恋の行く先に、また




音もしないくらいの霧のような雨だ。
細かな雫は傘の上を滑り降りて、まるく転がり落ちていく。
雲の中でだけ光がこもって、地上まで明るさを降ろしてくれない。
群青色の世界はどこか幻想的で、神秘的。

今日の夕飯と明日の朝ごはんのパンだけが入った軽いビニール袋を指に提げ、カンカンとアパートの階段を上がっていきながら傘を折りたたむ。雨がどんなに霧のようでもまとまってしまえばすべては同じ、ただの水。コンクリートにポタポタと黒ずんだシミを作っていく。重い体で階段を上りきり、カバンからカギを取り出しながら最奥のドアへと近づいていく。

「・・・」

カギをさすにはまだ少し早いところで、足を止める。
まるで明日の朝一で出さなきゃいけないゴミ袋のように、青緑色したドアの前に居座る男がひとり。
見覚えのある髪色。見覚えのある制服。見覚えのあるカバン。

「なにしてるのよ」

コツコツ近づいていって、座りこんでる頭の上のドアノブにカギを差し込み回す。
ガチャンとカギが外れた音と同時に、伏せていた頭を上げ私を見た、見覚えある瞳。

「雨が降ってきて」
「帰り道じゃないでしょ」
「寒くて」
「濡れてるね、いつからいたの?」
「体が固まるくらい」
「どいてくれないと開けられない」

その時の私の頭によぎったのは、アレだ。
雨の公園で小さな鳴き声を聞きつけて、茂みのほうへ寄っていくとよれよれの段ボールの中に、白が黒ずんだ、小さく頼りない仔猫が1匹。みたいな。

重そうな腰を持ち上げ、肩から提げたスポーツバッグを引きずって立ち上がる藤真君は、まっすぐ立ってしまえば私の身長など優に超して、柔らかくもシャープなアーモンド形の目で私を見下ろした。
私はその目をはっきりと見返す、前に、ドアを開けて中に入る。
ゆっくり閉まっていくドアが光を閉ざす、手前に、閉まるのを止めた藤真君が中に入ってきた。

「お邪魔します」

靴を脱いで中に足を踏み入れる前に丁寧につぶやいた彼の言葉が笑えた。
この育ちのよさそうな雰囲気や佇まい、歳不相応に落ち着いた眼差しや声色が、同じ年の他の子たちとは明らかな一線を引く所以だろう。

「今日は部活は?キャプテン」
「雨が降ってきたから」
「体育館が雨漏りでもした?」

ポットに水を入れ火にかけながら、またおかしく思って笑った。
この雰囲気と佇まいと眼差しと声色で、発する言葉はどこか不思議めいているから、迂闊にもこの子をかわいいと思ってしまったのだ。あの学校でこの子を”かわいい”なんて表現する人は教師にも生徒にもいないだろうけれど。

「座ったら?」
「濡れてるから」
「あ、そうか、タオルタオル」

じゅうたん敷きの居間の手前で立ち尽くしていた彼に、引き出しから取り出したフェイスタオルを差し出すと、頭と肩に雨の雫を乗せた彼はポンポンと丁寧に水分を拭き取る。ひとつひとつの所作が緩やかで丁寧でだけども無駄がない。白く、きめ細かい肌は女の子のよう。

「なに?」
「うん?肌がきれいだなと思って。女の子みたいね」

目の前で彼を見上げつぶやくと、へそを曲げたしかめっ面で見下ろされる。
その顔にふと笑ってしまうと、彼のしわ寄った眉間はゆるりと解け、物静かな涼しい目でまたジッと見下ろされた。

「・・・」

決して外れない目線。その目から、先に逃げたのは、私のほう。

「そろそろ、全国大会の時期なのかな」
「うん」
「今年で最後だもんね、行けるといいね」
「見にこれば?」

彼の言葉にふと笑みをこぼして、沸きだしたポットのほうへ戻った。
火を止めて、インスタントのコーヒーカップに湯を注ぐ。
白い湯気と柔らかな香りが立ち込めた、そのとき。
湯気よりも香りよりも柔らかく、大きな腕が私を背から包んだ。
寄り添った体温は一瞬冷たく、次第に温度が混ざって熱が移りこんでくる。
軒下から垂れる雨の雫が窓の外でポタポタいう以外、無音の空気が流れる。

「先生」

背中に寄りそう彼の、腕の力が一層ぎゅと強まった。
細かい雨に濡れた肩。水の滴る茶色い髪先。近づくほどに響く鼓動。
ぼそりと動いた、肌に添う口唇。

「もう先生じゃないよ」
「・・・」
「これ飲んだら、帰ろうね、藤真君」

しがみつくような。伝えたいことがあるような。
冷たく強い腕を解いて、あたたかいカップを握らせた。
雨に打たれて、冷えてしまってはいけない体なのだ、彼は。
学校の期待と全校生徒の羨望とチームメイトの信頼を背負った、稀な人。

ふてくされるようなとがった口がカップに添う。
大人びた顔とは裏腹に甘えたがりな目はまた少し不機嫌そう。
それでも彼の視線は相変わらず迷わない。

飲み終わったら帰るから。

彼は苦手なコーヒーを、女々しくちびちびと舌に移す。




恋の行く先に、また