あなたの蒔いた種でした




 初めて、心臓が左胸にあるんだと教えられたのは、去年の7月のこと。
 高校生になって2回目に回ってきた日直で、黒板を埋め尽くすほどの白い文字を消していたら。

『貸して』

 一瞬聞き取れなかったその言葉の次に、黒板消しを持つ私の右手に軽く覆い被さった誰かの左手。
 パッと右側を見ると目の前には髪の短い男の子がいて、その人は私より少しだけ背が高いくらいで、でもそんなに変わらなくて、なのに私から黒板消しを取って高いところを背伸びして消し始めた。

『いいよ、届くから』
『高いとこって粉かかるから嫌だよね』
『あ・・・ありがとう』

 私もそんなに背が低いわけではないから背伸びすれば上の方だって届く。
 けど彼の言うとおり、高いところはチョークの粉が降りかかるから嫌だった。
 鼻と口を押さえながら黒板を消していた私を発見したんだろうか、彼は黒い板に広がる白い文字たちを全部消し去ると丁寧に黒板消しまで掃除して、彼の動作を見つめ立ち尽くしてた私に振り返り「いいよ」とささやかに笑った。

 彼を心の真ん中に置くようになったのは、親切にされたからだろうか。 
 彼の左手が、ほんの少しだけど私の右手に触れたからだっただろうか。
 彼を目で追うようになり、目が合うと避けるわけでも無視するわけでもなく、ほのかに笑い返す彼に私の心臓はキュッと締まった。朝、どんなに眠くても、部活の朝練を終えた彼に爽快な声で「おはよう」と言われると眠気も一瞬で吹き飛んだ。誰にでも優しく接することができる彼が他の子の荷物を持ってあげてたり、背の低い女の子の代わりに黒板を消してあげてたりするところを見ると、泣きそうになるくらい心がもやっと曇った。

 彼の言葉、仕草、動作、ひとつひとつに私の心臓はピクリと反応した。
 きつく締まったりドキドキ早鐘を打ったり死んじゃうくらい静まったり。
 もう平穏な頃には戻れない。痛いほどその存在を訴えかけてくる、左胸の心臓。
 それを教えたのが、神宗一郎だった。



「コーラの人もっかい手ぇあげてー」
「はーい」
「コーラ3、ポカリ2、お茶1、デカビタ1・・・よし」
「私も行こっか?」
「へーきへーき、いってきまーす」

 左手の甲にボールペンでそう書きつけ、黒板に磁石で貼られた千円札を取って教室を出た。
 文化祭での出し物の準備に追われるクラスはホームルームも放課後もすべてその時間に充てて着々と進んでいく。協力的なクラスでよかった。そうでなければ私なんかが実行委員になってこうもスムーズに作業が進むことはなかっただろう。今日も部活のない子は居残りで作業をしてくれているし、何より楽しそうにやってくれてる。その様子を見た先生が残ってるみんなにジュースをごちそうしてくれると千円札を置いてってくれた。

 みんなの欲しいものを左手の甲に記し、1階まで下りてきて食堂に入り隅に置かれた自動販売機の前に立った。左手を見ながらコーラとポカリとお茶とデカビタがあるか確認して千円札を挿入、赤いランプがついたボタンをひとつ押すとガランと大きな音を立てて缶が落ちてきて、その後ガチャンガチャンとおつりの小銭が排出された。おお、そうか、いちいち入れなきゃいけないのか。
 取り出し口からコーラの缶を取り出して、おつりも取って再び120円を投入する。またランプはついてコーラのボタンを押し、落ちてきた缶を取ってまた120円を入れる。・・・それをくり返すうちに私の左手は缶でいっぱいになり、あれ?ポカリは何本だっけ?と左手の甲を見ようとしたけどなかなか見れない。これじゃいけないと私は缶を全部右手に持ち直し、他の作業を全部左手ですることにした。

「おもっ・・・ああっ」

 5本、6本・・・と増えていくにつれ私の右手への重圧が激しくなっていく。
 それに耐えつつ小銭を入れていると、握りが甘くなった掌から抜け落ちた小銭が音を立てて床に落ちしかもコロコロと転がり散乱してしまった。120円は入れたからボタンはランプがついている、しかし小銭はまだコロコロ転がっている、そして右手は重い・・・。まずどれをやっつけるべきなのか、あたふたしているとうしろから「」と声をかけられた。

「何してんの、大丈夫?」

 その声が誰のものかなんて、当然振り向く前に分かった。
 また私の左胸で心臓がざわりと騒いだから。

「神くん、お願いデカビタ押して〜!わあっ!」
「全部持ったままやらなくても・・・」

 小銭を拾うことを優先すると、しゃがんだと同時に私の右手からコーラがこぼれ落ちてガンと床に転がった。ひぃっ、よりによってコーラ!そう嘆く私に神くんは「あーあ」とため息つきながら指示を待っている自販機のボタンをピッと押してくれた。

「ひとりで出来ることと出来ないことがあるんだよ」
「ジュース買うくらいひとりで出来ます」
「持ててないじゃない」

 落ちてきたデカビタの瓶を取り出し、神くんは「これで全部?」と私に聞いてきたから私は数本の缶を抱えたまま左手の甲を見た。コーラが3本、ポカリが2本、お茶が1本とデカビタが1本・・・よし、これで全部だ。そう確認すると、神くんは私の手から缶を数本取り半分以上持ってくれた。

「けっこう残ってるんだな」
「うん。田中くんと早川くんと池内くんと、ユキちゃんと有本さんとマミと川ちゃん」
「・・・1本足りないけど」
「え?123、4567」
のは?」
「・・・」
「はい、戻ろうね」
「いや、もういいよ、私のは!」

 すでに自販機の前から歩き出してた神くんはくるりと方向を変えて食堂の隅に戻っていく。引き止める私に振り向きながら「一番頑張ってるのはだろ」って、手招きした。

「神くん、部活は?休憩中?」
「うん。でもランニングになったから抜けてきた」
「えっ、なんで?」
「準備手伝おうと思って。ランニングなら練習終わった後でも出来るから」
「駄目だよ、部活行きなよ!」
「だってクラスの出し物なんだから、手伝うよ」

 またパッと赤いランプを灯した自販機の前で、ミルクティ?って神くんが聞いたから、私は神くんを見上げたままうんと頷いた。
 うちのクラスは部活をやっている子がとても多い。特に男の子はバスケ部員がけっこういる。バスケ部の子はまず放課後にフラフラ遊んでることなんてありえないし、学校行事といえど部活を休む子はまずいない。

 そういえば、最初神くんがバスケ部と聞いたときはものすごく驚いたっけ。
 だって1年生の時の神くんは背も私とそう変わらなかったし、手足も、体だって私より細・・・かったくらいだし。とてもあのバスケ部に入る人には見えなかったんだ。バスケ部の人はみんな背が高くて体が大きくて強そうな人ばかりだった。神くんなんて、吹っ飛ばされてボキッと折れちゃうんじゃないかって、キャアキャア黄色い声が飛ぶ応援の中で私はいつもハラハラしながら練習や試合を見ていた。
 でもあれから1年以上が経って、神くんは背が伸びて体もしっかりとした体格になってもう立派なバスケ部員になっている。あの頃の神くんから誰が想像出来ただろう、あのバスケ部でレギュラーまで獲得し、まさに努力と根性で王者と呼ばれる海南バスケット部で無くてはならない存在にまでなってしまった彼を。

「誰も神くんが手伝わなくても文句言わないよ」
「文句言われたくないからやるんじゃないよ。やりたいからやるだけ」
「そんなことしてたらバスケ部の人に怒られちゃうよ?レギュラー外されちゃうよ?」
「はは、そんな制度ないよ」
「ていうか神くんが大変だよ。練習きついのにその後でランニングなんて、それからシュート練習もしちゃうんでしょ?」

 こうして部活を抜けてきてくれたり、休み時間は全部文化祭の準備に充ててくれたり、朝早くきて出来なかった分をやってくれたり・・・。クラスのみんなが分かってる、神くんは大変だって。なのにこうしてクラスのために動いてくれる。他のみんながあんなにも協力的なのは、神くんのおかげというのが一番大きいと思う。

ががんばってるからだよ」

 ガコンと落ちてきた缶を取りだす。ミルククラウンがパッケージの甘いミルクティ。
 私もっと持てるのに、神くんのほうがいっぱい持ってくれてる。私がここの自販機を使う時はいつもミルクティだって覚えてくれてる。私を助けようと、私のためになろうと、何も惜しまず優しさをかけてくれる。自分のことは後回しにしても。自分の大変なことはぜんぜん話さないのに。こういうところが、たまらなく好きだ。

「私・・・もっとがんばる」
「うん?なに急に。はがんばってるよ」
「じゃあもっとがんばる。神くんに心配されないくらい」
「俺?」
「なにがんばっても、どんだけがんばっても、神くんはもっとがんばってるから。だから私・・・もっとがんばる。いっぱい、何かやる」
「うん、よく分かんないけど、ほどほどにね」
「もーそうやって力抜けるようなこと言うからぁ!」
「はは」

 私はぜんぜん何の取り得もないし、何かに必死になったことも夢中になったこともない。学校行事だっていつもひっそりとクラスの端っこに引っ掛かるように参加してただけで、とても実行委員だとかみんなをまとめるだとか、そんな場所に立ったことなんてなかった。
 でも神くんのそばにいると、私も何かしなきゃって気持ちになる。何かがんばらなきゃ、何かやってみせなきゃ。何か、何か。何でもいいから、誰かに認められなきゃ。隣に立つ人が、こんなにがんばってる人なんだから。

「そうだ。ひとつ、言いたいことがあるんだけど」
「え・・・なに?」
「言っとかないと踏ん切りつかないから、区切りっていうか、決意としてね」
「うん?」

 缶ジュースを抱えながら練習着姿の神くんの隣を歩く。
 同じくらいだった身長は見上げないと目も合わないくらい離れて、押せばよろよろしそうだった体つきは微動だにしないくらいしっかりとした、男の子というよりは完全に、男の人、という感じになってしまったけど。

「俺今日からじゃなくて・・・って呼ぶことにする」
「え・・・」
「なかなか呼べなくて、でもこれ以上時間かけちゃうのも悪いなって思って。1ヶ月もかかっちゃったけど」
「いえ、そんな・・・」

 だけど、彼の持つ素直な優しさやささやかな笑みや不器用な勇気はそのまま存在している。私はそんな人に胸をときめかせたことを、今ではとても誇らしく思う。そんな人に名前で呼ばれることは、とんでもない奇跡だと。


「はッ、はい」

 まるで深い名言のように噛みしめて呼ばれて、思わず返事は裏返った。
 そんな私にふっと笑って、神くんはジュースの缶を全部片手で持ち、空いた左手を私に差しだした。

 私は、あなたの隣にいるなんて、奇跡だと思うのに。
 今でも笑いかけられるだけで、夢だと思ってしまうのに。
 差し出された手に涙してしまうのに。
 触れたら、全部覚めてしまいそうで怖いのに。

 神くんは、そんなの全部飛び越えて、私の手を取ってくれる。

「覚えてる?1年の夏くらいに、が日直で、黒板消してて」
「う、うん」
「あの時・・・黒板の上のほうに手を伸ばしてたから、こう、制服の裾が上がって・・・」
「え?」
「それを他のヤツが見ててさ・・・、俺、嫌だなって思って」
「何それ、知らなかった・・・」

 それはただの彼の正義感だったかもしれない。私じゃなくても彼はそうしたと思うから。
 でも彼は言ってくれる。あれが最初だった。気になって、ずっと見てたら好きになった。
 付き合おうと言ったときにはお互いいっぱいいっぱい過ぎて言えなかった、最初のこと。

「誰にも見せたくない」

 頬が熱い。泣きそうなくらい。
 左胸が痛い。死んじゃいそうなくらい。

「俺もがんばる。だから、俺のこと嫌いにならないでね」
「・・・あ、ありえない」
「はは」

 嬉しそうに笑う。愛しさを込めて見つめる。嫌いにならないでと祈る。
 ずるい。それはずっと、私の役目だったはずなのに。

「おいおいー、なに手ぇ繋いでんだよそこふたりー!」
「え、うそ、なに?いつの間に!?」
「バーカ知らなかったの?」
「神見てりゃバレバレだよな」
もねー」

 突然教室からわっと顔を出したみんなにドキッと驚いて缶ジュースを落としてしまう。
 わ、と小さく驚きながらも神くんは私の右手を離さなかった。
 左手の温度が右手を伝い、心の底まで染み渡る。
 手が届く距離にいる。眩暈しそうなくらい毎日がキラキラ光っている。

 それも。これも。





あなたの蒔いた種でした