カレードスコープ




メガネの淵を両手で持って、ガラスの向こうの世界を凝視したり、離してみたり、頭の上にかけてみたり。彼女は慣れないメガネの世界を楽しんでいた。

「木暮って、いつからメガネなの?」
「ずっとだよ、小さいときからずっと」
「そんな小さいときから目が悪かったの?」
「うん」

邪魔だったでしょ。
はセーターの袖で半分隠れた指先でまたメガネをかけて、教科書の文字を追いかけ始める。手に持った教科書を間近からだんだん離していって、このへんでやっとまともに見えるという彼女は、メガネなんていらない十分な視力を持っている。

確かに、メガネは邪魔だ。
小さい頃は友達とオニゴッコをしていてもメガネを落としてしまって俺ばかりが捕まっていたし、授業中に少し眠くなってこくりと頭を揺らすと真っ先に落ちていくから気が抜けないし、もちろんバスケにはとてつもなく邪魔だし。

「だめだ、こんなのずっと付けてられない」
「慣れない人にはつらいんだろうな。俺はもう体の一部みたいなものだから」
「コンタクトにしないの?」
「コンタクトは高いからな、手入れとか手間かかりそうだし。それに直接ガラスを目に入れるっていうのがちょっと怖い」

ふふと笑っては、メガネを外して目を押さえごしごし擦る。
しまったマスカラが、とパッと手を離し、パンダになってしまった目元を気にして手鏡を覗いた。
がさっきからつけたり外したりして遊んでいるのは、俺のメガネ。
目がいい彼女にそれは不慣れで、たった数分も耐えられない。

「メガネつけてると何となく目大きく見えない?オトクじゃん。ほら、のび太くんてメガネつけないと目ちょぼってしてるじゃん」
「まぁ人相は変わるよな。やっぱ目で顔の印象変わるし」
「だーよねぇー!睫毛長い子ってメガネに当たるからいやなんだって。そんだけ長い睫毛くれって感じ」
もまつげ長いじゃないか」
「あーダメダメ、偽まつげだから。昨今の化粧品をナメちゃいかんよ、8割繊維」
「はは、ほんとに?」
「ほんとだよ、もしかしたら小暮のほうが長いんじゃないって、自分で言ってて屈辱だわ」
「化粧なんてしなくてもいいと思うけどなぁ。そのままでも十分だと思うよ」
「アンタ私の素見たことあんのかい」
「あるよ、体育祭の時とか豪快に化粧取れてるじゃないか。去年の体育祭の写真あるよ」
「ひ!捨てろ!」
「ははっ」

に限らず、やっぱり女の子にとって顔はこの世の何より重要なもので、たった数ミリの差しかないはずのパーツひとつで一喜一憂の毎日なんだそうだ。目の周りをやや大きめに黒く縁取って影をつけてさらに大きく、睫毛を極限まで伸ばしてカールさせるその化粧は必需品。俺のメガネと同じ、なくてはならないもの。

「でもさー、家帰ったらもう真っ先に化粧って落としたいし。これずっとつけてなきゃいけないのってすごくストレスだわ」
「同じだよ。ただそれがないと教科書もロクに見えないしね、もう当たり前すぎて苦だとは思わないよ。今じゃ逆にないと違和感ていうか、落ち着かないしな」
「うーん確かに、メガネのない木暮はなかなかレアだね。意外とかっこいーんだね木暮って」
「は、やめてくれよ」

メガネのない顔を見られるのは、大げさに言ってみれば着替えを見られているような感じで、無性に恥ずかしくなって俺は笑いながらふと目を逸らした。隠すなよーとは俺の顔を隠す手を取り払おうと机越しに身を乗り出して、俺はその手から逃げて。誰もいない放課後の教室、ふたつだけの笑い声が響いた。

「メガネないとどんだけ見えないの?」
「まったくだめだよ、視力0.2いかないからね。ほぼ何も見えてない」
「ええーそんなに?じゃあ今私も見えてないの?」
「ん、ぼんやりとだけしか見えてない」
「ええーそれはヒドイなぁ」

はい、とが俺にメガネを返す。
それを受け取って俺がメガネをつけると、は「いつもの小暮になった」と俺を指さして、笑った。

ああやっと、はっきりと見えた。
彼女がつけて遊んでいたメガネは、なんだかちょっと別のメガネみたいで、少しだけ違和感。

「んーやっぱりこの木暮のほうが落ち着くなぁ」
「俺も落ち着くよ。やっと日誌が書ける」
「ジャマしてすいませーん」

すぐ目の前に、さっきまではいまいちよく見えなかったが見える。
ガラス越しの視界はいつも通りなんだけど、視界が冴えて実はこんなにすぐ目の前にがいたことに気づくと、今度はまた逆にはっきりと見えるこの視界がだんだん恥ずかしく見えてきた。

「メガネつけてるとやっぱキスするとき邪魔?」

はっきりと彼女は笑顔のまま、臆面なくサラリとそんなことを口にする。

「は・・、知らないよ、そんなのしたことないから」
「あは、顔が赤いぞメガネくーん」
「からかうなよ」
「テレるなよー」

ケラケラ笑う彼女にとってそれはまるで深い意味なんてない。
そんな言葉に、俺だけ踊らされてる感じで、少し気分を害す。

「試そうか」

静かな静かな放課後の教室。窓から見えるグラウンドじゃ野球部がキャッチボールをしていてサッカー部がランニングをしていて、でもそんなの遠く届かない、誰もいないオレンジ色した教室の、隅。

は笑ってた目を止めて、少しずつ笑顔を落としていって。
でもその次の瞬間にまた笑って全部をごまかそうとしたから、 俺はセーターの袖で隠れるの手を取って、目の前の少しマスカラが落ちた目を、まっすぐに見た。 触れられた手ではようやく冗談の笑顔を全部落として、散々伸ばした睫毛の目をぱちぱち、慌てだす。

「こ、木暮・・・」
「・・・」

俺はその手を離されないようにぐと力をこめて、机の向こう側まで。
身をすくめるが何かを言いかける。
それが何かを聞く前に視界を伏せた。
の匂いがした。

メガネはやっぱり邪魔だった。





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