「どうしても駄目?少しも可能性ない?」
「ごめんなさい・・」
「・・・そっか」


やっぱりね。
そう、朝賀さんは笑ってため息をついた。そんな、優しい顔をしていても、心の中じゃこの人も、傷ついているんだろうか。


「本当に、ごめんなさい」
「いや、そんな謝られると、余計つらい」
「あ、ごめんなさい・・・」


また謝ってしまった私に朝賀さんは笑った。優しい笑顔。そう、この人はとても、優しい人。


「でも俺、椎名さんのこと諦められる気、全然しないんだ。だからさ、しつこいかもしれないけど、嫌なら嫌だって、もうはっきり言ってくれて構わないから」
「・・・」


もう、誰も傷つけたくない。そんな悲しみを隠した笑顔をしないで欲しい。
そんな何度も、私に人を傷つけさせないでほしいのに。


「遅くなっちゃったね、送って行こうか」
「いえ、大丈夫です」
「でももう電車ないでしょ」


サークルの飲み会の帰り。さっきまでうしろを歩いていたはずの友達たちは、いつの間にかいなくなっていた。


「俺車だから送ってくよ」
「車ですか?ああ、だからお酒全然飲んでなかったんですね」
「どうせ誰か俺に送り迎えたかってくるだろうと思ってたからさ。椎名さんも全然飲んでなかったね、お酒だめ?」


飲み会にどうしても、と誘われて来たけど、お酒はおいしいと思ったことがない。そんなこと飲み会の席で言ったら空気を悪くしてしまうから飲めないことにしている。

帰りの車内で話題づくりのためにそれを白状したら、朝賀さんは「椎名さんらしいな」と言った。

私らしい。

昔からそうだった。教えられたことはきちんと守って、与えられたことはきちんとこなして、卒のない、絵に描いたような優等生。悪事への多少の憧れとか人目を気にせずに前へ出るとか、学校をサボるとか、したことない。できない。私は、つまらない人間だ。

特に自分で通す思いもなくて。ただ用意された道に不満も疑問もなく歩いてきただけで。だから時に、テストで低い点をとっても笑い飛ばせる子や授業中に堂々と遅刻してくる子がうらやましかったりして、でも、怖くてそんなこと、できなかった。

高い高いところに目標をおいて、自分をそこまで奮い立たせて導く。
そんな人が、まぶしくて、そんな人になりたかった。

決してこの人は嫌いじゃない。
むしろ、付き合うならこんな人がいいとさえ思える。
なのに好意を示してくれている彼を受け入れられないのは、彼のせいじゃない。
私のせいだ。私が踏み出せないからだ。


車内に静かに流れていたラジオにニュースが流れて、Jリーグの速報を流していた。その音に反応して耳を澄せていると、朝賀さんが音量を上げてくれた。


「サッカー好きなの?」
「はい、弟がサッカーやってるので」
「弟いるんだ、いくつ?」
「今高校3年生です」
「へぇ、高校選手権とか行ってるの?」
「はい。去年も都大会で決勝まで行ったんですよ。1年生のときも、ひとりだけレギュラー獲って」
「へぇ、結構すごい選手なんだ?」
「すごいんです。代表とか、選抜とかにも選ばれてて、すごくがんばってるんですよ」


そんな家族自慢を、恥ずかしげもなく披露する私に、朝賀さんはくすっと笑った。何か変なこと言ったかと思い出してみるけど特にこれといって思い当たらない。


「いや、今日で一番いい顔したからさ。弟好きなんだね」
「・・・」


好き・・・


「はい・・・」


好き、というか、大事と言うか、とにかくかけがえのないもの。
弟だもの。家族だもの。誰だってそうでしょ?

そう思っていた。
それが当たり前だと、思っていた。


家について、お礼を言って車を降りた。リビングの明かりがついてる、きっと心配性なお母さんが待ってくれているんだ。


「椎名さん、また誘ってもいい?みんなと一緒でいいから」


こんな立派な人でも、やっぱり人と関わるときはおびえるんだ。控えめに私を見て、ドキドキと答えを待つ。


「・・・はい」


ぱ、と表情を明るくして、彼は笑ったまるで、アイスの棒に当たりの文字を見つけた。幼い子供のよう。

じゃあまたあした、と帰っていく彼を見えなくなるまで見送った。深い付き合いを断っておきながら次の誘いを受け入れるなんて、優柔不断な嫌な女。夜空の、少し雲がかった北斗七星を見上げてうしろめたい気持ちになった。

星からふいと目を離して、門を閉めて玄関に歩いていくと、ふと、明かりが漏れていた2階の窓を見上げた。暗い世界から明るい窓の中ははっきり見えたけど、カーテンの隙間から覗く人影は誰だかはっきりわかったけど、その、暗い表情までは見えなかった。

ただ少し、目のあたりが星に反射してきらり、光った気がした。そして、ふいっと人影は部屋の中へ戻っていって、カーテンが部屋の明かりを閉ざした。


「ただいま」
「おかえり、遅かったわね」


リビングではやっぱりお母さんが起きて待っていた。帰ってきた娘に安心してすぐに眠気が襲ってたお母さんはすぐに寝室へ入っていった。私もそんなに夜に強くないから、もう眠い。

そこに、ガチャっとリビングのドアを開ける音がして、振り返った。

入ってきたのは翼で、目が合って少しドキッとした。翼が夜の帳のように静かに暗く、私を見据えていたから。その大きな瞳の中に映る私は、まるで籠の中の鳥のように思えた。

汚らわしい何かを見ているような、見下しているような、
私の知らない目―


「・・翼、まだ起きてたの?」


私は、それに気付いてないように笑った。
違う。笑ったフリをして、翼の瞳から目をそらした。
そんな私から、翼もすぐに目を逸らして、キッチンに入っていく。


ここ最近の翼は、随分と変わってしまった。最初は反抗期かと思って仕方なく受け止めていたけど、両親や玲さんへの態度は変わらず、その嫌悪にも似た拒絶は私にだけ向けられているのだと気付いた。

私が何かしたのか、生理的なものなのか、わからない。
ただ、翼は酷く苦しそうにも見えた。


「あれ、誰」
「え?」


翼から声をかけてきたのは、いつ振りだろう。


「あれって?ああ、送ってくれた人?」


キッチンでコップに水を入れる翼は、返事はしなかった。
大学の先輩よ。電車なかったから送ってくれて、・・・
私の言うことを聞いているようないないような顔で、キッチンの薬が入ってる戸棚をガサガサ漁って何かを探している。


「何探してるの?」
「頭痛薬」
「頭痛いの?」


翼が普通に会話をしてくれて少しほっとした。私もキッチンに入って、久しぶりに近くで翼を見た。少し前まで同じくらいだった翼の身長は、いつの間にか少しだけ私より上になっていた。

男の子だもんね。どんどん大きくなるよね。
久々の翼に思わず笑みがこぼれた。


「熱は?」
「測ってない」
「風邪かな。よく遅くまで電気ついてるけど、あんまり夜更かししちゃ駄目よ」


がさがさ、がさがさ、ぶっきらぼうな手つきで戸棚を漁る。


「一回熱測ったら?」


そう戸棚の中の体温計を取った。そのとき、戸棚の中で翼の手にふと手が当たると、翼はバッと手を引いて、その手が当たって引き出しをガタンと床に落としてしまった。夜の静けさに響いた大きな音と、あまりに強く手を引いた翼に驚いた。

唇を強く噛んで、私から逃げるように翼が離れて、

どうしたの?
頭の中で、笑って聞いた。
へんなの。
笑っていた。頭の中では、昔どおりに。

でもその、完璧に私を拒否する空気と、翼の嫌悪する表情がずしんと心に重く響いて、不意に悲しみが胸をしめつけて、私は、こみ上げる涙を堪えられなかった。


「な、・・・」


強く憎むようだった翼の目が、がらりと変わった。私の涙を見てすっかり気持ちを落としてしまったように翼は弱々しく、噛み締めていた唇を解く。


「どうして?」
「・・・え、」
「あたし、何かした・・?」


押さえつける手の中から、私も小さく弱く声をふり絞る。
止められない悲壮がパラパラ床に落ちていく。


「・・・やめて、泣くなんて、やめてよっ・・・」


翼の苦しい声に、目を上げた。口の中でかみ締めて、顔を歪める翼が堪えるように強く自分に力を込めて、それでふと、私を見て、少し、私に近づいた。

そっと、涙が通り過ぎた頬に触れる翼の指は、小さく震えていた。


「・・・っ」


震える手で私の頬に触れ、手首を掴む翼の手は、 私が知っているそれよりもずっと大きかった。それもそのはず。一緒に手を繋いでいたのなんてもう、何年前のことか。

ぷつりと何かが切れたように翼は、私との間にあった空気を踏みつけ、傍まで近寄って私の腕を掴んだまま、私に頭を倒した。押し付けた、というほうが正しいか。

翼のつんとはねた髪が顔に当たって、それでも私の手を握る力強い震える手を、苦しそうな翼を、押し離すことなんて出来なかった。


「翼・・・?」


そう、つぶやいた瞬間、翼は自分の行動を自覚しバッと頭を上げて、私を押し離すように手を離した。言葉にならない声をもらす翼は酷く怯えた目で私を見つめ、床に散らばる薬を蹴散らしてリビングを出ていった。バタバタと階段を上がって、ばん!と部屋のドアを閉める音が響く。


「・・・」


翼のあんな顔。あんな怯えたような目で私を見るなんて。
翼が力強く握っていた手首にまだ、翼の振動が残っていた。


何かあったのかな。また何か、悩んでるのかな。
普通ならそう、心配するべきだったかもしれない。

でもその時私は、気付いてしまったんだ。


翼が酷く私を拒絶していた、ひた隠しにしてきただろうその、

開けてはいけない、感情に。












 
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