あしたになれたら




 雲が重たい灰色の空。隣を歩く藤真はそんな空を見上げながら歩いてる。
 大きな背丈でさらに上を向いて歩くから、そのうち何かにけつまずいてこけるんじゃないかとポツリ思う。

「そんなに上ばっかり見てたらこけるよ」
「そんなドジじゃない」
「でも前に花形くんが、藤真は意外とドジだから試合で他校に行ったりすると何かしら忘れ物してくるって言ってた」
「どんな告げ口だそれ」

 空から私に視線を変えた藤真が、苦い顔で口端を緩めた。
 まだ私と藤真が、こんな風に隣合って、手を繋いでは歩けなかった頃、教室の一番うしろの席に座る黒ぶち眼鏡の花形くんが、教室の真ん中でたくさんの人に囲まれる妙にキラキラした藤真を見ながら言っていた。

 周りが思ってるほど藤真は大人じゃない。
 周りが期待するほど藤間はカッコよくはない。
 周りが言うほど藤真は優しくない。

 最初は、同じ部活仲間でありながらそんなことを言う花形くんと、翔陽のスーパースター藤真との間にどんなひずみがあるのかと案じてしまっていたけど、周り同様、勝手に「バスケ部の藤真くん」を作り上げていた私は、花形くんのおかげできちんと藤真健司というひとりの男の子を色眼鏡なくまっすぐ見られるようになった。

は、花形と仲良いよな」
「仲良いっていうのかな。話しはするけど」
「花形はそんなに女子と話さないだろ」
「そうだね、あんまり見たことないね。話しかけにくい感じするもんね、花形くんって」
「でもはよく話すよな」
「よく話すほうかな。見た目ほど怖くないのにね、花形くん」

 私はたまたま今年になって同じクラスになり席替えで近くになり、お互いひとりで席に座ってることが多かったから、何の本読んでるのかとか何の音楽聞いてるのかとか、他愛ない世間話をするようになっただけなのだけど。周囲の女の子たちからすると、体が大きくて真面目で口数も少なく無愛想な印象を受ける花形くんはそれは近寄りがたい存在だろう。

はそういう、周りの噂に流されないところがいい」
「そうでもないと思うけど……。藤真のことは普通に、キラキラしたモテ男だと思ってたし」

 なんとなく握る手に力の入った藤真は、目線を重い雲に当てながらなんだか難しい顔をしている。こんな顔をする藤真はとても子どもっぽい。周囲に抱かれる安易なイメージに一番ギャップを感じているのは、チームメイトの花形くんより、藤真本人だ。

 まぁいいやと自己完結して、藤真はゆっくりした歩調で一歩ずつ歩く。
 これも、テキパキ、ハキハキした印象だった藤真の意外のひとつ。
 ゆっくりゆったり。大きな歩幅なのに私とそう変わらない速度で。合わせてくれているのかな。だとしたら藤真は周りが思ってる以上に大人だし、周りが期待する以上にカッコいいし、周りが言う以上に優しい人だと思う。

「あ、雨の匂い」
「ほんとだ」

 また暗雲の空を見つめ歩く藤真がポツリ呟く。
 どんよりした空から今にも降り出しそうな雨の予感が漂ってくる。
 雨の匂いが分かるようになった藤真は空を見上げながら得意げに笑った。

 あれは、三年になって最初の行事だった陸上記録会の時。
 梅雨前とあって空は今日みたくぐずついていて、グラウンドに集まっていたクラスメイトの中で雨の匂いを感じ取った私が、今の藤真みたく「雨の匂いがする」と呟いたことがあった。

 それをたまたま前にいた藤真が、聞き取ってひょいと振り向いた。
 一年生の頃から有名で、三年でバスケ部のキャプテン兼監督というよく分からないくらいの地位を築いた彼を、私はもちろん存じてはいたけれど、こうも目の前でその綺麗な顔を見るとさすがにドキッとしたのを覚えている。ジッと見下ろされ、私はまったく意味が分からずおどおどしながら見返して、そして藤真はしばらくしてやっと口を開いた。

 雨の匂い?

 ……雨の匂い、しない? と聞き返すと、藤真は空に顔を向けて鼻を動かした。
 わざわざ嗅ごうとしなくても雨の匂いはもうグラウンド中に充満していると思うのだけど、藤真は分からないみたいで眉をひそめながら首をかしげながら、しきりに雨の匂いを感じ取ろうとしていた。

 そんなことがあった数日後。
 雨で薄暗い教室で藤真が突然私に声をかけてきて、それも何やらたいそうニコニコと嬉しそうな顔をしながら、雨の匂いってこれ? と制服のジャケットを私に差し出してきた。どうやら登校中に雨に打たれた藤真は制服についた匂いを私に差し出したんだけど、それはただの湿気臭さでしかなく、だけども説明しづらく、雨はもう少し自然と混ざったような酸性っぽい感じの……としどろもどろになって、結局ふたりでうーんと首をかしげたのだった。

 あれから夏を経て、太陽の威力とは裏腹にしょぼくれた藤真は、雨の匂いが分かるようになった。

「もう着いた」
「うん」
「もっとゆっくり歩くんだった」
「雨降ってきちゃうよ」

 私は笑って返すけど藤真はまた不機嫌に口唇を尖らせる。
 ゆっくり歩くのは私に合わせてたんじゃなくて、単に家に着くのを延ばしたかったから。大人ともカッコよくとも優しくとも程遠いただのワガママ。だけど私には、歩調を合わせてくれるよりもずっと心地よい藤真の愛情の持ち方。

 むやみに事を荒立てたくない性分な私たちは、学校ではもちろん、その周辺でだって手を繋ぐどころか隣を歩くことだってしない。だけどこんな、奇跡にほど近い藤真の部活のない日は、藤真が私を家まで送ってくれる。自分が下りるはずの駅を通り過ぎて私の駅で一緒に下りて、私を家までゆっくり送り届けた後、藤真は歩いて家まで帰っていく。

「カサ持ってくるから待ってて」
「いいよ、走って帰るから」
「持ってって」

 まるで犬に待てというように言い聞かせて中に入ろうとするけど、藤真が手を離さないから当然私はグンと引き止められた。大人でカッコよくて優しいみんなの憧れの藤真さんはどこへやら、まるでいたずらっ子のような顔で笑う藤真は、人一倍ワガママだし自分勝手だし嫉妬もするし酷く寂しがり屋だ。ペチンと手を叩くとまた口先を尖らせた。

「あーあ。もっと早く雨降ってくればカサさして歩けたのに。アレ夢なんだ」
「カサ持ってなかったじゃない」
「自転車の二人乗りも夢なんだ」
「それはいつでも出来るんじゃない?」
「あと家で一緒に勉強するのも夢なんだ」
「じゃあ次のテストは一緒に勉強しよう」

 大きく強い目標を誰よりも努力して頑張って自分の力で掴もうとしてる藤真なのに、バスケ以外の夢はとても慎ましく可愛らしい。

がどんどん俺の夢を叶えてくれる」

 ポンとカサを広げた藤真は嬉しそうに、けれどもほのかに寂しそうに笑った。
 夢が叶うことが怖いなんて、どれだけの努力を費やせば抱ける感情なんだろう。

「もうひとつあった。夢」
「なに?」

 肩にカサを乗せる藤真が高いところから私を見下ろし、背の暗雲とは裏腹に今度は晴れやかな笑顔を咲かせると、大きな体を屈ませ開いたカサの中で口先をポンとあてがった。

 驚く、とは違う。だって藤真が近づいてくるのは分かっていたから。
 ときめく……ともまた違う。もっと低くて重い……不安にも似た焦燥感。
 キラキラ輝くそれとは違う。けどそれは確かに、恋。

「またあしたね」

 まだ雫を見ないのにカサを差す藤真がもう片方の手の先で私の指先を掴んでいる。
 足はもう帰り路を歩もうとしていて、体は半分歩いてきたばかりのほうを向いているけど、その指先だけがまだ離れないまま。

「あしたな」

 何度も何度も踏ん切りつけるんだけど。
 カサをくるくる。あしたのほうを見ては今日に戻って。時間を引き延ばして。
 ポツンとカサを叩いた雫の音で、藤真は指先を離した。

「……これから家までがまた寂しいんだ」

 藤真がまた口先を尖らせる。
 寂しくて、怖くて、不安で、嬉しくて、満たされて、ふと笑った。

 高くても、低くても。明るくても、暗くても。違う空でも。雨の匂いがしても。
 私があなたのあしたになれるのなら。
 私はずっとカサの下で待ってる。





あしたになれたら