あなたを想って2億年




赤星奨志という男を、本気で一度、殴ってやりたい。

「おーっす
「いった・・・」

廊下の先から数人の女の子にキャッキャ言われながら歩いてきていた赤星が、隣を通り過ぎようとした私の頭を会話のついでのようにパシンと叩きそのまま歩いていった。
叩かれたところを押さえながら、何ごともなかったかのように歩き続ける赤星の背中を睨むと、赤星と一緒に歩いてる女の子たちが私に振り返り、だれー?と赤星に投げかけている。私はすぐ進行方向に向き直し、その子たちに顔を覚えられる前に、先を歩きだした。

まったく、高校入学早々女の子はべらせて、何様のつもりだ赤星奨志。
ちょっとカッコいいからって。ちょっと顔がいいからって。ちょっとイケメンだからって。

「・・・どれも同じか」

腹ただしいまま教室に着き、窓辺の席に持ってた教科書をドサッと置いて座った。
休み時間の教室は、クラスによってガラリと色が違う。
人が大勢集まって幼稚園のように騒がしいクラスもあれば、人が少なく静かなクラスもある。
静かなクラスで良かったと、カバンの中から読みかけだった文庫本を取り出し、栞を挟んだページを開いて文字を目で追った。

「友達いないのかよ
「・・・」
「ああ、本が友達?文学少女ってヤツだ」

突然ひとつ前の席にドサッと座ってきた赤星が、頬杖ついてフンと鼻で笑ってきた。

「同じ学校来るならそう言やいーのに」
「入学式まで知りませんでした」
「またまた、ホントは俺のこと追っかけてきたんじゃないの?」
「そっちこそ、野球部が強いとこ行くって聞いたけど」
「ここが一番うちから近かったからさ。野球部が強くなくても俺がうまいし?」
「・・・」
「いまカッコいーって思っただろ」
「バカっぽいって思った」
「またまた」
「何か用なの?用がないんならどっか行ってよ。ていうかさっき教室のほうに歩いてったのになんでここにいるの?」
「あ、俺がC組って知ってんだやっぱ」

ムカッときて本から赤星に目線を移すと、赤星が意味も分からないふわっとした笑顔を向けてきたものだから、私は何も言い返さずにまた本に目を戻した。
ダメダメ。こいつのペースに巻き込まれちゃ。

「あと、いちいち声かけないでほしいんだけど」
「あーゆーのがうれしかったりすんじゃないの?優越感ってヤツ?」
「迷惑でしかないです」
「ああ、俺にかまわれると他の女から反感を買う?友だちも出来にくくなるしな、休み時間に本読むしかなくなるしな」
「反感買う理由なんてないし友だちもいるし本は好きで読んでるの。ジャマだからどっか行って」
「無理すんなって、俺お前のこと嫌いじゃないから」
「あっ」

パッと私の手から本を取りながら立ち上がった赤星は、特に興味もなさそうに机の上に置いて去っていった。何すんだと赤星を目で追っていると、周りの子たちが教室を出ていく赤星と私とを交互に見ていたから、私は前を向き直しまた一度本を開いて文字を目で追った。

まったく、なんだって言うのあいつは。
うぬぼれ屋。自信過剰。無神経。ナルシスト。
栞を外してた上に文字を目で追っていても頭には入ってなかったからどこまで読んだのか分からなくなった。ちくしょう。

赤星奨志という男と私の関係性を言葉で表せば、ただの中学の同級生でしかない。
今では高校も同じになってしまったが、知り合いというほどの仲ですらない。
なのになぜ、あの赤星がこうして私に気軽に話しかけるようになったのかというと、それは中学2年の秋にまでさかのぼる。

私は本を読むのが大好きな一少女だった(自分で少女というのもどうかと思うが)。
毎日何かの本を持っていたし、図書館の本は誰よりも多く借りていたし、自分で物語を考えたりもする、私の唯一で最大の趣味と言い張れるもの。
本の世界は無限大だ。いつでもまったく別の世界へ飛び立たせてくれる。
文字を一つ一つこぼさず読みとって、書き手が表したい世界に準じながら、やってくる出会いや発見に期待や絶望をくり返す。素敵な世界だ。

・・・そんな私だったから、つい、というか、なんというか。
夢と現実が不意に混ざってしまう時があり、何を思ったか、図書館の窓から見下ろせる学校のグラウンドで野球をしてた、人一倍目立つあの赤星奨志という男に、目を奪われ心揺るがされてしまったのだった。いつからか本の世界は少しずつ私から離れ、図書館の窓から見える、本の中から飛び出てきたかのような男の子に、私はすっかり惹きつけられてしまった。

でもべつに、その人を好きだとか、はっきり思っていたわけじゃない。
あの赤星の周りにいつも集まってる女の子たちみたく、あの人に近付きたいとかしゃべりたいとか、よもや、恋がしたいとか、思っていたわけじゃない。
けど、いつの時代も本の世界を彩ってきた、いわゆる”乙女心”は、事実私の中にもカケラ程度に存在し、あの赤星奨志という男の子を、本の文字以上に目で追ってしまうようになっていたのは紛れもない真実だった。

それが、ある、秋の夕間暮れ。
いつも通り図書館で本を手に取り、窓辺の席に座ったとき。
片手間のように本のページをめくりグラウンドを見下ろすと、いつもそこで野球をしてる男の子たちの中に、お目当ての”赤星くん”がどこを探してもいなかった。どうしたんだろ、今日は野球しないのかな、まさか病気とかじゃないかな、なんて少女さながらに心配した私に、かけられた誰かの声。

『お前いっつもここから俺見てるだろ』

突然の声にビクッと驚き本を手からこぼして、声がしたほうに勢いよく振り向いた。
誰もいない図書館の、棚が並ぶ奥のほうに、野球の練習着のまま床に座り込んでた、赤星奨志がいた。

『何言ってんの、見てないよ』
『またまた。グラウンドからだってちゃんと見えるんだぞ』
『見てないよ、見てないったら』

まさか、ずっと見ていた人が今目の前で自分に話しかけている。
その上私がここからずっと見ていたことがバレている。
こんなことが現実に起こるのか。こんな人が現実にいてしまうのか。
ドキドキやらビクビクやら、とにかく混乱する私の前で、赤星奨志は立ち上がり私のそばまで近寄ってきて、そしてあの、意味も分からないふわっとした笑顔を見せた。

夕方だったからか。赤星が笑ったからか。
自分の頬がポッと赤くなったのを、感じた。
・・・けど、赤星奨志という男は、まさか本から飛び出てきた好青年、ではなかった。

『ま、俺は高嶺の花だけど、好きになんのはあんたの自由だよ』
『・・・は?』
『あんたのものにはならないけど、誰のものにもならないから、俺は』

飄々と、一方的に放つ。
言ってる意味も言いたいことも、赤星奨志という男も、まるで分からなかった。
とにかくそれ以来、赤星は私を見かけるたびイヤミな笑顔を向けてくるようになった。


『いった・・・』

時間が経つにつれ、イヤミな笑顔だけだったのが声をかけてくるようになり、からかうように触れたり意味のわからない話を振ってきたり、名前を呼んでくるようになった。

、メジャーリーグって知ってる?』
『知らない』
『野球の最高峰だよ。中学野球の、高校野球の、大学野球の、プロ野球の、その上だ』
『はぁ・・・、それが?』
『俺メジャーリーガーになるんだよ』
『・・・へぇ』
『あ、いまコイツバカだとか思っただろ』
『べつに思わないけど』
『ウソつけ、目が言ってるよ』
『勝手に私の気持ちを決めつけないでよ』
『だからな、俺は世界中に名を知られるほどの男になるから、お前のものにはなれないんだ』
『だから、勝手に私の気持ちを決めつけないでってば』

赤星は昔からそんなヤツだった。
うぬぼれ屋で自信過剰で無神経でナルシストなガキだった。

ただ、誰よりも野球はうまかった。
誰よりも、自信の分だけの実力を持っていた。
それを鼻に掛けまくる嫌なヤツでもあったけど。

そんな赤星がなぜか、野球部は大荒れだと悪評高いこの学校に入学した。
だけど、そんな悪評を吹っ飛ばす勢いで毎日練習に明け暮れてる野球部に、赤星の姿はない。
中学野球の高校野球のプロ野球の、そのまた上に行くんじゃなかったのか。
高校野球ですでにつまづいてるじゃないか。

「よ」
「・・・」

中学時代の一部を除き、再び一日の大半を本と過ごす生活を取り戻した私の前に、またヤツがやってきた。窓辺のテーブルでグラウンドに向かって座ってる私の、隣のイスにドサッと座って頬杖ついて、学ランをだらしなく着込んでる、赤星。

「相変わらず文学少女だねぇ」
「何か用?」
「グラウンド見てたって俺はいないよって教えにきてやったんだよ」
「見れば分かる」
「あ、やっぱ探した?」

一度隣の赤星に目をやり、ゆっくり本に戻す。
ぺらり、ページをめくる。

「野球しないの?」
「気になる?」
「メジャーリーグ行くんじゃなかったの?」
「あ、覚えてんだ」
「タバコやめたら?」
「お、匂いする?」

くんくん、赤星は袖の匂いを嗅ぐ。
ぺらり、私はまたページをめくった。

「練習なんて凡人がやるもんなんだよ。そもそも高校野球なんかに一生懸命になって、もし肩でも壊したらどーすんの。俺ほどのヤツがこんなとこでつぶれたらもったいないだろ?」
「・・・」
「計算外だよ。ここの野球部ならもう死んでると思ってたから入ったのに、毎日泥にまみれて練習しちゃってさ。せめていい土敷けっつーの」
「・・・」
「おーい、人の話聞いてる?」
「聞いてないよ」
「またまた。俺の話が気にならないわけないじゃん」
「ならないよ」
「またまた」

頬杖ついてグラウンドを見下ろす赤星の目線の先に、野球部グラウンド。
練習に集まってくる上級生が準備運動して、ランニングを始めるところ。
それを傍観するかのような赤星の、隣から、席を立ち離れていった。

「あれ、もう終わり?今日は早いじゃん」
「赤星がいるからよ」
「遠くの俺見てるより近くにいるほーがうれしーだろ?」
「興味ないよ」
「またまた」
「ないよ。カッコ悪い赤星なんて、興味ない」

本を棚に戻して、また席に戻る。
カバンを肩にかけて、じゃあねと歩いていく。



ぽつりと聞こえた赤星の声に、ドアの手前で振り返る。
ランニングの声が聞こえてるグラウンドを、頬杖ついて見下ろしてる赤星。

「メジャーってどこにあんだっけ」
「は?」
「メジャーってなんだったっけ」
「なに言ってんの?」
「野球って、なんだっけ」

夕暮れのせいか。空っぽな図書館のせいか。
赤星の背中から、いつも無駄なくらい背負ってた自信が、まるきり見えなくなってた。


「なによ」
「お前の好きな俺は、どんなんだ?」
「・・・」

重力に負けそうな体を支えてる、赤星の最後の頬杖。

「赤星は、自信過剰でナルシストで無神経で嫌味っぽい」
「ヒデーヤツだな、俺って」
「でも、カッコいい」
「・・・」
「しょげてる赤星なんて気持ち悪い」
「はは、ヒデー」

体を支えてた頬杖を解き、ずっとグラウンドを見下ろしてた赤星が立ち上がる。
背中にほのかな、自信を背負って。

「お前、英語出来る?」
「は?」
「英語だよ、しゃべれる?」
「しゃべれはしないけど・・・」
「じゃあ必死に勉強してしゃべれるようになれ。3年で」
「は?」

くたくたのカバンを掴んで、夕焼けを背負う赤星が振り返る。
あの意味のわからない、ふわっとした笑みを乗せて。

「お前が英語しゃべれるようになれば、俺は勉強しなくていいだろ」
「意味が分かんない」
「俺はヒマになるから、しょうがない、あの野球部で、野球やって待っててやるよ」
「・・・」

光栄に思え。
あご突き出して、人見下して、赤星は偉そうに言い放った。

こんな赤星に騙されてたまるか。
サヨナラ。とふいっと見放して、私は図書館から出ていった。
ほだされてたまるか。ときめいてたまるか。認めてたまるか。

「お前もっと素直になれよ、俺のこと好きなら好きってさ」
「私のどこをどう見たら赤星のこと好きなように見えるの?」
「全部だよ全部。お前は全身で俺のことが好きだと言っている」
「バカじゃないの?」
「バカじゃないの」
「幸せ者」
「ああ、幸せ者だな」

意味のわからないふわっとした笑顔の赤星は、まだ自信に満ち溢れてはいないけど。
何か、別の、それはそれは赤星らしくないものを、新しく手に入れた気もする。
それが何かは分からないけど。

だからといって私は、赤星が好きではない。断じて。
読んでた本の内容をまったく覚えていなくても、好きとは認めない。
私は赤星に恋などしていない。

「2年越しの恋が実ったな、

・・・この男、本気で殴ってやりたい。

「何のことでしょうか」
「またまたぁ」

もし、恋をしてるとしたら、それはきっと私ではないから。
たぶん、叶わぬ恋でもしてた前世の私が、今でもしつこく赤星を想っているのだ。
想うあまりに時代を飛び越えてまで赤星を追いかけてきてしまって、でも残念なことに現代の私はそれに準じてなんかやらない。

だから私じゃなくて、私に組み込まれてるDNAかなんかが、こんなに赤星を求めているんだ。

きっとそうだ。そうに違いない。




あなたを想って2億年