Will













あんなにも苦しげな翼の顔を見たのは、初めてだった。
小さい頃から自信家で、それ以上に努力家で、諦めるということを知らなくて、できなくても何回も繰り返して、でもそれを人に見られるのは嫌いで・・・。


、見て!


そう、成し遂げたことを得意げに披露するときの、あのうれしそうな誇らしげな顔。
翼が一番輝いて見える瞬間だった。


その背中には、本当に、大きな翼が見えた。
雄大な空に輝く翼をはためかせる、その姿が目に見えたんだ。

翼が自由に飛び回ること。
それは私の喜びであり、願いであり、幸せだった。

私が歩く後ろをとことこついて歩いて、私が泣くと心配気に見上げて、小さな体でぎゅっと抱きしめて、私が笑うと「何笑ってるの?」と一緒に共有したがって。

私はそんな翼が大事で、大好きだった。


翼は大きくなるにつれて、私を「お姉ちゃん」ではなく、と呼んだ。器用な翼は不器用な私を何度も助け、母は冗談交じりに「どっちが年上かわからないわね」なんて言って、そうしてるうちに、翼の中で私が”姉”という範疇から、ずれていったのかもしれない。

昔から私はプライドだとか対抗意識だとかにいまいち欠けた人格で、翼のそれは嫌ではなかったし、しょうがないなぁと小さな腕を組んでため息を混ぜる翼をかわいいとさえ思っていた。

翼は人より少し体格的な成長が遅くて、本人はこの上なくそれをコンプレックスとしていて、それは私も十分に理解していて、でも、翼は私が思っていたよりもずっと、精神的な成長が著しかった。
それを私は、わかっていながら、わかりきっていなかった。

私の中で翼は、いつまでも少し低い位置からその大きな目を覗かせる、かわいい弟、に他ならなかったから。




冬も近づいた秋過ぎの季節。家に近づくにつれて無意識的に鈍くなる歩調。それでも歩いていれば必然と家に着いて、足を止めて明かりが漏れている家を見つめる。それが最近の癖となってしまっていた。

翼が、もう小さくない手で私に触れ、いつの間にかしっかりとしていた体で私を抱き、その、昔ほど低くない声で私の名前を呼び、今までしきりに封じ込めていただろう言葉を私に漏らしたあの、時。

私は、翼に、何も言ってあげることができなかった。

頭の中ではいろんな言葉が飛び交って、あらゆる気持ちが渦巻いて、しきりに思いを抑えようと苦しむ翼に、何か言ってあげたかったのに、それはどうしても言葉としてこの口から発することができなくて、何も言えなかった。


あの勘の鋭い翼がまさか、それに気がつかないはずもなかった。
翼は視野が広く、人の気持ちを読むのがうまく、そして何より・・・

ずっとあの、まっすぐで大きな目で、私を見ていたのだから。


「ただいま」


冷える外からあたたかい家の中に入って声をかけると、リビングのドアがガチャと開いた。私はそれに少しドキッとして、でも出てきたのはお母さんで、ほっと、心を落ち着けた。

そんな自分に、ずしりと襲う、罪悪感。


「おかえり
「ただいま。お父さんもう帰ってるの?早いんだね」


靴を脱ぎながら、玄関にあるお父さんの靴が目に入った。
その隣には、翼の、大きな運動靴。


「今ね、翼とお父さんが話してるのよ。あなたも来なさい」
「話?なんの?」


そう聞き返すと、お母さんの後ろのドアがまた開いて、今度は翼が姿を見せた。
お母さんを通り越して、パチリ、目が合う。


「おかえり」


つい、笑うことを忘れていた私に翼はほのかに笑いかけて、普段どおりにそう言った。晴れ晴れと笑う昔のままの笑顔ではなかったけど、翼の穏やかな顔を見たのは、いつ振りだっただろう。そんな翼に私は、とても自然には出なかった笑顔を出して、ただいま、というだけで精一杯だった。


「俺先風呂入るね」
「もう終わったの?」
「うん」


翼は不思議なほど普段どおり、いや、昔に戻ったようにお母さんと自然に話して階段を上がっていった。いや、母にとったらそれはいつもどおりだった。翼は目立った反抗期もなく、心配性な母とはうまくやっていた。

私にだけだ。
あんなにも拒絶していたのは。


、お母さんどうしよう」
「なにが?」
「翼がね、スペインに行きたいんですって」
「・・・」


スペイン・・・


「日本でだってプロのスカウト来てるのに、どうしても海外でやりたいんだって。玲も賛成してるからって」
「・・・そう」
「海外なんて、いくらなんでも急過ぎるじゃない。なのに翼ったらもう話進めてるらしくて、お母さんそんなの聞いてなかったから」
「・・・でも、翼がそのほうがいいって言うんだから」
「お父さんもそう言うのよ。でもお母さんもう心配で、」
「翼はしっかりしてるよ。どこでもちゃんとやっていけるよ」
「そうだけど・・・。ああーもう、なんで日本じゃ駄目なのかしら。玲も玲よ、私に何も言わずに翼に協力して・・・」


お母さんは延々、一人息子の突然の海外行きに心配してただおろおろするばかりだった。


「・・・」


今になって、突然海外でサッカーをしたいと言い出した翼。それは前々から考えていたことかもしれないし、向上心の強い翼のことを考えれば、驚くことであっても、ちっとも不思議なことではない。

でもそれが、今だということに、私の胸中にまたじわり、淀んだ重みが広がった。






階段を上がってすぐの部屋のドアを開けると、少し広めの、いつもの部屋が広がる。昔は私と翼ふたりの部屋で、いつも一緒に寝ていた。せがむ翼に何度も絵本を読んで聞かせたり、押入れが怖いという私の傍で翼がずっと大丈夫だと強く言ってなだめたり、お母さんに隠れてこっそり遅くまでふとんの中で起きていたり。幼い私たちがまだこの部屋のところどころに垣間見れる。

パタンとドアを閉めると、そのすぐ後にガチャリとドアが開く音がした。きしっと静かに小さく、廊下を歩いてくる音がする。





背にしたドアの向こうからそっと、翼の声がして、振り返った。
ドア一枚挟んだすぐそこから聞こえた、翼の声。

少し騒ぐ胸を押さえつつ、私は今まで必ず、翼が呼べばいつでもドアを開けてきた。だから、ドアに手を伸ばした。


「いいよ、開けなくて」
「・・・」


ドアノブが小さくカチャリと動いたのを、ドアの向こうで翼が止めた。


「俺、決めたから」


薄い境を隔てても、翼の空気を感じる。


「・・行くの?」
「うん」
「前から、決めてたことなの?」
「・・・」


このドアの向こうで翼が、どんな顔をしているのか。
今の翼が今の私と、どんな気持ちで相対しているのか。

このドアを開けたいというのは、私の我侭・・・?


「うん」
「・・・」


きゅ、と、胸が締まる。


「俺、ほんとに、このままじゃ何にも身に入らないからさ、ちょうどいいと思うんだよ」
「でも・・・」
のせいじゃないからね。ちゃんと、自分のために考えて決めたことだから」
「・・・」


カタ・・・
ドアが揺れる。


には、悩ませただけかもしれないけど、俺、今すごいほっとしてる。やっぱりだった。俺、絶対拒絶されるって、嫌われるって、勝手に悪いほうばっか頭いってたけど、でもやっぱりは、で、そんなことなかったから、・・・・・・ありがと」
「ちが・・」


違う。私は何も言い返せなかっただけ。
苦しむ翼に、それでも何も言ってあげられなかったから、黙っているしか出来なかっただけ。傷つけないよう、壊してしまわないよう、でも答えは考えないようにして、気づかない振りをして、


「俺、もう言わないから。家出て、次帰ってくるときはちゃんと元に戻ってるからさ・・・、だから、」


逃げていただけ・・・


「最後に、もう一回だけ、言わせて・・・」
「・・・」
、・・・好き・・・」


つ、と、感情が鼻を刺した。


「ずっと好きだった。大好きだった・・・。だけだ、こんなに、痛いくらい好きだと思ったのは・・・」
「・・・」
「ごめん・・・。ほんとに、どうしようもないくらい、がすきだよ・・・」
「・・・」


この、消え入りそうな翼を、私はどうすればよかったのだろう。

もう最後だからと、気持ちに区切りをつけるように、蓋をするように、何度も何度も好きだと繰り返すその大きすぎる思いを、積もり積もった想いを、どうすれば、救ってあげることができたのだろう。

せめてもの境界線として、最後のドアを精一杯閉ざし、開けたくて、開けれなくて、それでも開けたくて、・・・。カタカタと震えるドアの向こうで、大事な大事な翼が苦しんでいる顔が目に見えるほどわかるのに、やっぱり私は翼を拒否することも、受け入れることもできない。

だから結果的に残ったのは、何もしてあげられなかったという、一番最低な答えだけだった。


ドア一枚を挟んで、私はひたすら、願うことしかできなかった。

いつか時が、この深く、痛い気持ちをやわらげ、私たちにまた、昔のようなあたたかい風が吹き込むまで、どうかもう、翼が悲しむことのないように。

どうか、どうか、この白く大きな翼にもう、傷がつくことのないように。

消えてしまうことのないように・・・。




ごめんね、翼・・・















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