日に日にそれは、膨らんでいった。

満ちることが幸せだと、勘違いするほどに。










十六ラブレター












思ったとおり、試合当日はからりと夏張りの暑さを放っていた。それでも空は高く、季節は確実に移り変わっているのだと語りかける。


「あ〜づ〜い〜」
「雨でも晴れでも文句言うんだね、結局」
「うるせー」


地面から蒸発する水分が湿気となって肌に纏わりつく。数分後に試合を控えながら、すでにピッチの気温は上昇しきって暑さも倍増。


「えーし〜、なんでお前はそういつでも涼しげなんだ」
「真夏に比べれば涼しくなったほうでしょ」
「暑いもんは暑いんだ!」
「暑い暑い言わないでよ暑苦しい」
「なにぃっ?!」
「お前ら何くだらない言い合いしてるんだよ」


あまりに温度差の激しい俺と結人の間に、一馬がさらりと涼しい風を送った。
確かにくだらない言い合いだ。それも結人相手に。


「英士の奴、響子ちゃんがまだ来ないからって不機嫌になってんだぜ絶対!」


なんとか俺の心をえぐろうと結人は暴言を投げかける。その結人をギッとにらむと、また一馬が止めた。


そう。試合まであと10分で、大会緒戦ということもあって見に来てる人も結構いて、うちも相手チームも試合前のアップを済ませてあとはもうピッチに出て試合開始の笛を待つだけなのに、彼女の姿は見えなかった。

どうしたんだろう。寝坊でもしたかな。でももう2時だし。
まさか、事故とか、遭ってないよな・・・


俺がどれだけ心配をしたところで、彼女は姿を現さなかった。
試合が始まって、フィールドを走って、ボールをつなげて、点を取って、前半を終えて、後半が始まって、点を取られて、PKを取られて、残り時間が少なくなって、みんなが焦りだして。

それでも、彼女の姿はどこにもなかった。
何があったんだろう。なんで来ないんだろう。あんなに楽しみにしてたのに。
1点負けている試合の焦りと、集中できない自分がイライラした。

試合終了間際、相手のファウルを誘ってフリーキックを得る。


「英士」
「落ち着いてけ英士」


ボールを置いて、ボールから離れて、落ち着いてゴールを見た。不安と焦りと少しの緊張を抑えて、すぅっと息を吐く。
今まで何度もこんな場面はあった。こんな場面こそ楽しんでやってきた。
なのに、少し緊張してる。


すると、壁を作ってる結人が体の前で小さくフィールドの外を指差した。
なんだろう、とその指の先を見る。


「・・・」


彼女がいた。
応援する人たちから少し離れたところに立って、じっとこっちを見る。

来たんだ
遅いよ・・・


ボールに目を戻してもう一度息を吐いて、すっとゴールを見据えた。踏み込んで、蹴り上げたボールは壁の上を弧を描いて飛んで、ポストめがけて曲がり、ネットを揺らした。

わっと、フィールドが沸く。


「ナイス英士!」
「よくやった!さすがだよお前!」


チームメイトと手を叩き合って、すぐにゲームに戻った。試合終了のホイッスルが鳴るまでの数分間、俺たちの意識は試合から逸れることなく集中していた。ロスタイムが過ぎても同点のままで、迎えた延長戦でも決着はつかず、PK戦にまでもつれ込む。結果、3対4で俺たちは緒戦を突破した。


「えーし〜!お前響子ちゃん来てからヤル気だすんじゃねーよ」
「は?そんなんじゃないし」
「またまたぁ!」


喜び合って仲間に囲まれてる俺たちを見て、彼女は笑っていた。そんな彼女と目をあわすと、彼女はまたにこりと、微笑んだ。喜ぶ彼女を見て、俺の心はまたざわり、うれしそうに騒ぐんだ。

今日はこれから、彼女と月を見に行く約束をしていた。少し街中から離れれば、この天気ならきっと、それは綺麗な月が見えると思うんだ。
そうだ、あの、猫を埋めた河川敷まで行こうかな。あそこなら、綺麗な満月が見えるはず。


試合後のミーティングも終わって、そんなことを考えながら急いで着替えていた。


「英士、きのうちゃんと考えたんだろーな、なんて言うか」
「・・・」


纏わりつくように、鬱陶しく結人が俺の周りをくるくる回る。


「女の子は言われるのを期待してるんだから、ちゃんとお前から言ってやんないとダメだぞ?何なら練習する?俺に愛の告白してみ?」
「馬鹿」
「恋するとみーんなバカになるんだよ〜だ」
「・・・」


結人は自分が楽しみたいだけなんだ、絶対。

それでもきのう、やっぱり彼女に言おうかとか、言うならなんて言おうかとか考えてる俺は、もっと馬鹿?
確かに俺、なんか馬鹿になってる気がする。それってどうなの・・・


練習場から出ていくと、彼女はグラウンドの出入り口の階段に座って空を見上げていた。
ぽっかりと綺麗に浮かんでいる、まだ夕暮れ前にはうっすらとしか見えない満月。すっかり丸くなった綺麗な月が、薄暗くなり始めた空に白く浮かんでいた。
それを見上げてる彼女に近づいていこうとすると、後ろで結人と一馬が俺の背中をバンバンと叩いて先に階段を下りていった。痛い。

彼女の横を通り過ぎていく結人が彼女に手を振って、その結人に応えた彼女は、振り返って立ち上がり少しだけ微笑んだ。なぜか照れている俺も少しだけ笑い返して、彼女の元まで下りていく。


「お疲れ様」
「うん」
「すごかったね、おめでとう」
「ありがと」


じわりと笑顔を滲ませている彼女は、どこかふと、別人のように見えた。よくはわからないのだけど、変に落ち着いているようで、笑顔の隙間に時折、寂しそうな顔をする。


「どこ行こうか」
「え?」
「月、見に行くんでしょ?」


彼女はふと笑顔を消して、本当だったんだ、そう呟いて、またじわり、泣くように笑った。


「どうしたの?」
「え?」
「なんか、元気ないね」
「そう?」
「うん」


今までの彼女ならきっと、そんなことないよ!って、気丈に笑って見せたんじゃないだろうか。
でも彼女はただ黙って、まるであの満月のように、形だけ綺麗な笑みを保っていた。
そしてふと、また空を見上げる。


「満月になったね」
「うん」
「あれから、2週間経ったんだ」


あれから

彼女が俺の前に現れて、俺に手紙を渡して想いを伝えた新月の夜から、2週間が経っていた。


「あの時はまさか、英士君とこんなに話できるとは思ってなかったなぁ。だって英士君すっごい人見知りっぽかったし」
「それでもお構いナシによってきたのは誰さ」


ふと笑う彼女につられるように、俺も笑みをこぼした。そして彼女はゆっくりと俺に目を戻して、また笑う。


「ありがとう」
「何が?」
「今まで一緒にいてくれて」
「?」
「きっと英士君は、こんなの苦手だったんだよね?人前で手紙渡されたり、よく知らない人と出かけたりなんてさ」


彼女の言っている意味がよく理解できなかった。
彼女はどこか悲しそうで、寂しそうで、それでも必死に笑ってるといった顔をして・・・

なんで、そんな顔をするの?


「手紙の返事くれる時もさ、断るのにわざわざ来てくれて、あの日は練習なかったのにね?」
「どうしたの?」
「フッた女に付きまとわれても困っちゃうよね。でも美術館とか、付き合ってくれて、ありがとう」
「伊咲さん?」
「・・・」


俺が彼女を呼ぶと、彼女はふと、浮かべていた笑みを消した。うつむいて視線を落とす彼女の表情は曇っていった。遠い東の空から消えていく空の明かりと同じように。
そんな彼女に近づこうと階段を一歩下りると、彼女は後ろに下がって、俺に向かって手を出した。


「ごめん、来ないで」
「どうしたの?何かあったの?」
「ごめん、英士君」
「何が?」
「・・・」


言葉を詰まらせて、ぐっと口を真一文字に閉じて、彼女は小さく震えていた。
そして、その口を緩ませて息を吐いて、詰まった息もろとも解き放つようにその口を開いた。


「もう、会えない」


キー・・・ン・・


遠くの空で、耳鳴りのような音がした。


「・・・どうして?」
「遠くにね、行かなきゃいけないの」
「遠く?どこに?」
「ありがとう、今まで、ほんと・・・」
「伊咲さん」
「・・・」


日が落ちかけて、流れの速い雲の陰が彼女を捕らえる。
ざわり、生ぬるい風が心をかきたてるように吹き荒れて、俺たちの間を裂いた。


「さよなら・・・」


最後の彼女の言葉は、騒がしい風の音と心臓の音で、うまく聞き取れなかった。
いや、聞きたくなかったのかもしれない。

それでも現実はそれを許してはくれなくて、その言葉はまっすぐに俺の頭と心に染みわたって、俺の目には、彼女の最後の微笑が焼きついた。

待ってよ、そんな急に・・・
もっと、ちゃんと説明してよ
どこに行くの?どうして今日それを言うの?

また、俺は心の中でぐるぐる、言葉をかき回して
それでもどうしても、この飾りのような口からは、言葉となって出てきてはくれなかった。


彼女はくるり、歪めた顔を隠すように体を返して、階段を下りていく。
それを俺は、追いかけるべきだった。
引き止めて、嫌だと言いたかった。


待って
待って


それでも俺のこの役に立たない足は動くことを忘れてしまった。
俺の喉は言葉を通すことを忘れてしまった。


・・・いや、それは俺の意思だ。


なるようにしかならない。
そんな風にしていつも、とおり過ごしてきたのは、俺だ。すべて一歩外側から見送るばかりで、自分からは何もしなかった。心の奥底でだけ求めて、でも叶わないことが怖くて口には出せなかった、その代償だ。


コンクリートの階段にぽとりと、一滴のシミが残っていた。
空はだんだんと灰色がかって、月が少しずつその光を帯び始める。

この世は少しずつ闇へと足を進めていくけど、この街はすべてが他人事のように無関心で、俺一人なんて、簡単に飲み込んでしまうんだ。


俺はただ、偽物じみた世界の端っこで、ぽつり立ち尽くすばかりだった。


雲が流れて、月が割れた。














1