ひとめぼれじゃ、なかった。
一瞬で焼きつき焦がれたような、衝撃があったわけじゃない。

冷たい廊下の先から聴こえてきた、深い音。
音に惹かれてドアに近づいていった。
最初はピアノのCDでも流れてるのかと思った。

覗いた音楽室のドアの窓の中には、大きな黒いピアノがあった。
その向こうに誰かの頭が見えたけど、顔は見えなかった。


「何してんの?」


その音に気をとられていると、うしろから声がして俺はすぐに振り返った。
そこにいたのは見覚えのある女子。1年の時に同じクラスだった。
確か、森野・・・だったか。

いや、なんでもない。声を落ちつけてそれだけ言って、すぐ音楽室から離れた。
森野は去っていった俺をしばらく見てたようだけど、そのまま音楽室に入っていった。すると中から聞こえていた音がプツリと途絶えて、やっぱりあの音は誰かが弾いてたんだと振り向き足を止めた。

しばらくするとまた、あのピアノの音が流れ始める。
ああ、やっぱりなんだか、深い音。

あのピアノの、向こうにあった黒髪の頭。
あれは、誰だろう・・・。




はじまりオン




さっむー!
白い息と一緒に大声張り上げる結人が腕をさすりながら足をバタバタさせる。


「もー早くゲームやろーよ!寒くて動けなくなるっつーの!」
「寒いならたっぷり走りこみさせてあげるわよ」
「げ、監督!」


文句垂れる結人のうしろを通った監督がにこりと微笑んで通り過ぎて行った。
韓国への遠征を間近に控え、選抜での練習が増えてきたこの頃。
俺たちは休日も返上でグラウンドに集まる。


「韓国かー楽しみだなぁー。英士、ユンと連絡とった?」
「いや」
「なんだよ、とってないの?」
「そのうち向こうがかけてくるんじゃない」
「かかってこなかったら・・・、もしやユンがソウル選抜にいないとか?」
「バカ、あいつがいないわけないよ」
「いなかったら大いに笑ってやるよね」
「はは、だなー!」


チームは少しずつ形になってきて、高校生相手でも勝てるくらいに纏まってきた。
ついには韓国のソウル選抜と親善試合が出来るまでにたどり着いた。
ロッサにいた頃、誰よりもずば抜けてうまかった潤慶。
もっとうまくなってんだろうな。


「最近ミニゲーム多いよな、韓国戦のレギュラー決めってとこか」
「だろうな」
「あっちも寒いんだろーな、雪とかも考えとかないとな」


長年、日本のライバルと言われてきた国。何より、潤慶のいる韓国。
絶対試合に出たい。



あのピアノを知ってから、昼休みになると音楽室に足を向けてる。
校舎の3階の、最奥にある音楽室。
その音楽室の、少し手前にある階段の壁にもたれて、届くその音を聴いている。
それがとても心地よくて、毎日ここに通ってしまっていた。
気持ちが焦っている時も、落ち込んでいる時も、その音は全部をふと軽くさせてくれる。

その日もいつものように、気がつけば特等席の階段で音に耳を寄せていた。
流れていた音楽が静かに消えていって、もう終わりかと遠くから意識を覚ます。
冬の廊下はさすがに寒く、腰が冷え固まって背筋を伸ばすのも痛かった。
腕の時計を見るとまだ昼休みが終わるまでには時間があった。
こんな時間に演奏が止まるのも珍しい。しかもなんだか、途中らしかったし。

いつもなら昼休みが終わるチャイムが鳴ると同時に演奏が終わり、音楽室からまだ誰か知らない演奏者が出てくる前に立ち去っていた。そこで待っていれば、中から出てくるのが誰か分かったんだろうけど、誰だか知りたいようで、知りたくなかった。

だけどその日は、演奏が途中で止まりその後ガチャンとドアが開く音がして、パタパタとこっちに走ってくる足音が聞こえたんだ。俺は焦って立ち上がり、近づいてくる足音にどうしようかと足を迷わせた。

上ることも下りることも出来ず段の途中でただ焦っていると、どんどん近付いてくる足音はとうとう角からその姿を現して、階段を駆け下りてきた。

それはやっぱり、女の子だった。手には携帯電話を持っていて、その画面を見ながら走っていたものだからそこにいた俺に気づくのが半テンポ遅れ、立ち止まってた俺を見て急ぎ足を止める。だけどそこは階段の途中だったから反応と同時にしっかりと止まることが出来ず、その子は勢いでバランスを崩し段から落ちそうになった。


「きゃっ・・・」


小さな悲鳴と同時に階段から足を踏み外すその子に俺は反射的に手を出し腕を掴んで、一緒に落ちてしまわないようないよう力を込めて踏ん張った。
その子の手から楽譜がバラバラと階段下へ落ちていき、勢いと重みに押されかけたけど、何とか楽譜同様落ちることは免れて、俺も、焦って俺の制服を掴んでいたその子も、はぁとひとつ息を吐いた。


「ごめんなさい・・!」


焦った心を落ち着けるより先にすぐに俺から離れ、その子は深く頭を下げた。
俺はといえば、まだ心臓がドキドキいいながらも、いや、としか言えず、また一度本当にごめんなさいと謝ったその子が俺の横を通り過ぎるのを風で感じた。
無事にパタパタと階段を下りていったその子は、散らばった楽譜を拾い集める。
俺はそれを手伝うこともせずにその子を見下ろしていて、拾い終えたその子が俺に振り返り最後にまた頭を下げ去っていくのを、ただ見ていた。

去っていく足音が完璧に聞こえなくなったところで、あれ、なんで俺拾うの手伝わなかったんだと自分で気づき焦った。咄嗟に助ける腕は出たものの、拾わなきゃという思考を働かせての行動は遅かった。

今の子、かな。あのピアノを弾いているのは。
顔はなんとなく見覚えがあった。同じ学年だと思う。
名前は、分からないけど。

俺の口くらいの位置に目があった。
大げさに謝罪するわけでもなく、特別笑うこともせず、余所余所しく頭を下げていなくなった。

・・・あの子、なのかな。


それからたびたび、同じ学年の教室が並ぶ廊下でその子を見かけては目で追った。
周りを騒がしい女友達に囲まれていながら、一人静かに存在してる、大人しい雰囲気だった。

背筋をはっきり伸ばすわけでもなく、地面を見つめて歩くわけでもなく。
あるがままの場所を見て、あるがままに動いて。
空気の動きに流されずに、適度に人に気を使って、大きな振る舞いは見せず。
細やかな視線を配り、些細なものに気づく。

一人であることを恐れない。
何か、大事なものを持っている。

そんな感じを覚えた。


ー!」


廊下で、前を歩くあの子の背中を見ながら歩いていると、俺の横を茶色い髪をなびかせる女子があの子に駆けていって抱きついた。
森野だ。最初に音楽室を覗いた時に、会った女。


お願い!英語のノート貸して!」
「また?」
「今日当てられる気すんのー。だって今日27日じゃん?」
「千秋27番だもんね」
「そーなの!お願い貸してー!!」


手を合わせ懇願する森野は、誰かと被って見えた。
あの茶髪といいテンションといい口調といい、誰かそっくりだ。


「キャッツのチョコパ!」
「違うなぁ」
「京月堂のチョコケーキ!」
「うーん・・・」
「プラスわたあめ!」


物でつり始めた森野に、その子は仕方ないといった感じで笑った。
のるんだ、と、通り過ぎた時に思わず笑ってしまったのを手で隠した。

森野と話す彼女は、他の誰と話す時よりも自然に見えた。
タイプは全然違うのに、仲がいいようだ。とても落ち着いた笑い方をしていた。
どちらかといえば無表情が目立つあの子も、仲のいい友達にはあんなにも自然に心を開く。

・・・

そう呼ばれていた。


それからしばらくが経った真冬の日、俺たちは韓国へ旅立った。
あっちも真冬で寒く、久しぶりに潤慶とも会い、異様な空気の中で試合が始まった。

でも俺は出れなかった。
体格のいい韓国に対抗できるフィジカルを持つ鳴海、テクニックがずば抜けてる藤代が出て、途中からは風祭も出て、・・・けど俺は、体を温めただけで終わった。


「・・・」


遠征が終わり日本に戻ってきて、俺はいつもの特等席で、あの音を聞いていた。
なぜだか、今日の音は少し荒れているように聞こえる。
それは俺が、いつも以上に不安定に揺れているからだろうか。

なんでろう、彼女のピアノは、ただ俺を慰めない。
責め立てられているような、叱咤されているような、強く背中を叩かれているような感覚すら覚える。

痛感する。


「真田」
「あ、はい」


その日の授業が終わって帰ろうとした時、担任の先生に呼び止められた。


「1組の教室だから、忘れず行けよ」
「・・・。はい」


言われても何のことかすぐには理解できず、間を空けた後でパッと思い出して答えた。韓国に行っていた間、学校では3学期の中間テストが行われていて、俺は最後のテストだけ受けれなかったんだ。

それを今日の放課後に受ける予定だったのをすっかり忘れていた。
ヤバい、勉強してない。

誰もいない1組の教室で、悪あがきに教科書を開いていた。
理科と英語。


「ダメだ、英語は捨てよ」


並ぶ英文に目を閉じて、教科書を理科に変えた。
記号を呟きながら頭に押し込んで、実験の工程を覚えなおして。
すると、教室のドアがガラっと開いて俺はもう先生が来たのかと目を上げた。

だけどそこに見えたのは、あの子で、途端に頭に入れた実験結果が丸ごと抜け落ちた。
あの子はまた、ギリギリ分かるくらいにだけ頭を下げて、教卓の正面の席にカバンを下ろし座った。


「お、二人とも来てるな。じゃあ理科からはじめるぞ」


その後すぐに入ってきた先生は淀みなく俺とその子にテストを配り、その子は受け取った紙を見つめ右上にさらっとシャーペンを走らせた。あの子も、テストを受けてなかったのかな。


「・・・」


テスト中はもちろん静かだった。
窓の外では部活動の声が響いてて、廊下では話し声や走っていく音が聞こえる。
それ以外は俺と、3つ隣の席のあの子の、カリカリ滑るペンの音だけが響いていた。

あの子のペンはスラスラ、動いたり止まったりしてどんどん紙を滑っていく。
だけど、俺はなんだか思うとおりにペンを動かせない。
問題が分からない、わけじゃなく、なんだか右側がヘンにじれて、気になって、テストの問題に集中出来なかった。

チリチリと刺すような刺激を右半分に感じる。
隣のペンがスラスラと動いているのを、横目で小さく見る。
机に頬杖ついた彼女はただ、テスト用紙にまっすぐ目を落としている。
静かな放課後の校舎で、俺は自分の胸の音があの子や先生に聞こえてしまうんじゃないかと心配になって、ずっと心臓を押さえていた。

覚えたての理科の後には英語のテストが配られて、そっちはまるで敵わず半分勘で紙を埋めた。あの子は理科と変わらず淀みなくペンを動かしている。きっと、ちゃんと勉強してきたんだろう。

心配ながらに全部の解答欄を埋めて、ペンを置き予定の時間が来るのを静かにまった。すぐ左の窓から見えるグラウンドには、サッカー部がボールを蹴っているのが見える。うちのサッカー部はそう強くないらしいから、見ていて拙いボール捌きにもどかしさを感じた。

うわ、そこはパスだろ。
ボール貰いにいってやれよ、困ってんじゃん。
守りが全然なってねーな、結人ならあんなの余裕で止めれんのに。
こんなサッカーしてたらすぐ腕が落ちそうだ。
ああ、またボールこぼした、ヘッタクソ・・・

そっと見ていたはずなのに、いつの間にか一生懸命になってしまっていて、俺はこぼれるボールに合わせてつい脚を動かし、机をガンと蹴ってしまった。教室にその音が響いて、あの子も先生も俺のほうを見た。すんませんとすぐに謝ると、あの子も静かにテストに目を戻した。

しまった。はずかしい・・・。
おとなしく終わるのを待とうとすると、彼女も書き終えたのかペンを静かに置いた。
勉強できそうだよなぁ、ずっと答え書いてたもんな。
完璧に静かになった教室で、残り時間を持て余していると、小さくコツっという小さな音を拾って、そのほうへ目を向けた。

その音は、3つ隣の机の上に置かれた、あの子の指が机を叩いた音だった。
彼女の指はまるで踊ってるように動き、軽やかに板を叩いて跳ね動く。
茶色い真っ平らな机の表面に、鍵盤が広がった。

あの指から、あの音が生まれるんだ。
あんな細くて華奢な手から、胸を巣食うほど深くて心揺さぶられる音が生まれる。

あの音色が聴きたいな・・・


「二人とも終わったか?じゃあまだ早いけど終わるか」


時計を見上げて先生が言うと、俺たちのテストは回収されて予定より早く終わった。
静かな空気が解かれると、俺たちは筆箱をカバンに入れ席から立ち上がる。


はあしたも休みなんだっけ?」


先生があの子に言った。
この先生は4組の先生だ。あの子は4組なのかな。


「いいえ、明日は来ます」
「あれ、コンクールは?」
「選考落ちたから、もう次はないです」


彼女は静かに、イスを机の中に戻す。

選考に落ちた、コンクール・・・。
ピアノのことかな。


「そうか、それは残念だったな」
「自分でもわかってたから、そうでもないです」
「お前はシビアだなぁ」


呆れて言う先生に、口端を上げて頭を下げる彼女は教室を出ていった。
俺もその後をついて教室を出て、廊下を歩いていく背中を辿るように歩いていく。

選考に落ちた。それってたぶん、大きなことなんだろうに。
あまりに平気そうに言うから、本当はあの子がどう思っているのか、わからなかった。

・・・俺は、うまく出来ないどころか試合にも出られなくて、結構ヘコんでる。
周りがどんどん先へ行くのに、自分はうまく進めてない感じがして、でもうしろから襲ってくる何かに捕らわれないように必死で足に力を込めている。自分の力が不安定すぎて、不安に襲われてばかり。今日彼女のピアノを聴いていた時も思わず涙が滲んで、息を吐き出し心を落ち着けるのに必死だった。


「・・・」


もしかして・・・、あの子も、同じだったのかな。
思う通りに出来なくて、ちゃんと出来なくて、それが自分でも分かってしまうくらい、情けなかったのかも。だから、あんな音だったのかも。今日のピアノが、まるで俺を急き立てるように聴こえたのは、あの子も、自分を追い詰めていたから・・・?

あの子もあの表情の奥では、やり場のない思いを抱えていたのかな・・・。


おっそーい!」
「ごめん」


下駄箱につくと、廊下に座り込む森野が待ちわびて声を張り上げた。


「テストどーだった?」
「ダメ、出来なかった」
「マジでー?勉強しなったの?」
「うん、忘れてた。理科は捨てたよ」


下駄箱で靴を履き替えるあの子が、どっかで聞いたようなセリフを言った。


「アンタはエーゴ出来んだから理科がちょっとくらい悪くたっていーよ」
「まぁ全体的に悪い誰かよりは」
「ケンカ売ってる?」
「まさか」


仲良く寄り添いながら、二人は学校を出ていった。

―ダメだ、英語は捨てよ。
―理科は捨てたよ。

重なり合ったふたつのセリフにちょっと笑った。
なんだか軽くほころぶ口をマフラーで隠して、あのピアノの音を思い出しながら俺も歩きだし、目前に控えたトレセンこそは気合を入れようと白い息を飲み込んだ。


ひとめぼれじゃ、なかった。
一瞬で焼きつき焦がれたような、衝撃があったわけじゃない。

どこかからふわり流れてきた、甘い香りに寄せられた虫みたいに、じわりじわりと響く音色に吸い込まれてしまった。

君の音に惹きつけられた。


それからしばらく経った、春。
同じクラスに君の名前を見つけた。
もうすっかり心に植え付けたその名前。

いつ、この名前を呼べる日がくるだろう。
いつ、君に話しかけられる日がくるだろう。
いつ、君の笑い声が聞ける日がくるだろう。

全部が待ち遠しくて、毎日が色めき立っていた。
中3の春。


「あの・・・、真田・・君」
「え?」
「あの、すごく申し訳ないんですけど・・・」
「え、なに?」


君の逆隣の席で、君の指が机を叩く、あの音のほうがだんだん好きになっていく。
君の頭の中に流れてる音を想像する。


「この間の日曜のサッカー部の練習試合の時に、真田君と喋ってた、瀬田三の男の子のことなんだけど・・・」
「・・・え、それが、なに?」
「あの・・・、その人の名前、教えてもらえない、かな」
「え、なんで・・・?」
「あのね、友達が、その・・・、その人のことを気にいっちゃったみたいで・・・、名前を知りたいんだって・・・」
「・・・あ、ああ!なんだ・・・」


君を毎日左側から小さく見て、君のいろんなところを発見していく。
それら全部が楽しくて、嬉しくて、悲しかったりして、悔しかったりして。
こんな感覚、初めてだった。


「あの・・・・・・
「ん?」


それが好きっていうことなんだって、逆隣の新しい特等席で、分かった。

新しい音が流れる。

祈るような、願うような、始まりの音。








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