あれは、夏休みも明けたばかりの、夏の終わりだった。 月のない、真っ暗な新月の夜にふわり舞い降りた、1通の手紙。 十六夜ラブレター 日が暮れかけた西の空、立ち並ぶビル郡の間からぽつり、一際光る一等星が出ていた。 「なぁー、あの組み合わせどーなの」 「いきなりジュビロユースはきびしいな」 「だろー?いきなり事実上の決勝戦って感じだよなぁ?」 「そりゃ言い過ぎじゃん?」 透明なはずの空気が濁って見えるこんな街中。 まだ陽も沈んでないこんな時間帯の空でも、星が大きければ輝けるんだ。 「俺たちは都選もあるしさぁ、プールすら行けなかったじゃん」 「合宿で海入ったじゃん」 「あ!そういや俺合宿でゲームボーイ壊されたんだった!」 「結人が投げたんだろ」 「ちょっと置いただけだって、ぽいって」 「嘘つけ、死んだからむかついて投げたんじゃん」 「違うってぇ」 東京の空は建物や看板に視界を遮られて、きっと大きいんだろうこの空も四角く切り取られたよう。 そこで生まれ育った俺たちは、その空に疑問すら抱かない。 それって、幸せなんだろうか、不幸せなんだろうか。 「英士ー?」 空を見上げて歩いていた俺に振り返って、結人が呼ぶ。 「何上見ながら歩いてんの。転ぶぞー?」 そう言いながら転ぶのはいつも結人のほうだ。 うしろ向きなんかで歩くからだ。バーカ、と一馬が笑う。 「月が出てないなと思ってさ」 「月ぃ?」 ぽつりと言うと、結人も一馬も空を仰いでぐるりと天を見渡した。 陽が落ちきってない時間帯と言えど、月くらいは見えるはずだ。星は見えてるんだから。 でもこの四角い空のどこにも月は浮かんでいなかった。 どうやら今日は新月らしい。 「まーべつに月がなくてもカンケーないじゃん?昼でも夜でも一日中明るいんだから」 そう、この街に、暗闇はこない。似合わない。 だからつまり、月も星も、あまり関係ない。なくても誰も困らないから。 駅に着いた俺たちは改札を通って、方向の違う一馬と別れた。 結人と階段を上がっていって、駅のホームで電車を待つ。 その時だった 「あの、」 少し震えたような声が、隣から俺にかけられた。 振り向くと、同じ年くらいの女の子が立っていた。 「郭、英士くんですよね」 「はい?」 その、たどたどしく俺の名前を口走る女の子に見覚えはなかった。 でも俺の名前を知っているから、どこかで会った事あるのかもしれないと、その子の顔を見ながら記憶を辿ってみる。 「あたし、伊咲響子といいます。それで、あの・・・」 名前を聞いても覚えはなかった。 これでも関係した人の顔と名前は覚えてるほうだ。小学校の同級生くらいならわかるつもり。 でもその女の子はやっぱり知らなかった。 その女の子も、俺と知り合い、という感じではなく、口を閉じることも忘れて「あの」を繰り返していた。 そして今度は、かばんに隠れた右手に持っていた、一通の手紙を俺に差し出す。 「受け取ってください」 「・・・何?」 薄いブルーグレーの封筒。 何も書かれていないその表面には、うっすらと月の絵が描かれていた。 「お願いします」 少々強引に、突きつけるように彼女は一歩俺に近づいて差し出し続けた。 仕方なく、受け取る。 彼女はありがとうございます、と深く頭を下げて、きちんと俺の目も見ずに走ってホームから出ていった。 なんなんだ? 訝しげな顔でぽつりと思い、手の中に残された手紙を見つめた。 英士やるぅ〜 いつものからかう調子の結人の声が、その顔と一緒に肩にずしりと圧し掛かる。 「ラブレター?モッテモテだね〜。いーなぁ、俺も唐突に手紙とか渡されてみたーい」 「・・・」 渡されたいか? こんな駅のど真ん中で、人の目に晒されて、恥ずかしいだけなんだけど。 こういうものを貰うのは初めてじゃない。 最初に貰ったのは、小学校4年のときだったかな。 その時は意味もわからずに一応読んで、ユンに「それはラブレターっていうんだよ」って教わった。 貰ってうれしいと思ったことは一度もない。 だからもちろん、貰いたいと思ったことも一度もない。 手紙に綴られている「好き」という文字。 俺にとっては、特別な意味なんてない、ただの文字だった。 そういうものに興味がなかったから、そんな事を簡単に言えることすら軽いものに感じていた。 「なんて書いてあんの?見せてよ」 そう、興味津々で覗いてくる結人の顔の前から手紙を遠ざけて、かばんに入れた。 べつに大事なわけじゃないけど、面白がってるヤツに晒すようなものでもないだろう。 ちぇ、ケチ。 結人が少々ふてくされて俺から離れると、正面に電車が走りこんできて、結人はもう手紙のことなんて忘れたようにさっさと電車に乗っていき、俺もそれに続いた。 揺れる電車の窓から見える空は、だんだんと明るさを落としていっていた。 でも、それと変わりに現れるのはやっぱり、星や月なんかじゃなく街の明かりだった。 チカチカ瞬くライト。空に刺さる高いビル。 ひしめき合う人々。電車の音。 生まれてからずっと当たり前の日常。 そういう場所に、俺たちは生きていた。 完璧に太陽が沈んだ夜は、さすがに空は黒い。少しだけ、星も瞬いている。 でもやっぱり月は見えない。やっぱり今日は新月らしい。 風呂上りで頭を拭きながら、窓から空を見上げて思った。 空を見上げるのは好きだった。何より、月を見るのが好きだった。 あの、無機質で質素な感じ、メタリックな白濁色。 時々燃えるように赤かったり、怖いくらいに大きい月もまた、好きだった。 だからそれが見えない夜は、少しだけ、残念な気持ちになる。 結人風に言うと、ちぇ、といった感じか。 「・・・あ、」 そう思うと、練習帰りの駅のホームで結人が言った「ちぇ」を思い出した。 あの手紙はまだ、かばんの中に入れたままだった。 ほんと、困るんだよな、ああいう手紙。 どうしていいかわからない。 残しておく義理もないから処分するけど、捨てるときはやっぱり少しだけ後ろめたい気にもなる。 メンドクサイ。 かばんを机の上に上げて、中からあの手紙を取り出した。 薄いブルーグレー。 この色はちょっと、いい色だと思う。 うっすらと乗っている月もこの色にあってる。 軽くシールで留められた封を切って、中の紙を取り出した。 一枚だけとはシンプルでいい。読み手思いな手紙だ。 前に貰った手紙は4〜5枚に渡って綴られていて、もう後半には何が言いたいのかわからなかった。 やたら「!」が多かった事だけ覚えてる。 封筒と一緒の色した便箋は、「郭英士様」と書き出しが括られていた。 どこで名前を調べたんだろう。こういう見ず知らずの子が自分の事を知ってるって言うのはいろいろ疑問だ。 内容は、至って普通だった。こういうものを書くときの見本でもあるんだろうか、大体どの子もまず「突然の手紙で」と謝罪から入る。後は大体、いつから好きだった、とか、いかに自分が本気で好きか、とかを延々と。 この見ず知らずの女の子はどこで俺を見て、俺の何を見てこんな手紙を出すほど思い立ったのか。 まるで何かの研究でもするかのように、ただの興味で手紙を読み進めていた。 やっぱりこの彼女は駅で俺を見たらしい。 一目見て。俗に言う一目惚れという現象。 俺にはソレが一番不可解だ。一目見て惚れるって、どういうことかわからない。 何も知らない相手のことを何故何も知らない間に好きだと思えるのか。 実際中身を知って、思っていた虚像と違えばそれはただの勘違いに終わる。 実に単純で、軽はずみで、情けない思い込みだ。 そしてそんな情けない自分を守るために、あれは間違いだったと、なかったことにさえしようとする。 インスピレーション と言えば聞こえはいいが、俺には理解できない、縁のないものだ。 馬鹿馬鹿しいとさえ思う。 さらっと手紙の文字を目で追いつつ、頭はそんな勝手な理論に逸れていた。 でも、最後のほうに書かれていた一文で、俺の意識は遠いどこかからその手紙へと戻ってきたのだった。 ―まるで、月のような人だと思いました。 月のよう まさか自分でそんなこと思う筈もない。 でも、時々周りから言われることと、俺が月に抱いている印象は、近いところにあった。 悪い気はしない、というか、正直に言うと、うれしい表現だった。 「月、か・・・」 窓から見上げた空には、邪魔な明かりに照らされて細々と光る星が浮かんでいるだけで、やっぱり月はいなかった。 やっぱりどうしても今夜は新月だ。 今このタイミングで月を見たかったのに、気の利かない。 ああ、見えないだけで、本当はそこにいるんだっけ。 そう思うと、なぜか少し笑えた。 似てるな、 そう、思ったから。 |