そうして少しずつ、少しずつ

それは、あの月が満ちてゆくほどに、ゆっくりと










十六ラブレター














今週末に大会の緒戦を控えているおかげで、学校が終わった後の練習が連日続く。だから俺たちは、家、学校、練習場、家、の、ローテーションな毎日。
また明日なーと、結人が背中に練習バッグを担いでしゃかしゃか、自転車で颯爽と消えていった。俺たちの中では一番家と練習場の距離が近い結人は、学校帰りから直接自転車でやってくることが多い。


「はえ。もう見えないし」
「結人こないだ埼玉まで行ったんだって」
「ああ、夏休み中だろ?その帰りにうち寄ってきたもん」
「嘘、一馬の家まで行ったの?」
「9時くらいに来て埼玉土産とか言ってコーラ置いてすぐ帰ってった」
「埼玉関係ないし」


真夏に比べて幾らか、日が落ちる時間も早くなった。薄暗い空は夕暮れも過ぎているけど、街が明るいせいで星も見えず、人の行き交いも減らない。さすがは、眠らない街。


「あ、悪い英士、俺走るわ」
「うん、また明日」
「バイバイ」


駅が近づいてくると、一馬は腕時計を見て走っていった。一馬の家まで乗り換えなしで走ってる電車は少ない。3分後に発車する数少ない電車を追いかけて、一馬は改札めがけて走っていった。
駅のホーム内に消えていく一馬を、ゆっくり歩きながら見送って、カバンの中の定期を探す。


「えーえーしー君!」
「・・・」


学生やサラリーマンが何人も行き交う駅の構内。ざわざわと騒がしい中でそんな間延びした声で呼ばれて、取り出した定期を持つ手を止めた。
声のほうにゆっくり振り返ると、俺と目を合わせた彼女がへらりと笑い、弾むように歩いて寄ってきた。


「まさか待ってたの?」
「まさか。学校帰りですよ」
「こんな時間まで?」
「うん、部活」
「ふぅん。美術部だっけ」
「お!覚えてるねー、さすが」
「生憎覚えたことは早々忘れない性質なんで」
「わー素敵。さすが頭よし・顔よし・スポーツ万能な英士君!」
「名前覚えてもらったそうで、光栄ですよ」
「あっはは。・・・結構根に持つタイプ?」
「まさか」


口ではごめん、と言いつつもその顔は全く気にしてなさそう。調子よく取り繕うとしてくるところまで結人そっくり。一回会わせてみたいくらいだ。


「毎日練習あるんだね、忙しいんだ」
「今は試合が近いから尚更ね」
「へぇ、試合いつあるの?」
「今週の日曜」
「どこで?」
「・・・」


見に行く、とか言いそう。ああでもこの前の流星群のときは言わなかったし。でもこの目の輝きようは、言うかも。


「うちの練習場」
「えーほんとに?見に行っていい?」
「・・・いいけど」


やった!
こぶしを握って彼女は笑う。


「サッカー興味あるの?」
「好きだよ?それに知ってる人が出てる試合って無条件に応援したくなるじゃん。うちお兄ちゃんがいてね?高校で野球やっててさ、お兄ちゃんは補欠なんだけど甲子園の予選中は応援しに球場巡ったからね!」
「へぇ」
「自分の大会もほったらかして走り回ってたら怒られて怒られて!」
「大会って?」


彼女はピタッと、大笑いしていた顔を止めた。


「大会とは言わないか。絵のさ、なに?展覧会?」
「ああ」
「締め切り近いのにほったらかしで、焦った焦った!」


そしてまた、ケラケラと笑い出した。


「なんか、今思うと、伊咲さんが絵描いてるところって想像つかないね」
「こらー、どーゆー意味よそれ」
「なんか合わない」
「失敬な!めちゃめちゃ文化人だっつーの」
「そういうところがもう似合ってないんだよ」
「インテリに見えて実はサッカー選手目指してる君に言われたくないよ」


じっと彼女を見据える俺にべーと舌を出す彼女は、最近歯向かうことを覚えた。でも俺がふいっと顔を背けると、彼女は思いとどまって掌を返す。


「ゴメン、ごめんなさい!言い過ぎました」
「べつに」
「ごめんってば、怒らないで〜」
「怒ってないよ」
「怒ってるじゃんその顔!」
「元々こーゆー顔なの」
「ダメだよ?そんな顔してるとね、幸せ寄ってこないよ?」
「なに、幸せって」


思わず笑ってしまうと、その俺を見て彼女はガッツポーズをした。

なんかあたし、英士君笑わせることに生きがい感じてきたかも。
そんなことを軽く呟く彼女に、また笑った。


彼女の距離のとり方は、妙に心地よかった。
近すぎず、でも離れていかず、隣にいても嫌だとは思わなかった。


「あ、英士君見てー」


俺を呼ぶ彼女の声はあまりに自然と俺の耳へと届いていた。まるで今までもそう呼んでいたかのように。

空を見上げる彼女の視線の先には、半分に膨らんだ月が浮かんでいた。


「上弦の月」
「なにそれ」
「新月から満月になる途中の半月をそういうんだよ」
「へー。さっすが」


駅前の広場はもう暗くなっていたけど、そのおかげで輝きを増した半分だけの月。人が駅に吸い込まれていく真ん中で、俺たちは同じように空を見上げた。


そんな、穏やかな空気を感じていたときだった。


駅前の交差点で車が急ブレーキを踏んだ、キキーッと耳を突くような音がした。そしてその後でドンッと重く鈍い音が、はっきりと辺りに響いた。駅前にいた大勢の人々が足を止めて振り返るのと同じように、俺と彼女もその騒がしいほうに目をやった。人々が足を止めて集まるから見えにくかったけど、その人だかりの向こうで、一台の車が急いで発車して消えていった。
群がる人たちは何かを見ながら騒いでいたけど、しばらくすると人々は何もなかったように駅に向かってまた歩き出す。そうしてだんだんと元の空気を取り戻した駅前の交差点に、暗がりの中で、黒い塊が見えた。

それは、この都会で冷たくただの物となってしまった、猫の死骸だった。道路に赤黒くその血をこぼし、動きさえすればかわいがられるだろうまだ子猫が、人々に避けられて無残に横たわる。この街ではそうめずらしいものでもない。犬でも猫でも、もしかしたら人だって、ここの人々は避けて歩くのだ。


「・・・」


すっかり普段の雑踏を取り戻した駅前で、やけに静かな隣の彼女に目を移した。俺たちの周りを通り過ぎる女子高生同様、かわいそうーとか、彼女も言うかと思ったが、彼女はただじっと静かな瞳で、暗闇に溶けかけている猫を、見ていた。


「どうかした?」


俺がそう声をかけても、彼女は猫から目を離そうとしなかった。
ただじわじわと込み上げる感情に顔を歪めて、こくり、息を呑んだ。ふと目をうつむけて、少しずつ、気持ちを落ち着けるように浅く呼吸を繰り返した。


「どうしたの、大丈夫?」
「・・・ん、なんでもない」


俺の問いかけになんとか笑おうと口を開くけど、彼女は声にならない言葉を漏らして、震える口唇をかみ締めた。なんでもないと言っても、彼女は酷く苦しそうで、悲しそうで、今にも泣き出しそうだった。


「・・・、」


そんな彼女になんと声をかけていいのかわからないでいると、彼女はとうとう、関を切ったようにボロッと涙を落として、うずくまって泣き出してしまった。


肩を震わせて、声を殺して、力いっぱい自分を掴んで、彼女は薄暗い都会の真ん中で静かに泣いた。

なぜ彼女が突然泣き出したのか。
俺の知っている、気丈に笑っていた彼女は、見る影もない。



・・・



空は真っ暗になって、駅と街の明かりがぼんやり闇を照らして、駅からは少しずつ人が減っていった。俺たちは話し込んでいたおかげで駅前の広場の柱の近くにいたもんだから、うずくまった彼女は道行く人々の注目を浴びようとも、邪魔にはなっていなかった。

そんな彼女はしばらく泣いて、次第にゆっくりと、震える肩も声も落ち着けていった。


「・・・英士君」
「ん?」


そして、やっと彼女は涙をぬぐって鼻水をすすって、少し掠れた声で俺を呼んだ。


「ごめん」
「いいよ」


彼女は、ずっと隣にいた俺にいろいろ言いたかっただろう、少し考えて、でもただそれだけ言った。


「大丈夫?」
「うん」
「立てる?」
「うん」


彼女の隣から立ち上がると、彼女も伏し目がちに立ち上がって、また目をこすった。


「少し付き合ってくれる?」
「え?」


腫れた目を押さえて、彼女は俺を見た。そして歩き出した俺のあとを、ひょこひょこついて歩いた。駅から離れて歩いていく俺はカバンからスポーツタオルを出して、まっすぐ交差点へ歩いていく。


「何するの?」
「このままほっておくのも、かわいそうでしょ」
「・・・」


交差点の端っこで、忘れられたように落ちている猫の死骸。それはもう、この世のものではなくなってしまった猫の器。生き物としての体温を徐々になくし、強靭な鉄の塊にぶつかったおかげで首の骨が突出していて、片目がなかった。
それにタオルをかけて、血で張り付いて固まった毛を道路からはがして、持ち上げる。


「どっかに埋めてあげよ」
「・・・ん」


また彼女はゆらり、瞳を波立たせて、タオルに包まれた俺の手の中のそれに、そっと手を添えた。痛かったねとやさしく撫ぜて、ぽろぽろ、涙を落とした。


そうは言っても、この都会には子猫1匹すら埋める場所も、そうそうなかった。


俺たちは歩いて歩いて海の近くの川辺まで来てしまって、河川敷の石ころの下に穴を掘った。素手ではそう深く地面を掘れなくて、小さな猫がやっと埋まるくらいの、浅い穴だった。そこに子猫を寝かせて、土をかぶせて、その上に大きめの石を置いて、彼女がどこかからとってきた花を添えた。


「次に生まれてくるときは、幸せになれますように」


土にまみれた手を合わせていた彼女は、半分だけの月を見上げて、その月に子猫の幸せを祈った。


「流れ星じゃなくていいの?」
「月の方がおっきいから、叶えてくれそう」


彼女の言葉にふと笑って、俺も半月を見上げた。


皮肉にも、都会からほんの少しだけ離れたそこでは、月がより一層光り輝いていた。いや、それがいいのだ。人口の光が少ない場所だからこそ月は輝き、人はあの遠い月を見上げて思いを馳せるのだ。


そんな半月の明かりの下、俺たちの汚れた手と彼女の涙は、ささやかな祈りとなって、同じように光り輝いていた。


「英士君」
「ん」
「ありがとう」
「・・・ん」


月明かりのようにやわらかく、でもそれは今にも消えそうな大きさで、彼女は言った。

俺が猫の爪のようだと思った、彼女が笑ってるみたいだと言った、あの月。あのときはまさか、その月が半分になるときもこうして一緒にいるなんて思いもしなかったのに。ゆっくりと時間をかけて膨らんでゆく月のように、ゆっくりと俺の心の中に、膨らんでいった。


それは、祈りにも似た

ちっぽけな、感情―。















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