暦上ではもう秋になったといえど、実際の空は青々としている。

夏休みが明けたばかりの世間は、いまだ夏の威力を発揮していた。









十六ラブレター










それでもあの、夏の象徴ともいえる真っ白な入道雲を見かけなくなったと言うことは、確実に季節は移り変わっているようだ。今日はもうただ傾いていくだけの太陽を見上げながら、じわっとまとわりつくような湿気を感じていた。


待ち合わせ場所は、美術館に一番近い駅の改札口。ちょうど学校が終わった時間だから学生が頻繁に通り過ぎていく。彼女の学校からのほうがこの駅には近いけど、まだ彼女は来ていないらしかった。

着いて早々彼女を探してあたりを見渡すと、目の前を通り過ぎていく女子高生とか中学生とかと、必ず目が合う。俺はそれが苦手だった。目が合って、俺はすぐに外すけど、相手はなにやらきゃあきゃあと騒ぎ出す。その空気が酷く居づらいもので、俺はすぐにでもその場から離れたい心境になる。だから俺は大抵電車やバスの中では本を持っている。本当は気持ち悪くなるから読みたくないんだけど、目を伏せているにはちょうどいい道具だから。

しかし今日は都合悪く、何も持ち合わせていない。俺はただどこと無く視線を散らして、その騒がしい駅の構内でひたすら存在を消していた。


「ねぇねぇ」


でも、本当に存在を消せるはずが無く(待ち合わせてるんだから消えたら困るか)横から見ず知らずの女の子が声をかけてきた。


「何してるの?」
「・・・」
「待ち合わせとか?あ、彼女ー?」
「・・・」


なんなんだ。賭けてもいいけど、絶対に知らない子。俺が一言も発さずにいると、返事くらいしてよー、とそれでも次々質問を投げかける。

女の子って、なんでこう集団になると途端に態度が大きくなるものなのかな。ああ、人って言うのは元来そういう生き物かもね。女の子に限らず。

俺のこの満面の嫌な顔がわからないのか(こういうとき感情が顔に出ないのって困る)彼女たちはどんどん迫ってくる。ふい、と目を離して完璧無視するけど、それがまたいいとかなんとか、全く引く気配が無い。結人でもいればこんなの、軽く相手して追っ払ってくれるんだけど。ああ、今なら結人を連れて歩きたい気分だ。

きゃあきゃあと周りでうるさい黄色い声(というのか?)にいい加減うんざりしてきた頃。女の子たちの後ろからひょこっと、覗き込むようにしてあの子、伊咲響子が顔を出した。


「あー、やっぱり」


彼女は何が起きているのやら、頭の上にいくつも「?」を浮かべるような顔をして俺を指差した。とにかくこんな状況から抜け出したい俺は、さっさと女の子たちの中から出て彼女を連れて駅を出ていく。もう絶対、こんな公衆の面前にひとりで立つまいと心に決めて。




「あはははははっ」
「・・・」


彼女は俺の隣で笑い声を響かせた。俺の不機嫌な顔を見て心情を悟ったのか、なんとか笑いを抑えようとしてるようだけど、まったく抑えられずにあまつ、涙すら浮かべている始末。


「ぎゃ、逆ナンとか、初めて見たー。スゴイ!すごいねー」
「なにもすごくないよ」
「いやぁ、スゴイよ、あは、あはははははは」
「・・・」


もはやこらえることも諦めた彼女は、俺の隣で笑い倒した。何がそんなにおかしいわけ。そう低い声で彼女に問いかける。


「だって、すっごい迷惑そーな顔!愛想笑いどころかニコリともしないんだもん」
「するわけないでしょ、迷惑なのに」
「世の男の子は日々どうやってモテようか必死になってるっていうのに、モテちゃう人はモテちゃうんだね」
「なにそれ」


彼女はまるで他人事のように泣き笑う。
っていうか、アンタもその内のひとりでしょ。

・・・なんて、そんなこと間違っても言えるはずもなく、まだ笑いが止まらない彼女から離れて、スタスタ歩いていった。
待ってよ、ゴメンてば!
謝りつつもまだ笑いを引きずって、彼女はパタパタと追いかけてくる。




初めて来た市の美術館は、外の暑さなど遠い世界のことのようにヒヤリとしていて、何の音も無い静かな空間が広がっていた。人の出入りもまばら。壁に等間隔にかけられた絵と、その上で絵を照らしてるライトだけの少し薄暗い世界だった。このまるで図書館のような、神聖めいた空気と匂いは、結構・・・というかかなり、好きだ。


「うわぁ、すごい細かい。油だよね、これ。うわぁー」


絵をひとつひとつ見て回っていながら、彼女はこれ以上ないくらい絵に近づいたりしてその色彩やタッチを凝視する。まるで隣に俺がいることすら忘れてるんじゃないか、というくらい、彼女は絵ばかり見つめていた。

でも、大して興味を示さない絵はサラッと通り過ぎる。どうやら彼女なりの好みがあるらしかった。俺はといえば、美術館に絵を見に来るのは初めてだけど、一度来てみたいと思ったこともあった。だから実際今日来てみて、いつかこの時間を思い返したとしても、無駄だとは思わないだろう。

順路に沿って絵を見ていくと、まだ廊下の途中にいるのに彼女は、突き当たりにある絵に目をつけて寄っていった。彼女が目をつけた、廊下の先にあった絵は、真っ白なだけの、何も描かれてない絵だった。


「なんだろ、これ」


彼女は腕を組んで、まるで推理小説の謎解きでもするように考え込んだ。俺もその真っ白な絵を見つめて考えた。

その絵は、近づいてよく見てみると、真っ白ではなかった。何色も色を重ねた上に白が被せられていて、重ねた絵の具の量で薄く影が出来ている。まるでその絵から水が溢れ出てくるように、ぐらり、視界が揺らいだような気がした。

ただの白いだけの絵なのに、ずっと見ていると、水面を見ているような微妙なマーブルが見えてくる。気がつけば俺も彼女も、その絵の前でただじっと、その絵を見つめていた。


はぁ・・・


隣で彼女が、細く長く、息を吐いた。言葉も出ないといった感じだった。どうやら彼女も、この真っ白なだけの絵に、何かが見えたらしい。

すごいなぁ。
彼女はまた、その言葉を言った。
でもそれは、さっき俺に投げかけたような軽いものじゃない。むしろきのう俺に絵を語ったときのような、賞賛の中に薄く嫉妬の入り混じったような、少しだけ曇った、感動の目。あまりに大きすぎる壁に、圧倒されて言葉もない。


「あら、こんにちは」


絵の前に立ち尽くしていた俺たちの横から、案内をしていたスーツの女性が声をかけてきた。しばらくその人を見つめていた彼女は、「あ」と口を開いた。


「また来てくれたの?気に入ってもらえてうれしいです」
「あ、はい・・」
「今日はいつものお友達とは違うのね」
「えっ、あ、はい、あの・・」
「デート?」
「いいえっ、違いますよ、全然そんな・・・」


冗談交じりに言った女の人の言葉に、彼女は俺と女の人を交互にみやって酷く慌てた。


「次、次行こう郭君!じゃ、あの、失礼します」
「ごゆっくり」


少しおかしいくらいに頭を混乱させている風の彼女は、勢いよく頭を下げて急いで俺の背中を押していく。


「そんなによく来てるの?」
「え?!あ、うん、あの、ほんとは最初、私の友達がここによく来てて、私もその子に連れられて来てて・・」
「へぇ」
「いやあ、まさか、顔覚えられてるとは、思ってなかったから、ねぇ、もお・・・」


ひとりでずっとブツブツ呟く彼女は、ぎゅっと胸の辺りを押さえていた。からかわれて恥ずかしい、のか、彼女は酷く動揺して、落ち着きなく体を動かす。知り合い、というほどの知り合いでもなかったらしいあの人にからかわれたくらいでこんなに取り乱すかな。そのとき俺は、ただそんな風に、思った。

でも、やっぱり彼女はまだ俺のことが好きなんだな、とか思って、それ以上その話題に深く突っ込む事は出来なかった。


「あの、楽しい?」
「ん?あぁ、楽しんでるけど?」
「ほんとに?」
「うん」


そろそろ出口に近づいてきたか、という頃になって、今さらと言うかなんと言うか、彼女は疑うように聞いた。どうやら、あまり俺が楽しそうに見えないらしい。


「遊園地とか行こうって言われるより全然楽しいよ」
「ああ、あんまりにぎやかなとこではっちゃけてるイメージはないね」
「伊咲さんはどちらかというとそっちのほうが好きそうだね」
「・・・」


絵を見ながら会話をしていると、突然彼女の返事がなくなった。それに気付いて隣の彼女に目を向けると、彼女はぽかん、と俺を見ていた。


「なに?」
「あ、いや、名前・・・」
「名前?」


ああ、そういえば、初めて呼んだな、彼女のこと。


「覚えてくれてたんだ」
「・・・まぁ」


彼女は不器用に微笑んで、かみ締めるように言った。
そして少しだけ、涙を浮かべた。

ただ名前を呼んだだけ。それも苗字なのに、そんなに感激すること?見ているこっちまでが恥ずかしくなって、俺は彼女から目を離した。なんだか体がじわじわと、こそばゆい感じがした。


「じゃあ次は遊園地で是非」
「だから嫌だって」


俺のその言葉を待ってました、とでも言うかのように、彼女は一転してケラケラと笑った。声が響きすぎて他のお客さんに注目を浴びてしまっても、彼女は気付かずに笑っていた。


「伊咲さんは、絵の勉強とかしたいの?」


俺がまた彼女を呼ぶと、彼女はにこりと笑って、うんと頷いた。


「今は部活程度だけど、高校もちゃんと絵の勉強出来るとこに行きたい」
「へぇ、もう高校とか考えてるんだ」
「郭君はまだ考えてないの?」
「ないよ」
「結構ゆっくりしてるんだね。あ、受験しないんだ?推薦?」
「まだ考えてないけど」
「ふーん」


・・・あれ、もしかして


「伊咲さんて、中3?」
「え?そうだけど?」


・・・やっぱり


「ああ、サッカーをずっとやっていくんだ?もしかしてサッカー選手目指してるとか?」
「それもあるけど。というか一応言っておくけど」
「ん?」
「俺中2だから」
「・・・」


そう、また隣の彼女と目を合わせた。彼女は目を丸くして、ぽかんと口を開けて、しばらく身動きひとつしなかった。

そして、


「えええ!?」


今度こそ美術館全体に広がるような、それもあまり聞き障りのよくない声を発した。やっぱりわかっていなかったらしい。
お静かにお願いします、と出口に立っている女の人に注意されて俺は頭を下げた。


「な、え?!ちょ、聞いてない!!」
「今言った」
「ええ!!だって、ええ?!」


恥ずかしい。取り乱して素っ頓狂に叫ぶ彼女から離れて、美術館を出た。後ろから急いで追いかけてくる彼女は「ほんとに?」を何回も何回も繰り返しす。


「うそだ!詐欺だ!」
「どういう意味」
「密かに今までビビってたのにぃ!!」
「そうだったの?」
「年下だとわかった瞬間になんか憎たらしくなってきた!!」
「しらないよ、そんなの」
「ぅあ〜憎たらしい〜!!」


じたばたと暴れて憤慨しながら隣を歩く彼女はもうすでに、おとなしかった最初の面影なんて微塵もなかった。

ああ、でも、これが本当の彼女なんだ。
このほうがずっと彼女らしい。

日が暮れかけた空に細い三日月が、にこりと笑って空に浮かんでいた。その月の、隠れている残りの部分を見たような、そんな気分だった。













 

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