満ちきった月を見上げて、君は何を思う。 俺は、何を願う・・・ 十六夜ラブレター 揺れる彼女の瞳は、俺の知っている彼女のそれとなんら変わらず、それが余計に俺の心を締め付けた。きっと彼女は俺に会いたくなかっただろう。そう思うとやっぱり、押し切ってでも前へ進むことなんて出来なくて、俺には強く求めるということが出来ない。 君が好き。 そう、認めてしまったことすら重くなって、消してしまいたくなる。傷が深くなる前に。 でも心のどこかで、ほっとしている部分もあった。 彼女はちゃんといた。幻想ではなかったと。 「英士君・・・」 彼女は思わずそう漏らした。その声も呼び方も、この耳に馴染んでいる。 「なんで・・・」 「駅で会って、俺が連れてきた」 「なんで?勝手なことしないでよ」 「じゃあお前は何がしたかったんだよ。自分のこと響子だって言ってたんだって?」 「そんなの、遼平に関係ないじゃん」 「・・・俺にも」 暗い中で小さく小さく口をついた俺の声に、彼女はびくりと肩を揺らした。 「俺にも、関係ないの」 響かない俺の声を、それでもしっかりと聞きとめて彼女は、深く俯いた。 彼女が何を思ってそうしたのかは知らないけど、俺は当事者なんだよ。それを関係ないなんて言葉だけで片付けられるのは、さすがに納得できない。 震える唇をきゅっと結んで、口を動かせない彼女はぎゅっとカバンを持つ手を握っていた。そうしていると、ぽとり、うつむくばかりに彼女のまつげから涙が落ちて地面を黒く染めた。 「・・・」 そんな彼女に寄ろうとしても、俺は彼女の名前すら呼べない。 彼女の本当の名前はこの頭にきちんとインプットされているけれど、彼女から聞かされたわけでもないその名前を俺が呼べるはずがなかった。 「英士」 後ろから一馬の声が聞こえて、振り返った。 「俺ら、先帰るな」 「ん、ごめん」 気を使ってくれたのか、一馬は結人を連れて歩き出した。結人は納得できない顔をしてたけど、明日なと一緒に帰っていった。 「、俺にもちゃんと説明しろよ」 「・・・」 俺たちを連れてきてくれた彼も彼女にそういい残して歩いていった。 広い世界で、俺たちはふたりきりになって、それは小さな世界だった。 「教えてくれる?」 「・・・」 俺の前で彼女はまつげを上げて俺をそっと見た。 俺に目を合わせる彼女は目の下に涙の筋を残したまま、またその目を滲ませる。 「・・・ごめん」 「・・・」 「ごめん、英士くん・・・」 彼女は搾り出すような声で、涙に呑まれて言葉を詰まらせた。 そんな彼女を見ていると、問い詰めようとしていた気がどこかへいってしまって、涙に手を濡らす彼女にふと手を伸ばしそうになって、でもその手をぐっと握って下げた。 皮肉にも、こんな形で叶えられてしまった彼女との約束。 俺たちの頭の上には、満ちきった丸い丸い月が浮かんでいた。 月が明るすぎて見えなくなってしまった他の星が夜の闇を一層際立てて、夜空は真っ暗だった。それによってまた月の強さと魅力が下々の目を惹きつけさせるのだけれど。 「響子は、7月に入ってすぐ、車に轢かれたの」 やけに大きく見えるな月をバックに彼女はポツリと話し、俺の少し後ろを歩いた。 「まだ梅雨で雨が降ってて、学校帰りに信号渡ろうとして、曲がってきた車にぶつかったんだって。響子も、車運転してたほうも、雨で視界悪かったらしくて、すぐに病院運ばれたけど、体の中で折れた骨が内臓に刺さって助からなかったんだって」 ゆっくりゆっくり、月明かりの下を二人で影を落として歩いた。後ろの彼女が、まだ全然納得できてない口調で痛々しく思い出し話す。 「あたしはそのとき、部活の大会中で練習してたから、そんなことになってるの全然知らなくて、響子が死んじゃってるのに普通に笑ったりしてて、他の子と同じように次の日に学校で先生に聞かされて・・・。そんなの、信じられなかったんだけど、でも、響子は、いなくて・・・」 「・・・」 伊咲響子。 事故であまりにあっけなく短い生涯を閉ざし、一番の親友だった彼女はその意味も理解できず。 死んだなんて、そんなことを急に言われても、納得できるはずがない。俺だって一馬や結人が急に事故で死んだなんて言われたって、理解できるはずがない。死という現実がリアルに襲ってきている今、それは想像しただけでも重すぎる悲しみ。でもそれが彼女には、つい2ヶ月ほど前の現実だったのだ。 後ろから聞こえていた彼女の小さな足音が聞こえなくなって、振り返ると彼女はこらえられなくなったのか、うつむき顔を押さえつけて、その手の中からぼろぼろと涙を落とした。 あの、駅前の交差点で猫の事故を見たときも、彼女はそうやって泣いていた。 その時彼女は、いなくなった友達を思い返して泣き崩れたんだと、今になってわかる。 あの時はまだこの月も、半分だった。 「もういいよ」 そんなつらい記憶を呼び戻させたくて、会いに来たんじゃない。 そんな、痛めつけたかったわけではないんだ。 「え、英士君のことは、響子が事故に遭う少し前に、響子から聞いて・・・」 溢れる涙は甦った記憶にのまれて感情を支配し、気持ちとは別に涙を流し続けた。そんなぐちゃぐちゃな声で、それでも彼女は俺に何かを伝えようとする。 「英士君に渡したあの手紙は、響子が書いたの。響子が死んじゃったあとに、その手紙を見つけて・・」 「・・・」 「きっとすごく勇気出して書いたんだろうけど、でもその後すぐ事故に遭っちゃったから、英士君を想ってられたのはたった15日だけで・・・」 あの、月の模様が入ったブルーグレーの手紙。 あの手紙は 「英士君のこと好きだったのは、響子なの・・。響子は手紙書いたり告白したり出来る子じゃ全然なくて、だからあたし、その手紙を英士君に、英士君に響子のことを覚えていてもらいたくて、英士君のこと、響子に教えてあげたくて・・・」 「・・・」 やっぱりそう、すべては彼女、伊咲響子のため。 親友の短い一生に花を添えるように、彼女は自分を偽りなりきって現れた。 それは月が満ちていくまでの、消えてしまった彼女が俺を想っていたという15日間だけの、尊くも儚い幻だった。 「でも、英士君と話してると、だんだん嘘ついてるんだって気持ちが大きくなってきて、英士君があたしのこと、伊咲さんって呼ぶたび・・・、最初はうれしかったのに・・・つらくて・・・」 ぽたり、ぽたり、 「本当のこと言わなきゃって思ってたんだけど、あたしがまだ、響子が死んじゃったってことを、信じたくなくて・・・、口に出せなくてっ・・・」 「・・・」 「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・」 悲しみにのまれ苦しめられて泣き続ける彼女に、月明かりがスポットライトのように降り注ぐ。 俺は近づけなかった。 彼女に近づくことも、手を差し伸べることも、声をかけることもできなかった。 どうして? 彼女の行動が理解できないわけではない。 許せないとか怒ってるとか、そういうわけじゃない。 ただやっぱり俺には、初めてだった。 疑って、信じなくて、認められなくて、 それでも俺は結局、君を想った。 その想いが俺の中で行き場のない塊となってしまって、でも彼女を責めるわけにもいかなくて、ただこの想いが流れ出てしまわないよう力をこめて、ぎゅっと目を閉じた。 「もういいよ」 「ごめん英士くん、ごめんね・・・」 「もういいから」 こんなに近くにいるのに、あんなに笑っていたのに、 この15日間の俺たちはもうどこにもいない。 あの日君に初めて触れた手はあんなにもあたたかかったのに。冷たい雨の中でも、ただ手を重ねていただけでも、あんなにも近くに感じたのに。 この想いと重なるように、あの月が満ちてゆくのを、二人でずっと見上げていたのに。 俺たちこのまま、この月と同じように、ただ消えていくだけなんだね。 それはまるで遠い昔話のように、君は月へと消えていくんだ。 そう、夜の闇に比べれば取るに足らないほどちっぽけなもの。街の明かりに邪魔されて、誰も見上げなくなっていくもの。 「ひとつ聞いてもいい・・?」 力を込めて、止めようとした感情が、それでも全身からもがくように抜け出たがる。 君へ、君へと。 「君の、名前は?」 「・・・」 君にたどり着けない手の代わりに、俺の頼りない気持ちだけがまだ君を求めた。 「・・・」 彼女は小さく小さく口を開く。 でもその隙間から言葉が出る前に、閉じた。 「ごめん・・・」 「・・・」 こくり、息を呑む彼女の喉が、それと同時に言葉を飲み込んだ。 俺には彼女の名前すら呼べない。 それは最後の、まるで蜘蛛の糸のように頼りない、願いだったのだけれど。 痛くても悲しくても、君の存在が俺の心を掴んで、君の存在が俺の脳に居ついてしまって、俺の心がもう君を放したくないって言ってる。 けれど彼女は、崩れそうな心をぐっと支えて、その口も閉じた。 「・・・わかった」 眩しい月明かりが俺たちの間に降り注いでいた。 その光に照らされて、俺たちの影だけがそっと寄り添って見えた。 うつむく俺たちの上できっと浮かんでるだろう月を思って、心の中でつぶやいた。 どうか、願いはたったひとつ 俺たちのすべてを、消して。 虚しく響く心の音が祈りに乗って、あの月へと召されるようだった。 膨らみきった月が去ろうとしていた。 |