窓の外はもう真っ暗で、廊下も薄暗くて、耳鳴りがするくらい静かな病院内。 看護婦さんの足音だけがせわしなく聞こえていた。 「一馬!」 廊下の静寂を壊す足音が近づいてきて、英士と結人が俺を見つけて駆け寄ってきた。子供が産まれそうだと連絡したら飛んできてくれた。俺はとても落ち着かなくて、待合室に座ってる両親たちから離れて、分娩室前の廊下を行ったり来たりしていた。 「ちゃんはまだ?」 「うん、まだ」 「そっか」 が分娩室に入って4時間が経っていた。の両親も俺の両親も駆けつけて、待合室のソファで一言も話さずに祈るように待っていた。夜が深くなっていく春前の病院は、腕時計の針の音が聞こえてきそうなくらい静か。不安ばかりがそこかしらに見えそうな。 「しっかりしなさい、はがんばってるんだから・・・」 ふと、待合室のほうからそんな声が聞こえてきた。のお父さんの声だった。どうやらお母さんが緊迫した空気に耐えられなくなってしまい、待合室を覗きに行くとお母さんは顔を手で覆ってうなだれていた。1秒1秒がおかしいくらいに長く感じるんだ。耐えられなくなるのも無理ない。 「お義母さん」 俺は自販機で缶コーヒーを買って、それをお母さんに差し出した。 お母さんはそっと俺に目を向けてくれる。 「大丈夫ですよ、もうすぐ出てきますよ」 「一馬くん・・・」 お母さんの顔色が悪いのは、暗い中での電気のせいじゃない。 お母さんは息をのみこんで表情を整えると俺の手から缶を受け取った。 俺はもうひとつを隣にいるお父さんに差し出し、少し離れた所にいる俺の両親にもなにか飲むかと聞いたけど、いいよと父さんが笑って答えた。 俺はもう一度自販機の前に立ち、紅茶のボタンを押して待合室を出た。 「森野」 分娩室の前の廊下の壁に、膝を抱える森野が小さく座り込んでいる。 俺が声をかけると森野は膝に伏せていた顔を上げて、茶色い髪の間から俺を見た。 「大丈夫か?」 床に缶を置きながら隣にしゃがむと、森野は何かしゃべりかけて、でもうまく声が出なかったみたいで一度せき込んで、カッコつけんなバカといつも通り悪態ついた。 「長いな」 「ああ」 「大変だな」 「ああ」 英士も結人も俺たちと同じところにきてしゃがみ込む。 人の声や足音がまるで、テレビを見てるみたいに人事に思えてくる。 何もない、ただ待つだけのこんな長い時間を過ごしたのは初めてで。 「もうここに入ってどのくらい?」 「5時間・・・くらい?」 「陣痛始まったのもうきのうじゃん」 「うん」 「子供産むのって、大変なんだな」 「うん・・・」 ただあの中でがんばっていると、生まれてくる子供の無事を祈るだけ。 父親なんて、なんて無力なんだ・・・ 「・・・真田」 「ん?」 目の前のドアから聞こえてくる騒がしい声に耳を寄せながら、森野の言葉を聞いた。 「のこと大事にしてね」 「・・・どーしたんだよ」 俺に頼み事なんて、お前らしくもない。 「のこと傷つけないでね・・・。もうから何も取らないでね・・・」 「ああ」 「約束破ったら・・・コロスぞこのやろう」 「うん」 俺は笑った。 涙を落としていること以外、いつもの森野だ。 ・・・、大事な森野が泣いてるぞ。 お前の大好きな、森野が泣いてるぞ・・・。 早く出てきて、なぐさめてやれよ・・・ それからまた数時間が経った。 もう何時なのかも、何時間経ったのかもよくわからなくなって。 時間が経てば経つほど不安は募ってきて、今まであったこととか思ったことがどんどん思い出されるんだ。 産もうと決めた時の抱き合った強さとか 不安で泣き出すお前に夜中に呼び出された時とか お前の不安を晴らしきれない悔しさとか 日に日にまだ早い子供用品を買いためる両親とか 本当の親みたいに俺を叱ってくれるお前の両親とか お前にも両親にも吐き出せない俺の不安を拾ってくれた英士の手とか お前が病院に行ったと言うだけで胃を痛めちゃう結人とか おなかを撫ぜて語りかけるお前の顔とか あと何日、あと何日・・・ そうやって、この10ヶ月を過ごしてきたよな・・・。 「一馬・・・?」 気づかないうちに小さく手を震わせる俺に英士が声をかけた。 強がってみても、やっぱり不安が大きくて、怖くて・・・。 、早く帰ってきて・・・ がんばれ・・・ がんばれ・・・ 何万回も祈った・・・ --- 目の前のドアが開く音がして顔を上げると、眩しい光が俺たちを照らした。 そのドアの奥からあの、小さな泣き声が響いてきた。 分娩室から人が出てきて、俺たちに笑顔を向ける。 「生まれましたよ、男のお子さんです」 「・・・」 俺たちは立ち上がってその人に駆け寄った。 親たちも声を聞きつけて待合室から走ってくる。 「あの、は・・・?」 「お母さんも大丈夫ですよ、がんばりましたね」 「あ・・・、会えますか・・・」 「少しですけどどうぞ」 その人は分娩室の中へ入れてくれようとするけど、俺はそこから動けなかった。 「・・・」 「一馬」 「一馬!」 「あ、ああ・・・」 泣き声が響いてる。隣の英士が俺の肩を掴んで、結人がバンと背中を叩いて。 奥から声が聞こえてるのに、満面に喜べなかった。すぐにでも駆けつけたいのに足が動かなくて、が心配でたまらないのに今なぜかに会うのが怖くて、目の前が・・・、真っ赤になって・・・ 「一馬・・・!」 抱きしめてくる英士と結人の力の強さで現実を理解した。 生まれた・・・ 男の子・・・、無事に生まれた・・・ 子供の泣き声が耳に残って、今まで散々我慢してきた熱い涙がこぼれた。 不安から解き放たれた俺は膝を崩してその場にしゃがみ込んでしまって、二人に抱きしめられながら泣き続けた。 「・・・」 お母さんたちの声を聞いて俺はやっと顔を上げ、分娩室に入った。 「、大丈夫か・・・?」 「一馬・・・」 ぐっしょり汗に濡れたは、閉じていた目をうっすらと開けた。 そこに白い布に包まれた小さな赤ちゃんが運ばれてきて、の傍らで見せてくれる。 「大丈夫ですよ、赤ちゃんに心配ありませんからね。今もう眠ってますよ、がんばりましたね」 「・・・」 はその言葉に安堵の息をこぼし、真っ赤な顔の赤ちゃんに笑った。 「男の子だって」 「うん・・・、お前が絶対男の子だって言ってた通りだ」 「でしょ」 小さなその子がちゃんと動いてる。目も口も指もこんなにちっちゃいのに、ちゃんと息をして瞼を閉じて口を動かしている。 こんなことって、こんなことって・・・。 --- 「ありがとうな、遅くまで」 「何言ってんだよ」 うっすらと日が昇ろうかとする時間に、英士と結人を見送って外に出た。 結局一晩かかってしまった出産に付き合ってくれて、一緒に耐えてくれて、喜んでくれた。言いたいことはいっぱいあるけど、もう、何も言う事ないよな・・・。俺とお前らの仲じゃんか、今まで何度そう言い合ってきた事か。 病室に戻ると、母さんたちも一度家に戻ると言い出し、俺も一緒に帰るかと言われたが、俺は残ることにした。だって、いつが目を覚ますか分からないから、が目を覚ますときは目の前にいてやりたいじゃんか。一番最初に会いたいじゃんか。 眠ってるのすぐ傍で、俺は洗面器の中のタオルを絞っての顔や腕を拭いていた。汗は引いたけど、ベタベタするのが嫌いなは、きっと目を覚ましたらすぐお風呂に入りたいって言うだろうな。数ヶ月おなかの重みに耐えて、2日も陣痛に耐えて、母親になっていくお前を見てて、なんて力強かったことか。 「すげぇな、お前は」 眠ってるを見つめて笑った。 「俺もがんばらなきゃな」 片時も離れず、が目を覚ますのを待った。 お前の不安、ひとつ残らず俺がぬぐってやりたい。 お前の喜びは、いつでも俺が守ってやりたい。 お前が幸せだと感じる源に、いたい。 お前がいるなら俺は何だって出来そうな気がするんだ。 子供じみた思い込みで、馬鹿にされるかもしれないけど、俺はそう信じてる。 だから、いつまでも俺の側にいてくれよ・・・ お前がいるから俺がいて、俺がいるからお前がいる。 本当に今、そう思うんだ。 俺たちそうやって今までを一緒に過ごしてきた。 これからいろんな事があっても、今日の幸せを確かめ合おう。 これからの道にお前がいるだけで、全部が幸せになるんだ。 だからいつまでも、 「幸せになろうな」 いつまでも、僕の隣にいすわって |