人の目を惹きつける、不思議な魅力を持った月。 夜になると必ず見上げてしまうし、一度目が合うと、早々離せない。 日々少しずつ形を変えていくそれは、見ていてちっとも飽きないのだ。 十六夜ラブレター 地球の4分の1ほどの大きさ。その月の引力によって潮の干満が起こる。約30日間をかけて、月の見えない新月から半月・満月を経て、そしてまた新月へ戻っていく。地球と月が出来て数十億年、変わることのない月の満ち欠け。 「・・・」 学校の授業でも少しだけ習ったけど、どの本を見ても書いてあることは大抵同じ。人類が月に降り立ってから数十年、科学的な解明が進みつつも、まだわかっていないことはいくつかある。 「・・・」 満月の夜には不可思議な現象が起こる。それはただの偶然か、それとも、月の魅力が引き起こす、悪戯か。 「・・・?」 開いていた本に没頭していたが、何かを感じて本から目を離した。 「やっほー」 「・・・」 ゆっくり隣に目をやると本の向こうから彼女、伊咲響子が俺を覗き込んでいた。 「・・・なんでいるの」 「学校帰り。そっちは?」 「・・・練習前の時間潰し」 駅ビルの中の小さな本屋。いつも同じような時間を繰り返す俺たちが偶然出会っても、そう不思議なことではないか。偶然だねーと彼女はようやく笑顔を見せた。 偶然。 今までは他人だったから、知らずに通り過ぎていたのかもしれない。でももう「他人」ではない俺たちだから、会えば、声くらいかける。 「何見てるの?」 「月の本」 「月?」 彼女は俺の手の中の本を覗き込み、ふーん、と興味あるやらないやらな相槌を打った。 「あ、今日友達に聞いたんだけどさ、もうすぐ流星群が来るの知ってる?」 「知ってるよ、再来週でしょ」 「そうそう!あれってさ、流れ星みたいに星がわーっと降るんだよね?見たくない?きれいだろーね」 「まぁ、見たいけど」 「あれでもさ、願い事って叶うのかな」 「願い事?」 「流れ星に3回願い事言うと叶うってゆーじゃん。いっぱい流れるんだからさ、一気に言えばどれかにはヒットするんじゃない?」 「適当だね」 いーじゃん、叶うならなんでも! ケラケラと笑う。 一緒に見に行こう、とか言い出すかと思ったけど、それ以上その話はしなかった。 「月ってさぁ、今度はいつ満月になるのかな。きのう見たけどまだまだ半分にもなってなかったんだよね」 「月は2週間くらいで満月になるから、あと1週間くらいかな」 「そっか、あと1週間か・・・」 彼女は、ぽそっと、何か違うことを考えているように言った。 「何?」 「ん?何が?」 そう、俺に振り返って見せた笑顔には、そんな気配はもう微塵もなかった。だから俺もそれ以上、突っ込んで聞くことも出来なかった。 「ねぇ月ってさ、すっごい大きく見えるときってない?」 「ああ、あるね」 「ねー、あれってさ、ちょっと怖いよね。低いところにあってさ、しかも赤いのね!」 「月が大きく見えるのは、低い位置にいる時ほど建物とかでその大きさの比較がわかりやすくなるからだって言われてるよ。あと実際に地球の周りを回るときの遠近とかね」 「へぇー」 「月が赤いのは、月は地球を囲んでる大気を通して見てるんだけど、低い月ほど大気を通して見る距離が長くなるんだ。そうなると月の光は減って、加えて大気中の赤色は波長が長くて遠くまで届きやすいから、月は赤く見えるんだよ」 「ふーん。・・・君ってさ、勉強できる人?」 「・・・」 そう言う彼女は、出来なさそうなセリフを言った。 「今コイツ頭わるそーとか思ったでしょ」 「・・・」 何も言わず静かに彼女から視線を外すと、彼女はコラ、と俺の肩を裏手で叩いた。 「痛いよ」 「君は意外にイジワルだね」 「伊咲さんは意外に明るいね」 「え?」 「最初はもっとおとなしいタイプの人かと思ってた。手紙渡すくらいだし」 「・・・」 俺はいつだったか思ったことを、ふと言った。 すると彼女は、口を閉ざして手も後ろに、急に静かになった。 「べつに悪いって言ってるんじゃないけど」 「うん」 「俺が勝手にそう思っただけだし」 「うん」 そうは言っても、彼女はなぜか唐突に、”おとなしいタイプ”になってしまった。そうされると、俺もどうしたらいいかわからなくなってしまう。だって俺からは、何も生み出せない。 時々、そんな自分が酷く、嫌になるときもある。 「・・・」 「・・・郭君、」 「・・・なに?」 少しだけ沈黙が広がると、不意に彼女が口を開いた。 俺はどこか、ほっとする。 「郭君・・・かくくん・・・」 「なに」 「かくくん・・・?」 「なんなの?」 だんだんとぎこちなくそう呼び続ける彼女に訝しげな顔をしていると、くるっと彼女は俺を見た。 「かくくんってさ、言いにくいね」 「・・・」 この人、何考えてるのかよくわからない・・・ 「かくくん・・・かくくん・・・か、かくん・・・あれ?」 「言い続けると余計わからなくなると思うよ」 「言われない?言いにくいって」 「言われないよ、そんなの」 「なんで?めっちゃ言いにくいよ。みんな苗字で呼ばないの?」 「学校ではほとんど苗字だけど、そんなの言われないよ」 「ああ、そんな事言わせないオーラ出してるんでしょ。だってなんか近づきにくいもん、君」 「・・・」 それでも近づいてきたのは、 どこ の 誰 。 「郭、君。よし、ちゃんと区切ろう。そしたら呼べる。郭、君。ね」 「・・・」 「ねぇ郭、君。今日も練習なんだ?大変だね」 「・・・まぁね」 「将来はプロの選手だもんね、郭、君は」 「わざと言ってる?」 「わざと言わなきゃ言えないんだって」 「・・・聞きづらい」 「もーワガママだなぁ〜」 「・・・」 我侭? これは俺の我侭? 「いっそ改名しちゃえ」 「じゃあ下で呼べばいいじゃん」 「下?」 「・・・」 「あ、そうか、それもそうだね。でもほら、君はそういう馴れ馴れしいの、嫌がる人かなーってさ」 「べつに」 「あ、そう?じゃあ・・・今度から!下で呼ばせてもらおう」 「・・・」 ふふふ、 まっすぐ目の前の本棚を見る彼女は、意味ありげに含み笑いをする。 うれしい、とか言うよりも、何か堪えてるような・・・隠してるような・・・ 「ねぇ」 「ん?」 振り返る彼女はまだはにかんでいて、俺はある事を思い出した。 結人がよくする、何かを誤魔化したいときに作るぎこちない笑顔を。 彼女のソレは、全くソレだった。 「何考えてる?」 「え?何が?」 少し声を上ずらせて、挙動不審にすっとぼける。 どこからどこまでも、結人そっくり。単純で嘘がつけない。 「あーそうだ。郭君はさぁ・・・」 「下で呼ぶんじゃなかったっけ」 「・・・それはまた、今度から・・・」 「なんで」 「最初はさ、ほら、貴重じゃん?」 「べつに?」 俺がまっすぐ見つめると、彼女はふらふらと視線を泳がせて半笑いを浮かべる。 まさか、この人・・・ 「もしかして、俺の名前忘れた?」 「は?!ままさか!!」 ・・・正解。 「違うよ!違うってば!!ありえないから!!」 「・・・」 「ちょっと、あの、ええ〜?!」 信じられない。好きな奴の名前忘れるって、ほんとにこの人俺の事好きなの? 「・・・」 って、俺今、なんて言った?なんかすっごく、自惚れたこと言わなかった? うわ、バカみたいだ・・・ 耳がほのかに熱くなるのを感じて、彼女から顔を逸らした。 彼女はそれを、怒ったと、思ったらしいけど。 「ねぇ、あの、違うんだよ!あの、その〜!」 必死に言い訳を探す彼女は散々慌てふためいた後でおとなしくなり、ごめんなさい、と肩を落としてつぶやいた。 べつに怒ってないし。ていうか、怒る理由なんかないし。 ずっと俺を苗字で呼んでた彼女が、ふと俺の名前を忘れたって べつに 「あれー?」 俺の隣でひんひん泣きべそをかく彼女は、後ろからそんな声が聞こえてきて振り返った。でも顔を上げた彼女に涙なんて微塵もなくて、嘘泣きかよ、と思った。 彼女が振り返った先には、彼女と同じ制服を着た女の子が数人、彼女と俺を見て、やらしい笑顔を浮かべていた。その子たちを見て彼女は、大きく口を開ける。 「なになに、彼氏〜?」 「わっ!ちょ、違うから!あっち行っててよ!」 「なに慌ててんのー?アンタいつの間に」 「あーあー!!」 近づいてきて、からかってくるその友達らしき女の子たちに、彼女はしきりに大声を出して止めた。この前の美術館でもそうだったけど、彼女はこの手のことに関して酷く慌てる。そんなにからかわれることが嫌なんだろうか。 「じゃ、ままたねかっくん、れ、練習がんばってねっ」 「・・・うん」 「それでは、また!」 必死に友達を遠ざけて、ろくに俺の名前も言えないほどに慌てながら、彼女は本屋を出ていった。見えなくなっていく彼女はずっと友達にからかわれながら、怒っているようにも見えた。 「・・・変な人」 でも、飽きない人。 |