思い出も悲壮も最初から無ければ、こんなにも悲しい音で鳴くことは無かった。 それでも俺は、出会ったことを、悔やんだりはしないよ。 十六夜ラブレター 暗い暗い夜空は西の空へと消えていって、やがてこの世に朝日が昇る。そんな何十億年と変わりないもの。ごく自然な当たり前とも言える、疑いもしないこと。 カーテンの向こうがじわじわと明るくなって、次第に隙間から眩しい光がこぼれだして、時計がいつもの起きる時間を指し、俺は日常へと足を進める。食はいまいち進みはしなかったけど、いつもの制服に袖を通しいつもの時間に家を出ていつものように授業を受ける。どんなに気分が重たくても、人間生きていれば腹は鳴るし、寝つきが悪いというだけで、明け方にはうとうととしてくるものだ。眠れない、少しも食べれないという人もいるんだろうけど俺は比較的普通で、俺ってやっぱり思っていたほど彼女が好きではなかったのかもしれない、なんて自嘲する。 涙なんて出ることはなかった。彼女の顔を思い浮かべれば、感情が揺れたりこみ上げたりはするのだけれど、それでも雫とまでは成りえなくて、熱く響きはするけれど、絶対にこぼれ出ることはなかった。 俺はなんてしっかりと、人間なのだろう。 「郭〜」 真っ白な雲の上で光を放っている太陽はまだまだ眩しくて、夏となんら遜色なかった。残暑の教室の中は熱気がこもっていて、風が通り抜けて白いカーテンがはためく。 そんな青い空を見上げていると、クラスメートが教科書を持ってよってきた。 「次の数学テストだって、ちょっとこれ教えてー」 「いいよ」 「さすが郭様!」 「あ、あたしも教えてー」 机の上で教科書を広げると周りのクラスメートまで寄ってきて、小さな集団になってしまう。みんなそんなに小テストなんかにヤル気になるのか。 「お前ら郭にたかるな!」 「なによ、アンタだって一緒じゃんよ!」 「お前らテストじゃなくて郭様目当てだろーがよっ」 「うるさいっ」 げらげら、俺の周りで慣れない空気が広がる。 どうしてだか、俺は周りの女子に「郭様」と呼ばれているらしい。もちろん面と向かって呼ばれたことはなくて、割と仲のいい男子からそう聞いた。 「郭って、呼びにくくない?」 「そーか?郭、郭・・・まーちょっとな」 「でも郭君にお前とか絶対似合わないしね」 「だな。お前とか呼んだ日には全国の郭様ファンに集団リンチだよ」 「・・・」 かくくんって呼びにくいよね。 そう直球で言ってくる子はやっぱりいなかった。 「お、郭が笑ってる。めずらし」 「・・・」 そう言われて初めて、自分が笑っていることに気がついた。周りもみんなもそんな俺に注目していて、すぐに顔を元に戻す。 思い出し笑いなんて 「ここなんでこーなんの?」 「ここに複線を引くと三角形になるから、三角形の内角は・・・」 俺の記憶の中で彼女と過ごした時間は、思い悩んだ時間よりもずっと多いはずなのに、思い出すことはなぜだか痛い思いばかりだった。無意識のうちに思い出す彼女はいつも笑っていて、俺も笑っていて、なのに、彼女のことを思い出していたんだと自覚すると、その後のことまで甦ってきて、間違っても笑顔なんて出るはずもない。 それでも俺は日常をいつもどおりに繰り返す。誰も不思議に思ったり疑問を抱いたりしない。それだけ俺は、いつもどおりだってことだろう。 なんて、出来た人間なことか。 それが、今まで俺が作り上げてきた、俺自身だ。都合いいほどに、俺は忙しかった。大会中のクラブももちろん、選抜の練習もあるし代表選考もはじまる。やることが多ければ多いほど、気がまぎれて楽だった。 だから、今日みたいに練習もなく、時間がぽっかりと空いてしまう日は、心も重い。 思い返せば楽しいことも嬉しかったこともあったのに、俺の脳にいついて離れないのは、彼女のあの、さよならの声だけで。 ・・・けど、俺は、駅にいた。 どこに行こうとか、ましてやこの期に及んでまだ会いたいだなんて思っていたわけでもなく、でもこの足は引っ張られるみたく駅に来て、あたりを見回して・・・。 俺の心は、まだ彼女を求めているのかな。 これからずっと、この駅に来るたびに俺の心はちくっと刺されたように痛むのかな。 俺は彼女と出会ったことを後悔してはいないし、出会わなければよかったなんて悲劇ぶったことは思いたくない。失ってから気づくなんて愚かなことしたくない。だって俺はわかっていた。彼女がいなくなればきっと後悔するっていうこと、わかっていて俺は彼女を許して、離れたんだ。 だから、今さらなにも、後悔はない。 日が沈みかけても明るい街中から外れて、海のほうへ歩いて歩いて、川辺まで来た。 彼女と手を土まみれにして猫を埋めた、あの河川敷。今になって思えばあの時に俺の中で彼女の存在がはっきりと、形になったのかもしれない。それに、あの日泣いていた彼女は彼女自身の涙だったはず。だとすれば、やっぱり俺は他の誰でもなく彼女自身に惹かれたのだ。 そもそも彼女は最初こそ”おとなしいタイプ”を演じていたけど、すぐに地が出てしまっていた。やっぱり君は嘘が下手。そう思うと少しは、俺の日常をはみ出した出来事は無駄じゃなかったように思える。ああ、俺も意外と普通の人間だったんだなんて、笑ってしまう。 満月を超えた夕空の月は、端から少しずつその姿を朧にさせていた。そうしてあの月はまた欠けて、消えていくんだろう。それが何十億年と繰り返された月の満ち欠けだから。 猫を埋めたのはどのへんだったかな、と河川敷の石の上を歩いていた。埋めた場所に置いた大き目の石を見つける。 それと同時に、暗がりの中であるものが俺の目に飛び込んできた。 「・・・」 それは薄い水色の手紙だった。 俺の手元にあるあの月の模様のブルーグレーの手紙とは一転、夏の爽快な高い青空のような色だった。墓の前に小さな石で押さえられた手紙をゆっくりと抜き取り、封を切って中の紙を取り出した。 英士君 言わなきゃいけないことが たくさんあるんだけど 私が今いちばん言いたいのは 私はあなたが大好きです もしかしたら、今走れば彼女はどこかにまだいたのだろうか。 その彼女を追いかけたら、俺はこの気持ちを吐き出せたのだろうか。 この朧な月は、俺たちをもう一度出会わせてくれたのだろうか。 出会えたことに後悔はないと、少しでも重なった彼女との想いがうれしくもあり、切なくもあった。 泣きそうになった。 それでも俺は上を向いて、感情を抑えた。 こんな真っ暗で誰もいないところで意地を張る意味なんてないけど、俺はぐっと、月を見上げた。それが今まで俺自身が信じて作り上げてきた、しつこいほどに曲げられない、”俺”という人格だった。 君と離れれば、悲しいって、わかってたんだ。 俺は、十分に、わかっていた。 ただ、思ってたよりずっと、ずっと、苦しいくらいに、悲しかっただけだ。 あの月はまた欠けて、それでもまた満ちてゆくのに。 俺たちのあの時間は、もう戻ってはこない。 俺の手の中でかさかさ、風に揺られる手紙。 それは満ちきった月がまた欠け始めた夜の、十六夜のラブレターだった。 |