月が出ていた。 青くて明るい空に混ざって見えにくい、白くて小さい真昼の月。 そんな月を見つけたときは、少しだけ幸せな気分になる。 十六夜ラブレター 見上げた空では、白い雲の合間からきれいな青を覗かせていた。抜けるような青にうっすらと雲の白が混ざって、鮮やかな水色のグラデーションを発色させる。風に吹かれる雲は忙しなく遠い空へと流れていって、広い空をつれてくる。 「おはよう」 「お、おっす英士!」 「・・・なに?」 「えっ?なにがっ?」 ここ数日降り続いた雨で、練習場の人工芝はまだたっぷり水分を含んでいた。明日の試合のためにコンディションを整えるなら、今日も外での練習はしないほうがいいな。 そんなことを思いながら練習場に入っていくと一馬と結人がいて、声をかけると妙な反応が返ってきた。俺を見て焦っているような顔。 「早く着替えたら?練習始まるよ」 「ああ、そーだな!行くぞ一馬!」 「俺もう着替えてるって」 「おお!じゃあ、行ってくるぞ!」 「?」 一緒に更衣室へ向かう道中。ちらちらちらちら、結人が俺の様子を伺うように隣から覗いてくる。 「なんなの?聞きたいことあるなら言えば?」 「えっ?べつになんもねーけど?!」 「・・・」 じっと結人を見ると結人はにこっと冷や汗たっぷりに笑顔を作った。 なんでこう白々しい態度しかとれないかな。 「なんなの?彼女のこと?」 「えっ!」 「べつに何もないよ。あの後少し喋ったけど、特別なことはしてないし」 「え?!あ、そーなの?なーんだ!はは、で、誤解は解けたんだ?結局あの男はなんだったの?」 「さぁ、ただの友達だって言ってた」 「友達?それにしてはなんか親密そうだったけどな」 「・・・」 またじっと結人を見つめると、結人はしまったと口を閉ざしてははっと笑う。 べつに俺は彼女に問い詰めたかったわけではない。弁解や説明を求めてもない。だって俺は彼氏じゃないし、彼女がほかの男と何してても何も言う権利ない。 まあ、なんでもないと言われて、少なからず胸のとっかかりは和らいだことは否めないけど。 「で?お前は言ったの?」 「なにを」 「なにって、好きだーとか」 「言わないよ」 「え?なんで?」 「なんでって、なんで言うの」 「なんでって、お前好きなんだろ?」 「・・・」 まあ、確かにあれだけもやもやして胸に詰まっていたものは、彼女が好きなんだと認めた瞬間に消えた。 「お前なぁ、もし明日にでも響子ちゃんに彼氏ができたらどーするんだよ。そーゆーことは早いうちに手ぇうっとくのが一番なの!」 「・・・」 「まーったくお前は、サッカーとか勉強とかには恐ろしく頭回るの早い癖に、そーゆーことにはテンデダメだな!なんならこの俺様が手ほどきしてやろーかあ?」 「大きなお世話」 「男なら自分からいかなきゃダメなんだよ!好きな子には好きだ!とビシィッと言ってちゃんとゲットしなきゃな!」 いちいち言葉にアクセントをつけて、結人は身振り手振り激しく熱弁する。今までならそんな結人の戯言なんて、聞いてるようで聞いてなかったはずだ。そんな結人に背を向けて静かに着替えるけど、結人の言ってることをちゃんと聞いてしまっている俺はなかなか、重症なんじゃないか。 「まずは雰囲気作りだな!二人っきりになれる場所を見つけて気分を盛り上げるんだ。女の子はムードに弱いってゆーしな」 「・・・ムードって?」 「そーだなぁ、夜景見に行くとか、ライトアップされてるとこに連れてくとか、そーゆーロマンチック〜って言いそうなところだよ。そーすれば女の子もコロンとイチコロさ!」 「・・・」 というか、彼女の答えは決まってるんじゃ・・・ 「明日試合見にくるんだろ?その後にでもどっか行ってビシーっときめてこい!」 結人の突然の発案に「あした?」と聞き返した俺の言葉は、揺れに揺れた。 「善は急げってゆーだろー?明日だ明日!決定!」 「決定って、なんで結人がそんなこと決めるの」 「だってお前恋愛初心者じゃ〜ん?いやぁ〜、英士にこんな話をする日がくるとはな〜。父さんうれぴ〜!なっはっは!」 「・・・」 なんか、すっごく腹立たしい。 「よーし今日は英士の恋愛記念日だな!明日に向けて作戦会議でも開くか!」 「やめてよ」 「てかその前にまず試合に勝たなきゃな。負けたらムードもへったくれもないもんな。よし、じゃあ試合に勝ったときバージョンと負けたときバージョンを考えておいて、・・・」 「お先に」 ひとりでぶつぶつ、勝手に段取りを練り始めた結人を置いて更衣室を出ていった。 そんないきなり、明日とか、勘弁してよ。 夏の残り香のように眩しい太陽に、脳内がくらりと回った。 その太陽から少し離れたところに、うっすらと月が見えた。 昼の白い月。雨が降ったおかげで空気中の埃や塵がなくなって、澄み渡った青に映える月。雲に紛れて見落としてしまいそうなほどその存在は薄くて、それでもまるく綺麗な曲線を描いていた。 ほんの、ほんの少しだけ欠けた、満月に程近い月だった。雨雲に隠れている間にずっと見上げてきたあの未完成な月は、すっかりまるみを帯びていた。彼女と初めて会った日は、どこを探しても見つからない、真っ暗な新月の夜だったはずなのに。 彼女と出会って、まだほんの少しの時間しか経っていない気がするのに俺たち、こんな月が満ちるまでの時間を、一緒にすごしてきたんだな。 きっと、何人かに一人しか気づかないこのちっぽけな月。 彼女は、気づいてるだろうか。 もし、この月を見つけたことが幸運だというのなら、できれば今すぐ、教えてあげたい。 そう思った。 「英士英士!」 「なに?」 「あれ」 外に出ていくと一馬が駆け寄ってきて、グラウンド沿いのフェンスのほうを指差した。その指の先に目を向けると、フェンスの向こうに、まだ練習も始まってないグラウンドを見ている彼女を見つけた。 小さく心臓が鳴って、それを誰にも悟られないように、心を落ち着けた。 「行ってくれば?」 「ああ、うん」 二人してこくこく頷いて、どこか余所余所しく一馬と別れ、彼女のいるほうへ歩いた。 結人のように大げさに騒がないだけで、一馬も気にしていそうな顔をしている。でも一馬はきっと、そういうことをずかずか聞いてこない。それに俺もそういう、恋愛事・・・を、一馬や結人に話すのも、なんか恥ずかしいというか・・・慣れないというか・・・。 フェンスに近づいていくと、彼女は視を上げて遠くの空を見ていた。 その視線の先を辿って空を見上げると、あの、薄い月があった。 彼女も、見つけていた。 そして近くまで歩み寄った俺に気づいて、顔をほころばせた。さっきまで結人とあんな話をしていて、彼女にどんな顔をして会えばいいのかと思っていたけど、いざ俺に屈託のない笑みを向ける彼女を前にすれば、俺も笑みしか浮かばなかった。 「どうしたの?」 「練習見学しに」 「明日も試合見に来るんでしょ?」 「来るよ」 「休みなのに、わざわざ来なくても」 「どうせ私は暇な子ですから」 「暇じゃないんじゃないの?受験生」 「あ、イタ!」 なんだか今日の彼女は、妙に落ち着いて見えた。今まではどこか、話をしようとか、笑わせようとか、元々の性格でもあるんだろうけど、明るく努めていたような感じがする。 こんな得に意味のない、必要もない会話を、ただ交わす。 それがなぜだか、距離が縮まったように感じて、妙に心地よかった。 「ねぇ見て、英士君」 彼女はまた空を見上げて、あの月を指し示す。 俺も見上げて、うん、と頷く。 「昼間に月を見つけるとさ、なんかラッキーって感じするよね」 同じように感じていた彼女に、そうだね、と笑った。 君もそのラッキーを、俺に分けてくれるんだ。 この、胸に根付いた気持ちを、どう表そうか。 「えーし君」 まだ上を見上げていたら彼女がフェンス越しにリズミカルに呼んで、彼女に視を戻すとパシャリ、閃光が目に焼きついた。 「何すんの」 「へへ、思い出」 「なんのさ」 カメラの向こうから顔を出した彼女は、無邪気に笑う。 「やめてよ、絶対変な顔してた」 「いやいや、英士君はどんな顔でも素敵ですよ」 「何言ってんの」 今までなら、突然カメラなんて向けられたらすごく気分悪かった。それがまったくなんとも思わないんだから、不思議なもの。 「あ、大変。集合してるよ英士君」 「うん」 ああ、理由なんてないのかな。 今の俺と、彼女だからかな。 そうだとしたら、理由はないんじゃなくて、要らないんだ、きっと。 うん、要らない。 「いつまでいるの?」 「しばらく見たら帰る。実は昼から塾なのです」 「塾なんて行ってたんだ」 「受験生受験生」 グラウンドに歩きながら、少しずつ彼女と離れながら、それでも話した。 なんか名残惜しくて、って、格好悪いかな。 「じゃあまた明日」 「うん」 「勉強がんばって」 英士君もね。 彼女もフェンスの向こうで手を振った。 その彼女を見届けて、みんなが集まっているグラウンドに走った。 俺の心は、その日の空のように澄んで、青く晴れ渡っていた。それがこそばゆくもあり、歯がゆくもあり、芝生を蹴る足も軽かった。 ガラにもなく俺は、浮かれていたのかな。 だから、浅はかに気づかなかったのかな。 「・・・」 俺の背中を見送る君の目が、まだきのうまでと同じように、どんよりとした重い灰色に飲み込まれていたこと。 だってその日の君はあまりにも綺麗に嘘をついていたから。 いや、たとえ知っていたとしても、気づきたくなかったのかもしれない。 |