんなに見送られて、車に乗り込んで、少々寂しさも引きずりながら笑って別れた。 寂しくなるわね、翼がいないともううちに集まる事もないものね。隣で運転する母さんが言った。 実はまだ、実感がない。今日この土地を離れるという事に。だから不思議と寂しさとか不安とか、そういうものに鈍感で、そう、何も考えていない、空っぽな感じだ。 ただ呆っと、窓の向こうの流れる景色を見ていた。みんなの笑った顔やちょっと寂しげな顔は印象的だったのに、俺の頭の中は、柔らかい髪の面影に囚われていた。 見慣れた景色が流れていく。もうしばらく帰って来れないこの土地に思い出がよぎる。 その景色のどこにも、俺の隣にいるのは、ばかりだ。 小さいラジオの音では誤魔化せないから、声は出さずに息を止めた 空港に着いて最後まで俺を見送る母さんとも別れて、搭乗時間までをソファに座って待った。深く被った大き目のキャスケットで、髪が頬に当たって痒い。ヒザに腕をついて、ひたすら床を見ていた。 人の歩く音と、スーツケースを引く音。 子供の笑い声と、搭乗アナウンスの音。 騒がしい雑踏と、飛行機が出発する風を切る音。 いろんなものがあったんだろうけど、全ては脳に届く前に消えていった。 もう何にも躊躇することはない ポタポタと、堅く握り合わせた両手の上に雫が降った。 ただひたすら、涙が伝った。 離れる事でしか、諦める術を見つけられなかった。たとえしつこく想ってしまったとしても、側にいなければもう、を傷つける事はないよ。 わかってる。死ぬほど寂しいだろう事。 でもそれは、俺にはちょうどいい罰なのかもしれない。離れて、思い出に囚われて泣いて、もがき苦しんでも、それでもいつの日か、この棘が和らぐときがくるのであれば、俺のこの想いも少しは救われるかもしれないね。 なんて重い罰だろうね。 「・・・」 バイバイ・・・ 俺の最愛の人。 スペイン行きの飛行機のアナウンスが流れた。 |