Mellow cage




学年が一番上に上がっても変わるものはさしてない。
上から押さえつけられるような圧迫感からは解放されるものの、押さえつけるものがなくなることは必ずしもいいことばかりではない。先輩という抑圧は自制をなくさせ、幅を利かせて大きな態度を振りまく同級生はなかなか鬱陶しいものだ。自由とは必ずしも幸せばかりを運んでくるものではない。たとえば小学校の時の自由研究なんて、その題材を決めるだけで1か月はかかった。せめて理科か社会かくらい決めてくれればいいのにと思っていた。人は、多少の抑圧や制限があって文句を言ってるくらいがちょうどいい。

「じゃあ今日一度材料探しにいこっか」
「そだな。今日ヒマなの?」
「うん、いいよ」
ってチャリだっけ?」
「んー、うん、自転車で行こ」
「なんだよその間は」
「大丈夫大丈夫」

数枚のプリントと買い出しのリストを両手に溢れさせながら廊下を並んで歩く。新学期早々のイベントである記録会の実行委員に名乗り出たのはただの暇つぶしだった。おかげで最近の放課後は毎日ミーティングや準備に追われ家に帰るときには日が暮れているのがザラだ。家に帰ればごはんを食べてお風呂に入って肌のお手入れしてドラマ見ながらストレッチして、そしたらもう寝る時間。朝までぐっすり。素晴らしき健康生活。

「じゃ放課後下駄箱で待ち合わせでいい?」
「オッケー」

同じクラスのもう一人の実行委員である風間と買い出しの約束をしながら教室までを歩いて行く。昼休みの廊下は陽気の良さも手伝って人であふれていた。ざわざわ騒がしい廊下を歩いていくと向かい側から歩いてくる人の中から人一倍ずば抜けてる頭を見つける。いつからかあれはひとつの目印と化していた。だってあの目印の隣にはかなりの高確率で、あいつも一緒にいる。

「やっぱたすきは赤がいいよね赤が」
「Tシャツは白でいいよな、ペンキも買ってくか?ラクガキとかしたいじゃん」
「体育祭じゃないんだからそこまでする?」
「いーじゃん、3年初のクラス行事だし盛りあげよーぜ」

じゃあいっそ旗も作るか、とケラケラ笑いながら買出しリストに次々と買いたいものを書き足していく。そんな風に盛り上がって歩いていると、向かいから近づいてきてた大魔神・赤木の隣をすっと通り過ぎた。それはつまりあいつの横を通り過ぎたことにも当てはまって。

、木暮とケンカでもしてんの?」
「え?ぜんぜん、なんで?」
「だって今フツーに素通りしたじゃん。気付かなかった?」
「気づいてるけど、わざわざ廊下ですれ違うたび声かけたりしなくない?」
「そうかー?付き合ってるなら声くらいかけるだろー」
「そうかな。まぁでもあっちもそんなのいちいち気にしないよ」

まぁ、確かに、付き合いだしたばかりのころなら廊下の果てでも見つけたら駆け寄ってったかもしれない。付き合いだしたばかりじゃなくても廊下ですれ違えば声はかけなくても目くらい合わせてた。それすらもしなくなったのなら確かに、ケンカでもしたかと思われても仕方ないかもしれない。

「てか木暮とケンカとかすんの?想像つかねーな」
「うーん、しないね。怒らないもんあいつ。やさしー人なの」

廊下で素通りしよーが、男の子と楽しそうに話してよーが、そんなことに目くじらを立てるような心の狭い男ではない。私が今実行委員してることを話していなくたって、大会が近くて忙しいあいつのバスケをちっとも見に行かなくたって、あいつは何も言わないだろう。

もうなんで?とか、どうしてとか、そういう時期は過ぎてしまったんだと思う。

「あ、しまった」
「なに?」
「言わなきゃいけないことあったんだった。ちょっと行ってくる」

でもさすがに自転車借りてくことは言っとかないとな。鍵も借りないといけないし。
そう思って私は来た道を戻ってあの飛び抜けた目印を探した。
小走りに廊下を走っていくと階段を下りていく赤木と公延の背中が見えて、それに駆け寄り背中からシャツを引っ張ると公延は振り返り私を視界に入れた。眼鏡の奥に見える目が少し丸く和らいで、いつも私を見下ろすときの目になる。今は階段のせいで私のほうが目線は高いけど。

「どうした?」
「あのさ、今日部活遅い?」
「ん?いつも通りだけど、なに?」
「自転車借りたいの。部活終わるまでには帰ってくるから」
「ああ、いいよ。でも今鍵持ってないからまた後で渡すよ」
「うん」

穏やかな口調と話し方。棘のない所作と雰囲気。
私はこの人格の良さに惹かれ確実に好きになった。
この人がくれるやさしさが好きでたまらなかった。

・・・だから、これは、わがままなんだろう。

「木暮、先に行ってるぞ」
「え?あ、ああ」

どう見てももう話は終えたというのに、赤木は公延を置いて先に階段を下りて行ってしまった。教科書を持ってるあたり、次は移動教室なんだろう。昼休みが終わる予鈴も響いているから私も教室に戻らなきゃいけない。

「なに?」
「ん、いや、なんか、気に入らなかったらしい」
「なにが?」

公延が言うには、私が公延の横を素通りしたことが、なぜか赤木が気に入らなかったらしい。それも男と騒いでて声をかけるどころか目も合わさないなんて・・・と。

「赤木がそんなこと思うのってちょっと・・・」
「ちょっと?」
「気持ち悪い・・・」
「はは、あいつも意外とロマンチストなんだよ」
「へー・・・」

あんな顔して(顔は関係ないか)あんな図体して(図体も関係ないか)、彼女が自分を見なかったり他の男と話してたりするのが気に入らないなんて、見かけによらず赤木はとんだロマンチストだ。それが自分じゃなく友達のことでも気になるなんて、友達思いなのか、それとも恋人同士というものにとっても大きな夢を抱いているのか。(どちらにせよやっぱりちょっときもちわるい。)(ごめん赤木・・・)

「それで、一言文句でも言ってやれとか言われた?」
「そんなこと言われてないよ」
「公延も気分悪くなった?」
「ううん」

だろうな。この人はそんなことでいちいち怒ったりしない。
ううん、怒っていたとしても、それを直接私にぶつけることはない。
もしかしたらこの人は、私に他に好きな人が出来たら、すんなりと私を手放して私の幸せを願うかもしれない。私のわがままも文句も、その深い懐で何でも受け止めてしまう人だ。私の願いは聞き入れたいと、私の言うことならできる限りかなえてあげたいと思う、やさしい、やさしい人。

「自転車でどこ行くの?」
「買い出し」
「買い出し?なんの?」
「記録会の準備」
「あそっか、実行委員になったんだもんな。最近忙しそうだな」

・・・知ってる。言ってないのに。
私の知らない間に私のことを理解して、私のやることをきちんと見てて、私の気持ちをしっかり汲んでくれている。
その深い深い愛情の持ち方に、私は惹かれたはず。
そんなあなただから、好きになったはず。
なのに、そのやさしさが不満だなんて、わがまま。

「じゃあ風間も実行委員なのか」
「うん」
「最近よく一緒にいるなって思ってた」
「浮気かと思った?」

廊下に二度目のチャイムが鳴る。お昼の授業が始まってしまった。
しばらく鳴り響くチャイムの間、公延はほのかに微笑んだまま黙って、一歩階段を上がる。

「もし、例えばの話、が他に好きなやつが出来たって言うなら、俺は考えるよ」
「なにそれ、なに考えるの?」
「考えるよ、いろいろ。でも浮気なら俺は怒る」
「・・・」

私のほうが高かった目線はだんだん同じになって、次第に元の高さになっていく。
そうして見下ろされる目はいつものように優しい弧を描いてはいなくて、彼らしく穏やかではなくて。
それは確かに公延なのに・・・その時私は公延に、怖気づいた。

これがそうなんだ

初めて気づく。

「今、怒ってる?」

静かな廊下に、公延のふと笑う息がこぼれる。
あ・・・もう元に戻った。

「苦手なんだよ、に怒るのは」

甘くてやわらかくて穏やかな、あったかい人。
彼の99パーセントはやさしさでできている。

「さっき通り過ぎたときは怒った?」
「・・・実は、かなり」

残り1パーセントのやさしさの途切れで、ひどいけど、私の中の公延がこれまでのいつより満ち渡った。
足がすくんで動けないほどに。

キスが少し痛かったのは、初めてのこと。





Mellow cage